韻踏み夫による日本語ラップブログ

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パンサーの亡霊たち――ヒップホップと68年――

君たちにブラック・パンサーの同志を殺し、ゲットーを戦車で押しつぶす権利があるのなら、我々にも、ニクソン、佐藤、キッシンジャード・ゴールを殺し、ペンタゴン防衛庁、警視庁、君達の家々を爆弾で爆破する権利がある(頭脳警察「世界革命戦争宣言」)

 

 銃が鳴り響くフッドに、ブルースを歌う。「Hood Gospel」のT-Pablowは、何一つ持たぬ身から成り上がった現在までを語る。「クソ貧乏な少年は隠してた/本音を隠すのをやめたらラップしてた」。しかし、それだけか。「武道館のネジをゆるますほどの低音」。ここではなぜ「ヒップホップ」でなく、「ブルース」「ゴスペル」と言われるのか。低音はそのような過去と響きあい、現在の「ネジ」をゆるめて、そしてその隙間からある歴史が漏れだそうとしているのではないか。

 「いまだ雨風にハスラーは打たれてる/伝説のギャングたちは無期か路上で撃たれてる」。無名のハスラーたちや伝説のギャングたちの追悼。そして次のような系譜について語る。「ラマーやJ.コールにとっての2パック/バンピー・ジョンソンがいてこそのフランク・ルーカス」。BLM時代を代表する二人のアーティストと、ブラック・パンサーがまいた種から「コンクリートに咲いたバラ」。そのような系譜と、二人のギャングの系譜を並列することはいささか奇異なようにも思えるが、むしろ正しいのはT-Pablowの詩的な歴史感覚の方なのである。ならって言えば、ブラック・パンサーがいてこその2パックであり、マルコムXがいてこそのパンサーである。このとき、T-Pablowは次のことを知っていたかのようである。マルコムXとバンピー・ジョンソンは40年代にすでにストリートで出会っており、60年代に再びジョンソンがハーレムに戻ったあとも二人の間には交流があったのである。

 これはヒップホップ的なポリティクスの話であり、革命の話である。ドゥルーズが言うような、革命的な極とファシスト的な極の間を揺れ動く流れ、ヒップホップとはそのような政治の場なのではないか。そのような系譜こそが語られねばならないのではないのか。

 

――「あなたは「ブラック・パンサー」が大好き/でもフレッド・ハンプトンのことじゃない」(Public Enemy「Fight the Power: Remix 2020」のRapsody)。69年2月、ブラック・パンサー党シカゴ支部議長フレッド・ハンプトンは、ある組織のピケ隊に加わり、ホセ・“チャ・チャ”・ヒメネスらとともに警察に取り囲まれた。その2週間後に、もう一度、同じメンバーで警察に囲まれたそうである。そのさらに2か月後の4月、ハンプトンは、プエルトリカンの革命組織ヤング・ローズ(Young Lords Organization)のリーダーたるヒメネスに、パンサーとヤング・ローズの提携を持ちかけたのだと、ヒメネスは証言している。他にチカーノ、白人、中国系などの革命組織をも巻き込んだ、ラディカル同士のカラフルな協力体制は文字通り「レインボー・コーリション」と呼ばれることになる。「すべての権力を人民に、とわれわれはいう――黒人にブラックパワーを、褐色の肌をした人びとにブラウンパワーを、赤色人にレッドパワーを、黄色人にイエローパワーを、ということだ。白人にもホワイトパワーを、だ。また前衛党にはパンサーパワーを、だ」(フレッド・ハンプトン「解放者は殺せても、解放運動を殺すことはできない」、フィリップ・フォナー編『ブラックパンサーは語る』)。

 あるメンバーの証言によれば、もともとヤング・ローズは「あっちでゆすりたかり、こっちでなぐりあいの与太者の生活」であったが、67年、ヒメネスが政治的意識をもってギャング的だった組織を作り直し、人民への奉仕をも始めた。そのニューヨーク支部ができるのは、ヒメネスとハンプトンが交流を深める69年のことであった。「当時彼ら[ニューヨーク支部設立者の大学生たち――引用者]は、街頭に出て、「街の兄ちゃん」連中と話しあい始めた、その連中こそ働きかけの相手だったからだ。麻薬常用者やヤクザ者やヒモやその他いろんな商売をしている人たちの支持が得られるようになった。それで街の兄ちゃん連中が変身し始めた。ちょうどそのときにニューヨークでYLOが組織されたんだ」(同前)。ここで証言されているニューヨーク支部の設立者の一人には、ラスト・ポエッツのフェリペ・ルチアーノがいた。

 パンサーもまた、「街の兄ちゃん」たちを組織しようとしていた。ルンペン・プロレタリアートこそが革命の前衛だと、彼らは考えていたからである。ジェフ・チャンのクラシック『ヒップホップ・ジェネレーション』にも次のような記述がある。天才的なオーガナイザーであったハンプトンは、「ブラックストーン・レンジャーズ、マウ・マウズ、ブラック・ディサイプルズといった有力ギャングと協力関係を結んでゆく。ギャングには、恐れられ、見捨てられた若者が集まっていた。もし彼らが貧しき者を強奪し、弱き者を威嚇し、罪なき人を傷つけるのをやめれば、革命を起こすに足る強力な力になり得る。ハンプトンはそう信じていたのだ」。

 そのようにして、チャンはサウス・ブロンクスが68年革命をどのように受け止めたのかを探りはじめる。ヤング・ローズは、70年初頭にサウス・ブロンクスへ入る。そこでは一時、革命組織とギャングの間の密接な交流さえ見られたが、パンサーやヤング・ローズは徹底的な弾圧にあう。革命の廃墟、それこそがヒップホップ誕生の背景であったと、チャンは言うのである。「ブロンクス・ギャングのストーリーは一九六八年から一九七三年の裏年表だ。これは革命の裏側であり、例外だったはずのものが、原則となった物語なのであ」り、その期間は「革命の五年になるはずが、実際はギャング闘争の五年となった」。ブロンクスにおいてそのように経験されたこの五年間は、他方、たとえばウォーラーステインらの世界システム論において、「反システム運動」が台頭する「67年/73年」の時代区分と重なっていることからも知れるように、世界史的重要性を持っている。さて、チャンは記している。「彼らにとって、可能性を感じられる空間は、ポリティカル・パーティ[政党]ではなく、ブロック・パーティ[野外パーティ]にあったのだ。/ギャングは、一九六八年の灰、瓦礫、血から誕生した。そして、その五年後、再び新たな展開が始まろうとしていた」。むろん、73年に始まるポスト68年時代の「新たな展開」とは、ヒップホップの誕生のことにほかならない。

 なお、チャンは同様に、西海岸におけるヒップホップの成立にも、68年の痕跡が残されていると見ている。ウェストコーストはパンサーの本拠地であるが、有名なギャングであったバンチー・カーターはエルドリッジ・クリーヴァーの知己を得て、パンサー党南カリフォルニア支部の長の位置につくことになる。そのカーターを慕っていたのが、かのクリップスを組織することになるレイモンド・ワシントンである。ラスト・ポエッツなどとともに、ラップというアート・フォームの源流に数えられることの多いワッツ・プロフェッツは、チャンが指摘するように、パンサー近傍にあり、政治的なポエトリーを録音した。実際『Rappin’ Black In The White World』(71年)では「時を掴めSeize The Time」「すべての権力を人民へ」などのパンサーのスローガンを引用している。

 

 ヴォルフガング・シュトレークによれば、新自由主義下の個人に求められる行動とは、「対処すること(コーピング)、希望すること(ホーピング)、薬を摂取すること(ドーピング)、買い物をすること(ショッピング)」である(『資本主義はどう終わるのか』)。自らの世代を「セクション80」と名付けたケンドリック・ラマーは、「ロナルド・レーガン・エラ」の私たちの荒廃を、まさにそのようにして描いた。

 パンクバンド、ザ・クラッシュのアルバムでも知られるニカラグアのサンディニスタ革命がアメリカに与えたショックは、キューバ革命のそれに似ていたとも言われる。事実、サンディニスタはキューバ革命に影響を受けてもいた。レーガンが一方では「ドラッグとの戦争」「ジャスト・セイ・ノー」などと掲げながら、間接的に、インナーシティにおけるクラックの蔓延の後押しをしていたという欺瞞について、「イラン・コントラ事件」のスキャンダルとともに疑われている。そうでなくとも、「レーガン・エラ」に加速した新自由主義的、「割れ窓理論」的な支配が、レイシズムと絡み合いつつ、ヒップホップの土壌となるコミュニティを真っ先に取り締まったことは確かである。「ギャングスタ・ラップ(あるいはリアリティ・ラップとでも、なんと呼んでも構わないが)はクラックの爆発的な流行が生んだ直接の副産物である」(ネルソン・ジョージ『ヒップホップ・アメリカ』)。

 第三世界主義の立場をとるパンサーは、言うまでもなく、カストロゲバラに多くを学んだ。他方、まさしく「レーガン・エラ」に、一人の人物が、カストロ政権下のキューバからアメリカに到来する。トニー・モンタナである。モンタナというファシストは、おそらく最も革命的なフィギュールでもあるのだ。革命の、パンサーの代補としてのヒップホップというジェフ・チャンのビジョンがありうるならば、トニー・モンタナはゲバラの代補として捉えられなければならない。

 「どのようにして私たちはブラック・パンサーをストップさせてしまったか?/ロナルド・レーガンは答えをでっちあげた」(「Crack Music」)。ここでカニエ・ウェストが言うのは、クラックによるコミュニティの破壊についてである。しかし、レーガンはそもそも、ブラック・パンサー活動期に、その本拠地カリフォルニア州知事をつとめ、コインテルプロなど、徹底的な弾圧に直接加担した「ピッグ」の一人なのであった。カニエが暴こうとするように、このことは、現代の新自由主義的支配が、68年の反動であるというナラティブをヒップホップ的に再確認するものでもある。だからこそ、アルバムの最後に配置された「HiiiPower」の三つのフックで、ケンドリックは三人のパンサー(ヒューイ・ニュートン、ボビー・シール、ハンプトン)の名前が落とすのであろう。「フレッド・ハンプトンがキャンパスに/あなたは彼のハイパワーには抗えない」。

 

 1962年、ジェームズ・メレディスミシシッピ大学入学をめぐって、レイシストたちは暴動を起こす。「彼がオックスフォード・タウンへ行くと/銃と警棒が彼を追いたてた/なんといったって彼の顔がブラウンだったから/オックスフォード・タウンからは出ていった方がいい」(ボブ・ディラン「Oxford Town」)。この一事から、メレディス公民権活動家として知られてゆくことになる。そのメレディスが銃に撃たれ、命はとりとめたものの、自らが計画した行進を諦めざるをえなくなったのは、66年のことである。この「恐怖に抗する行進」を引き継ごうと駆けつけたのは、マーティン・キング、ホイットニー・ヤング、そしてすでに公民権運動のリベラル的不徹底さに不満を抱きつつあった若い世代のストークリー・カーマイケル(SNCC)やフロイド・マキシック(CORE)らである。ここで行なわれたカーマイケルの「ブラック・パワー」スピーチ――「道をあけてくれ。さもなければ君たちを踏み越えて前進するからな!」(ストークリー・カーマイケル『ブラック・パワー』)――はいまだ伝説的なものとして知られるとともに、穏健派で旧世代のヤングらと衝突を引き起こした。公民権運動からブラック・パワーへと運動の中心が移動する象徴的な事件として、この「メレディス行進」は位置付けられている。要約的に言えば、「セグリゲーション」から「インテグレーション」へ、というのが公民権運動的であるとすれば、ブラック・パワーは「インテグレーション」の欺瞞を批判し「セパレーション」を戦略として立てたわけである。。

 1968年2月、ストークリー・カーマイケルはブラックパンサー党首相に任命される。ヒューイ・ニュートンは、拡大する党をより強固に組織するために、SNNCとの合同を持ちかけたのであった。しかしながら、カーマイケルらとパンサーの思想は食い違いを露呈させ、早々に決裂する。パンサー党情報相エルドリッジ・クリーヴァーは、カーマイケルのブラック・パワーに内在する「白人支配恐怖症」を指摘し、そのナショナリズムを「文化的民族主義」と断じている。さらに、ブラック・パワーはいまや「黒人資本主義」として体制に取り込まれようとしているとさえ見抜いていた。「敵にもわれわれにも見えていて、きみ[カーマイケル――引用者]にだけは見えていないらしい一つのことは、黒人、白人、メキシコ人、プエルトリコ人、中国人、エスキモーなどの革命的分子が、状況に即応していける何らかの機能的組織に統一されないかぎり、合衆国にはいかなる革命も、黒人解放もありえないという点だ」。必要なのはナショナリズムではなく、マルクス・レーニン主義をもとにしたマイノリティ間の連帯である。「ただ民族主義にのみ立脚して解放闘争を進めた国は、みな資本主義と新植民地主義の犠牲となり、その多くが以前の植民地体制と同じように圧政的な暴政の下におかれている」(『ブラックパンサーは語る』)。

 ネグリ=ハートは言っている。「民族が進歩的なものであるのは、あくまでもそれがより強固な外的諸力から自分を守るために固められた防衛線である限りにおいてなのだ」。それゆえ、そのように進歩的なサバルタンナショナリズムには、他方で「反動的な影が避けがたく附随している」。「ブラック・ナショナリズムがその基盤としてアフリカ系アメリカ人の画一性と均一性を(たとえば、階級的差異を覆い隠しつつ)措定したり、あるいはそれがコミュニティの一部分(アフリカ系アメリカ人男性のような)を事実上その全体を代表するもにとして指し示したりする」(『〈帝国〉』)。

 至当にもSNNCとCOREのナショナリズムと資本主義を批判するエルドリッジ・クリーヴァーは、性差別主義者でもあった。というよりも、実際に彼は白人女性をレイプし、それが若き日の彼にとってレイシズムへの、世界への抵抗のつもりであったと語るだけでなく、白人女性を犯す前に黒人女性で「練習」したとさえ打ち明ける。彼のパンサー入党以前のベストセラー『氷の上の魂』に読まれる、悪名高い挿話である。むろん、レイプについて反省は見せるものの、作家、革命家として知られてからもミソジニーホモフォビアは拭えなかった。

 70年頃には、クリーヴァーはニュートンを「日和見主義」的だと批判することになる。パンサーの名高いコミュニティ奉仕の生存プログラムは、党の議長ボビー・シールの力によるところが大きいと言われるが――「ボビー・シールは飯を作る/あなたは彼のハイパワーには抗えない」――、それは「人民に奉仕せよ」との毛沢東のスローガンを「実践」したものであり、革命と結びつけられたものではあった。対して即刻暴力革命を望むクリーヴァー、白人ラディカルらはニュートンらのそうした党の方針に不満を抱き始めたが、ニュートンが言うように、「小児病」的だと言わざるをえまい。日本におけるパンサーの最良の紹介者である酒井隆史は、この対立を「主権的な線」、つまり「(国家)権力を獲得するのか」と、「非(反)主権的な線」、つまり「(国家)権力の獲得を拒否し、むしろ、みずからが力そのものになることを選択するのか」(『暴力の哲学』)とパラフレーズしている。

 このニュートンとクリーヴァーの対立に、ひそかな別の線を読み込もうとするのは、ゲイ・スタディーズの古典『ゲイ・アイデンティティ』の著者、デニス・アルトマンである。リロイ・ジョーンズなどとともに、クリーヴァーもまた、きわめて性差別的であったことが詳細に検討されたあとで、アルトマンは、70年に発表されたニュートンの、あるきわめて重要な声明を拾い上げる。「女性解放運動とゲイ解放運動」(https://www.blackpast.org/african-american-history/speeches-african-american-history/huey-p-newton-women-s-liberation-and-gay-liberation-movements/)というその文章でニュートンは明確に言っている。「同性愛者と女性における(私は同性愛者と女性を抑圧された集団として言っているのであるが)同性愛と様々な解放運動について、あなたの個人的な意見や不安感がなんであったとしても、私たちはそれらと革命的な仕方で団結するようつとめなければならない」。アルトマンは次のような箇所を引くが、ニュートンの繊細な物言いは、彼の冷静な知性の一端を覗かせるかのようである。「同性愛者が革命家になれないわけがない。「同性愛者ですら革命家になれる」と言えば、わたし自身が持っている偏見を差しはさんでしまうことになるだろうが、ひょっとすると、それどころか同性愛者こそ最大の革命家たりうるかもしれない」。アルトマンは最終的にこのような評価を下している。「(……)黒豹党はゲイ解放を有効な政治的運動であるとはじめて認識した重要なラディカル集団である。この認識の重要性は二つある。まず、少なくともラディカルな白人同性愛者のあいだで自らの人種差別についての意識が上がるだろうことである。第二は、黒人コミュニティ内において同性愛者の迫害ではなく受容を促す態度が強化されることである。これらの意味において、ヒューイ・ニュートンは、ジェームズ・ボールドウィン同様、ゲイ解放の成熟に重要な貢献をしたと言うことができる」。ストーンウォール以後、台頭していたGLF(ゲイ解放戦線)は、この声明を受けてパンサーとの協力を模索しようとさえした。

 パリスや2パック、デッド・プレズ以上に思い出すべきは、あるいは、アーリヤ、クイーン・ラティファ、レフト・アイなど豪華な女性ラッパー、シンガーが集結した「Freedom」の一曲が映画『パンサー』のテーマであったことであり、またかの有名なビヨンセによる女性パンサーを模したスーパーボウルでのパフォーマンスでもあるかもしれない。そのような別の歴史が想像される一方で、同時に党内に色濃く残る男性中心主義を批判し、ときには党を出た女性たちの存在を忘れるべきではない。ニュートンのあとを継いで防衛相となったイレーン・ブラウンは、詩人でもありシンガーでもあった。ボビー・シールとともに投獄されたエリカ・ハギンズは言っている。「あらゆる種類の人間が必要なのです。老いも若きも、肌色の黒いのも、茶色のも、赤いのも、ベージュ色のも、どんな色の人間でもです。男も、女も、ゲイも……皆です」(アンジェラ・デイヴィス編著『もし奴らが朝にきたら』)。彼女に宛てた手紙のなかで、アンジェラ・デイヴィスは、「シスターフッド」の有効性を確認し、監獄内のジェンダー的な権力を分析している。デイヴィスがBLMのさなかで思い返すべき革命家だと言うアサタ・シャクール(「アサッタのメッセージの過去・現在・未来」、『現代思想』2020年10月臨時増刊号)については、コモン、パリス、2パックらも歌ってきた。そのように言うデイヴィス自身もまた、パンサーに随伴したフェミニストである。

 有光道生は、BLMが女性、LGBTQ、障害者、犯罪者らの「ライブズ」をも肯定する運動だということを確認したうえで、「ポスト公民権運動時代の変化」にはデュボイスの「二重意識」よりもむしろ「多重意識」を認識することの必要性を主張している(「今度は火だ」、同前所収)。これは、68年的な問題の現代的な帰結であり、人種だけでなく、階級、性、犯罪といった多様な線が通過したのは、パンサーにおいてなのである。

 

 パンサーがブラック・パワーから出てきたということは確かである。スガ秀実によれば、68年とは、「世界革命」なる「大きな物語」が、諸マイノリティの氾濫=反乱において不可能性に直面することであった。その意味で、「華青闘告発」と同様にブラック・パワーはアメリカ68年に決定的な影響を与えている(たとえば日本で華青闘告発がフェミニズムを活気づけたように、アメリカでブラック・パワーのスローガンはたとえば「ゲイ・イズ・グッド」などと流用されていった)。しかし、すでに68年の時点でそうしたアイデンティティ・ポリティクスが、「ポリコレ」的な、革命性を抜き取られたものに回収されてゆく傾向があったとスガは言う。まさに、パンサーがSNNCやCOREに見ていたものと同じことである。つまり、「そこで「反独裁の独裁」という問題が消えた時、つまり、例外状況における「主権」が、もはや問われない時、市民主義的な国民主権論が回帰してくるほかない」(『革命的な、あまりに革命的な』)。パンサーは、マイノリティの側から、しかし「社民化」を同時に退け、あくまで主権への問いを保持し続け革命を志向/思考するという点において、「革命的な、あまりに革命的な」68年そのものである。

 マルコムXは、彼一流のアイロニーを混ぜながら、自分は革命家ではないし、公民権運動も革命などではないと断言する。「白人社会は、白人が黒人にたいして犯してきた罪を、人が、とくに黒人が話すのを憎む。私があれほどたびたび「革命家」と呼ばれたのはそれが原因だと、まえまえからわかっていた。そういうと、まるで私がなんらかの犯罪でも犯したように聞こえるからだ!まあ、しかし、アメリカの黒人は、本物の革命でもやる必要があるのかもしれない」(『マルコムX自伝』)。革命とは「完全な変革――完全な変化」のことを言うのであり、たとえばアルジェリア革命などが「本物の革命の一例」である。「そうであるならば、アメリカの黒人が「革命」を起こしているなどとは、どう聞いてもほんとうとは思えないではないか。なるほど、一つの制度を非難してはいる――しかし、アメリカ黒人はその社会制度を転覆、破壊しようとしてはいない」。黒人運動の(「革命」などとは程遠い、最低限の)要求すら実現しない白人社会を厳しく批判するとともに、黒人のいっそうのラディカル化を否定しない両義性を巧みに含ませるマルコムの天才的なレトリックに瞠目すべき箇所でもあろう。さて、「真の黒人革命ならば、たとえば、アメリカ内部にべつの黒人国家を樹立するための闘争を課題とするかもしれないのだ」。

 革命家であるニュートンはこう振り返っている。「一九六六年一○月に結党した当時のわれわれは、いわゆるブラック・ナショナリストであった。(……)われわれがわれわれの民族だけから成るわれわれ自身の国家をつくれば、その時にわれわれの一民族としての苦しみはなくなるのではないかと考えたのである」(『エリクソンVS.ニュートン』)。しかし、それは誤った戦略であった。彼によれば、パンサーはさらに「革命的ナショナリスト」、「革命的インターナショナリスト」へと自己規定を変えて行き、最後には「インターコミュナリズム」なる現代資本主義論に至る。

 「革命的ナショナリスト」の時点で彼らは「国内植民地」論を手にしてはいた。アメリカの黒人ゲットーを植民地と見なし、国内には「分散した植民団」があると見なす。そこから、第三世界主義、「インターナショナリスト」へは一歩である。しかしながら、第三世界の抵抗は、ナショナリズムに負うところが大きかった。この齟齬をいかに考えるべきなのか。ニュートンベトナム人民のナショナリズムを否定しうるわけがなかった。それゆえ、一方でブラック・ナショナリズムを厳しく批判するインターナショナリストの立場から、しかしベトナムナショナリストを支持すると声明を出したが、それはニュートン自身には「なんだか彼らを見下げ、彼らを裏切っているように」思えた。だから「それから一ヶ月あまり、非常に不満で気が塞いでいた」。

 「インターコミュナリズム」はそうした矛盾を解決するものとして、ある朝突如ニュートンの頭に降ってきた。サバルタンナショナリズム的な、独立国家を求める革命という考えの誤りはどこにあるのか。「われわれの間違いは、過去において人民が新しい国家をつくったのと同じ諸条件が未だに存在していると仮定したことにあった」。現代資本主義は、べつの段階に至っている。過去の国民国家の時代において、植民地支配は直接的なものであった。「(……)支配下においた領土に行政官や植民者を送り、現地人から労働を搾取し地下資源を搾取するようになった。これが、われわれが植民地主義として知っている現象である」。しかし、その支配は強化され、やがて植民者は現地にいる必要がなくなる。「人民は、この侵略者の掌中に完全に組み込まれて、もはや、自分たちの領土が植民地であることにも気づかぬほどになっていたのです」。これが「新植民地」と呼ばれるものである。

 ニュートンの分析はさらに進み、こう断言するに至る。「現在ではもはや、植民地も新植民地もない」。「(……)もはや国家は存在しないも同然である。将来、存在するようになることも恐らくありますまい」。どういうことだろうか。「新植民地」と呼ばれているものが示しているのは、帝国主義の支配のシステムが地球全体に及んでいるということである。そこに外部はもはや存在しない。「そもそも、植民地化するということが可能ならば、植民地解放ということも植民地以前の状態に戻すということも可能であろう。ところが、領土が地球全体に広がり、いたるところで原料が搾取され労働が搾取されているという状態の中では、そして、地球全体の富がことごとく吸い上げられ帝国主義者の故国にある巨大な産業機械に供給されているという状態の中では、人民も経済もすっかり帝国主義者の帝国に組み込まれて、“植民地状態を脱する”ことも、以前の存在条件に戻ることも不可能なのである」。仮に(アフリカン・アメリカンのコミュニティを含む)植民地が独立しえたとして、資本主義を通したより強固な支配のシステムに組み込まれるだけなのではないか。それゆえ、こうしたポストコロニアルな状況において、もはや国民国家という枠組みで物事は考えられない。ブラック・ナショナリズムの限界もここにある。それと同時に、支配の主権もまた、もはや国家の枠組みを越えている。合衆国はすでに「国家とは別な何か、国家以上のもの、領土的境界を拡大してきただけでなく、ありとあらゆる支配力をも拡大してきたという意味で、われわれはそれを帝国と名づけた」。

 帝国が全地球を制覇し、もはや国民国家は存在しない。「現代の世界は、分散したコミュニティーの集まりだというのが、われわれの見解である。コミュニティーは、国家とは違う。コミュニティーというのは、少数の人間に奉仕するべく存在する包括的諸制度を備えた小さな単位だ。しかも、そうした現代世界における闘争は、合衆国という帝国から利益を得て人民を統治する少数勢力と、自分自身の運命を自分で決めたいと願う世界の人民との闘争であるとも言えるだろう」。多数のコミュニティを制覇するひとつの帝国。この状況を「インターコミュナリズム」と名付ける。それは「ひとにぎりの人間から成る支配勢力がテクノロジーを用いて他のすべての人間を支配する時代である」。したがって問題は、この「反動的なインターコミュナリズム」を「革命的」なそれへと転化させることである。もはや「我が国の黒人の境遇とアフリカ人も含めた世界のあらゆる人民の境遇の間には単なる程度の差しかない。要求も同じだし、エネルギーも同じなのです」。同じ「エネルギー」で同じ「ニード」を。そのような世界革命をニュートンは描く。マルクス以来の弁証法的な発想をもって、支配のテクノロジーは同時に革命をも可能にするのだと言う。「世界は今やひとつのコミュニティーに統合され、アメリカ帝国の広大な支配と結びついたコミュニケーション革命は“全地球村”とも言うべきものを生み出し、あらゆる文化の人々は全て同一勢力の包囲下にあって、全て同一のテクノロジーを利用しうる状態になっている」。アメリカには、この「インターコミュナリズム」論を、ネグリ=ハート『〈帝国〉』に先駆けるものと指摘する学者もいるようだが、じゅうぶんに納得しうる話である。

 酒井隆史はこう述べている。「(……)かれら[パンサー――引用者]がひらいた問いの空間はいまだ生命を失っていないものです。すなわち、世界資本主義の水準での根本的な変革という展望を維持しながら、ローカルなものに根をおろし、さらに攻勢的な暴力を批判する、という視点です」(『暴力の哲学』)。コミュニティの自律、防衛と、世界資本主義の変革の二つの方向性を維持すること。それは、スガが言うように、68年が直面した不可能性にほかならない。「インターコミュナリズム」はそのような射程をひらいた理論である。

 

 獄中で哲学を読んだマルコムXは、驚くほど先駆的な知見に至っていた。「ここで一言いいたい。西洋哲学の全体の流れは、いま袋小路に入っている。白人は黒人ばかりでなく自分自身にたいしても巨大なペテンを仕掛けてしまったので、自分自身をも落とし穴に陥れてしまったのだ。黒人の歴史上の真の役割を、丹念に、神経質なほど隠そうとして、そうなってしまった」(『自伝』)。これが正しかったことは、ポストモダニズム、ポストコロニアリズムなどの思想を知る私たちにとっては明らかである。「ショーペンハウエル、カント、ニーチェは当然全部読んだ。尊敬はできない。(……)尊敬できないのは、さして重要でないことを議論するのに時間を多くつかったと思えるからだ」。

 ヒューイ・ニュートンは言う。「ニーチェの『権力への意思』を読んで、私は彼の数多くの哲学的洞察からたくさんのことを学んだ。といって、ニーチェのすべてを認めるわけではないが、彼の思想の多くが私の考え方に影響をあたえたことは確かだ」(ニュートン『白いアメリカよ、聞け』)。彼のニーチェ理解は次のようなものである。「善や悪を越える存在として、権力への意思がある、とニーチェは信じていた。換言すれば、善や悪は現象にたいする呼称、あるいは価値判断である。しかし、そうした価値判断の背景として、ある現象を善と見るか悪と見るかを規定する、権力への意思がある」。その応用の例として、彼らが広めた「ピッグ」のスラングを挙げる。警察を「豚」と罵倒するのは当時の新左翼たちのあいだで流行するまでになったが、単に価値転倒を狙ったものというよりも、警察という存在を支える「権力への意思」自体を問おうとしているのだと解釈しておくべきであることは、「逆パトロール」その他、現在のBLMのアボリショニズムに先駆ける運動、思想に示されよう――「(……)道徳というのは人びとの頭のなかにあるのではなく、権力関係のうちに書きこまれており、権力関係を変えることによってしか、道徳性を変えることはできない、ということです」(ミシェル・フーコー『処罰社会』)。「ピッグ」を「意識を高める言葉」とするニュートンは、もう一つの例を挙げる。パンサー最大のスローガンである「すべての権力を人民へAll Power To The People」である。やはり「権力power」の語から、ニーチェからの影響を読み取るべきであろうが、同時に「すべての権力をソビエトへ」(レーニン)が響く。68年の革命的なニーチェの読解者たちの一人に、ニュートンは数え上げられねばなるまい。

 「Don’t push me ’cause I’m close to the edge / I’m trying not to lose my head」。「エッジ」とは、まさしく「正気を失う」ような場所であり、ラッパーはそのようなところに立って歌っている。獄中でエルドリッジ・クリーヴァーは書いた。「なることについてOn Becoming」という題――ならばむろん、「生成変化について」と訳してもよいわけだ――が付されている。「わたしは刑務所にはいってきた時のあのエルドリッジを大変よく知っていた。だが、あのエルドリッジはもはやいない。そして今わたしであるところの人物は、ある意味ではわたしにとって見知らぬ人である。この言い方は理解しにくいかもしれないが、刑務所にいる人間が自分という感覚を失うのは大変やさしいのだ。そしてもし彼があらゆる種類の極端なこみいった乱雑な変化をくぐりぬけていると、彼はついには自分が何であるのかがわからなくなる」(『氷の上の魂』)。獄中でエリカ・ハギンズは詩作した。「人種差別は、抑圧はわたしたちの魂を奪った/それは魂を破壊し、わたしたちに  ひゅうっ、ひゅうっと、回らせ/浮き/混ざり/やがて/なる……ようにさせた」(『もし奴らが』)。獄中でジョージ・ジャクソンは書いた。「奴らはぼくを、もはや引き返すことのかなわぬ線の彼方に押しやったのです」(『ソルダッド・ブラザー』)。ドゥルーズ=ガタリは、生成変化を説明するのに、まさにこう書いていた。「ブラックパンサーの活動家は、黒人ですら黒人に〈なる〉必要があると主張したものだ。女性ですら女性に〈なる〉必要がある。ユダヤ人ですらユダヤ人に〈なる〉必要がある(ひとつの状態に甘んじるだけでは不足なのだ)」(『千のプラトー』)。

 ――「ガバメント奴らは俺らを台無しにする/俺らはパクられまたジェイル」。ジョージ・ジャクソンが盗んだと嫌疑をかけられたのはたったの70ドルだった。以後、71年に看守に銃殺されるまでの約十年間を獄中で生きることになったのは、監獄のレイシズムによるだけでなく、ボブ・ディランが「彼がただあまりにリアルだったために権威は彼を憎んだ」(「George Jackson」)と歌うよう、その徹底した不服従の姿勢によってでもあったろう。「ぼくは自白したが、刑を宣告する段になると、奴らは一年から終身という不定刑期を申し渡して、ぼくを連邦刑務所にほうりこんだ。それは一九六○年のことで、ぼくは十八歳だった。それ以来ずっとぼくはここにいる。ぼくはマルクスレーニントロツキーエンゲルス、毛に出会い、刑務所に入ったぼくを、それらの人びとが埋め合わせてくれた。最初の四年のあいだ、ぼくはもっぱら経済学と軍事思想を学んだ。ぼくは黒人ゲリラたちにも出会った。(……)われわれは黒人犯罪者のメンタリティを変革して黒人革命家のメンタリティにしようと努力した」。彼は獄中で監獄の分析、ゲリラ戦論などを書き、ブラック・パンサー党野戦司令官の肩書きを得る。

 ジャクソンはBLMのアボリショニズムに決定的な影響を与えることになるが、日本では、ほとんど酒井の紹介(河出書房新社編集部編『BLACK LIVES MATTER』)があるのみである。ジャクソンはたとえば次のように分析していた。「犯罪学の教科書は、きまって、囚人は精神的に欠陥があるという考えを打ち出したがる。制度それ自体に誤りがあるという意見は、ほんのちょっぴりほのめかされるだけ。刑罰学者は刑務所を養育院と見なす。ほとんどの政策は指導的な矯正局の下で運営される部局で立案されます。だが、かつて治癒した収監者が一人としていないのに、これらの養育院について何が言えるだろうか。すべての事例において、人びとは肉体的にも精神的にも入って来たときよりずっと大きな打撃を受けて刑務所から送り出されるのです」。ジャクソンらは「ソルダット・ブラザーズ(ソルダット刑務所の同志)」と呼ばれたが、その闘争に深くコミットしたのは、いまや『監獄ビジネス』の著者として知られるアンジェラ・デイヴィスであった。ジョージの弟ジョナサンは、兄の解放を要求するために、裁判をジャックするも、その場で射殺された。そのときジョナサンが持っていた銃がデイヴィス名義のものだったために彼女はFBIに追われ、大学の職も失い、大規模なアンジェラ解放運動が起きたという顛末については広く知られている。「アンジェラ、奴らはあなたを刑務所に入れました/アンジェラ、奴らはあなたの男を撃ち倒しました/アンジェラ、あなたは世界中に何万といる政治的囚人の一人です」(ジョン・レノンAngela」)。

 フランスで「ジョージ・ジャクソンの暗殺」というパンフレットが出される。ミシェル・フーコーが共同で設立した監獄情報グループ(GIP)からである。正確な著者は明らかとなってはいないが、フーコードゥルーズジャン・ジュネ三者が分担して書いたのではないかとも言われている。ジャクソンの殺害を受け、ボブ・ディランは歌った。「わたしは時に思う/この世界は一つの監獄の敷地であり/私たちの内のある者は囚人で/私たちの内のある者は看守である/主よ、主よ、奴らはジョージ・ジャクソンを切り落としました/主よ、主よ、奴らはジョージ・ジャクソンを地面に横たえたのです」(「George Jackson」)。このような洞察を詩人が得たのと同じ71年、フーコーは『刑罰の理論と制度』の、翌年には『処罰社会』の講義をおこなうだろう。ジャクソンの葬式では、ニーナ・シモンが「I wish I knew How It Would Feel To Be Free」を歌った。

 70年7月28日に、弁護士のフェイ・ステンダーに宛てたジャクソンの手紙は、とりわけ緊迫した様子を帯びている。「ぼくはおびやかされていると感じています。それがわれわれの出発点です。(……)そして、それに加えて、ぼくが真っ暗闇の混乱状態にあって、自分であると同時に自分でなかった時にさえも、ぼくのその感情(しかも、ぼくはつねにおびやかされていると感じていた)にたいする反応が、ぼくの脳髄の古い部分に根ざすものだったということも、あわせて思い出してください」。おびやかされていることから、あの「エッジ」から出発すること。

 「出発、脱走、それは線を引くこと」。ドゥルーズは語り出す。「逃走とは決して行動を諦めることではない。逃走ほど行動的なものはない。想像の反対だ。それはまた逃走させることでもある。必ずしも他人をではなく、何かを逃走させること。パイプを破裂させるようにある体系を逃走[=漏洩]させること」。続けて引用する。「ジョージ・ジャクソンは彼の監獄について書いている。「私は脱走するかも知れないが、逃走の間中私は武器を求める。」(……)逃走とは一本の線、何本もの線を引くこと、地図の作製だ。長い折れ曲がった逃走によってしか複数の世界を発見することはない」(『ドゥルーズの思想』)。

 『アンチ・オイディプス』にも引用される、ドゥルーズが好むこのジャクソンのクォートが書かれたのは、上記フェイへの手紙の続きにおいてであった。もとの文章は以下のようである。「逃げても良いのだけれど、いつだってぼくはそんなふうで、棒切れを探すのです(I may run, but all the time I am, I’ll be looking for a stick / Il se peut que je fuie, mais tout au long de ma faite, je cherche une arme)!身を守る位置を!横たわって蹴とばされるなどということは、ついぞ考えてもみなかった!そんなのはばかげています。ぼくがそうする時は、蹴っとばす奴がくたびれるのをあてにしているのです。それより良い戦術は、相手の足をちょっとひねってやるか、できればその足を引っぱることです」。おびやかされながら、逃げながら、蹴飛ばされながら、武器を、自衛の足場を、反撃のわずかな隙を探すこと。ジャクソン=ドゥルーズによれば、これこそが革命である。

 

 日本のヒップホップへのパースペクティブは、政治主義的に言うならば、おおむね、ブラック・パワー的なものであったと言える。それ以前に、いとうせいこうはヒップホップを「盗みの文化」だとしていた。明らかにそれを意識していた宇多丸は「“一人称”の文化」だと切り返したが、これをたどれば、たとえばリロイ・ジョーンズ『ブルース・ピープル』をひとつの影響源として挙げることができる。周知の通りジョーンズは「ブラック・アート・ムーブメント」など、ブラック・ナショナリズム的な志向を持っていた。RHYMESTERがサンプリングする「自分が自分であることを誇る」(ケーダブ)もまた、「I’m Black & I’m Proud」(JB)のようなブラック・パワー的スローガンの翻訳であった。それは他方では資本主義体制に組み込まれる可能性もある両義的なものであるとは、パンサーが指摘した通りであったが、その現代的な帰結については、ポリティカル・コレクトネスとして私たちが知るものにほかなるまい。

 ヒップホップとポリティカル・コレクトネスの関係について、この文脈に即して言うならば、ブラック・パワーに依拠することと連動したオーセンティシティの導入は、むろんその両義性をも体現した。すなわち、右傾化、性差別など、主にキングギドラに集約することとなった反ポリコレ的な諸問題がある一方で、スチャダラパーの歌ったリアリティに代表されるような、冷戦以後のポスト・ポリティカルな状況に抗して、オーセンティシティは政治的なものの擁護のために不可欠であったということは、たとえば外山恒一が当時すでに鋭く指摘していた(「ドラゴン・アッシュ論」、『音楽誌が書かない「Jポップ」批評2』)。つまり、ポスト・ポリティカル状況としてのポリコレとヒップホップが軋轢を生んできたことは、故なきことではないのだ。しかしながら、パンサーの革命の足跡が示しているのは、他の人種的、性的マイノリティとの「革命的な仕方revolutionary fashion」での連携であった。ポリコレ的反動性を受け入れるよりもむしろそのような道を探すべきであり、「ヒップホップ・フェミニズム」(ジョアン・モーガン)の概念が重要なのも同じ理由においてである。

 そうしたパンサー的なパースペクティブを提案するために、ブラック・パワー的な「自分が自分であることを誇る」に対して、「Don’t push me ’cause I’m close to the edge / I’m trying not to lose my head」、また「リズムと愛し合うだけのSkeezer」(Mummy-D)といったフィギュールが準備されている。これらは革命的で生成変化的なフィギュールである。宇多丸は、「“一人称”の文化」と言いつつ、しかしヒップホップには黒人的身体からの離脱の契機が存在していると主張し、また歴史的に見てもプエルトリコ系の存在などヒップホップの「混血児」性を見出だしていた。前者の論点を生成変化的なものと見てよければ、それはパンサーに触発されてドゥルーズ=ガタリが概念化したものであったし、後者のそれは、チャンが言うように、パンサーとヤング・ローズの関係から発している。日本語ラップ正当化の言説においても、パンサーは暗黙に参照されされていたと見なせるのである。

 チャックDに「the rhythm, the rebel」とある――なお、同じヴァースは「Panther power on the hour from the rebel to you」と締められる。日本語ラップ批評史的に言えば、リズムを発見したのは佐藤雄一であり、ヒップホップ的革命の必要性を訴えたのは赤井浩太であった。佐藤は「〈あなた〉を詩人にするリズムが詩」だと言った。私たちは「〈あなた〉を革命的にするリズムがヒップホップ」だと言い換えるだろう。パンサーは最も抑圧された者こそが最も革命的になりうると考えた。「悪そうな奴は大体友達」とは、体制からする「悪そうな奴」に「パワー」や「プライド」を、というような意味である。人種的、民族的、性的マイノリティ、アンダークラス、ならず者……。彼ら彼女らがヒップホップの「前衛」である。パンサー的に言うならば、彼らは、少なくとも現代的な、資本主義社会の「矛盾」と過酷に直面している。「リアルであれKeep It Real」とは、おそらくそういうことなのだ。さらに、私たちはこれから、それを次のように読み替えるだろう。「Keep It Real」とは、「現実的であれ、不可能を要求せよSoyez réalistes, demandez l’impossible」(68年5月)を別言するものである、と。ヒップホップ的な革命を、あらためて要求すべきときではないのか。