韻踏み夫による日本語ラップブログ

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ヒップホップと「ミソジニー」について

 ヒップホップの「ミソジニー」について、椿の『フリースタイルダンジョン』での告発を主なきっかけとして、日本でもここ最近特に取り沙汰されるようになった。これについては、私もヒップホップファンの一人として無責任なことではない(というよりも紙媒体にヒップホップについて複数書いてきたのだからより責任は重いだろう)。しかし、そのとき「またそこからですか」(RHYMESTERガラパゴス」)の感を抱かないわけでもない。ミソジニー批判を聞き飽きたというのでは決してなく、ミソジニーについての議論がいまだきわめて初歩的な段階にとどまっているからである。批判者を責めているのでもない。それほどに日本のヒップホップシーン及びそれを取り巻く批評的言説が遅れているのだと解釈されるべきことである。私も問題を放置してきた一人であることは認めた通りだ。敬意をはらうべき告発が注目を集めているからこそ、これからより深い議論が行われることを望む。だから、私がその役を引き受けるべきかいまだ自ら疑問でもあるのだが、「ONCE AGAIN」の気持ちで筆を執った次第である。まず、当然のことだがミソジニー批判は活発に行われるべきだという点を明記しておく。しかし、私がここで行いたいのはそれではない。大きく分けて二つである。まずは、ミソジニー批判の基礎的な議論を振り返っておく。できるだけ「またそこからですか」は少ないに越したことはない。その次に、ヒップホップにおけるミソジニーの問題がどこにあるのかを探る。問題が改善するのに一役買えればと思う。

 

 ヒップホップにおける性差別は長らく指摘され続けている問題である。日本でもこれまで指摘されてこなかったわけではない。しかし、MCバトルブームを機にこの問題が日本でもようやく重要なものとして認識され始めているかに見える。そのとき活発な批判、議論は重要だが、その精度もまた同じくらいに重要である。おそらくそこで問題となるのは、ミソジニー批判派とヒップホップ擁護派の間の論争である。それ自体は行われるべきことだ。だから私もはじめに、いま行われているミソジニー批判に対していくつかツッコミを入れておきたい。当然誰にでもミソジニー批判に対して批判する権利はある。しかし、それが問題をはらまないわけではないということをあらかじめ言っておく。だからその次は、そうした問題点を明らかにするために、アメリカのヒップホップとミソジニーについての議論を見ることにする。そこでヒップホップとミソジニー批判についての、一般的で基礎的な点がある程度明らかになればと思っている。

 まずは、いま行われているミソジニー批判を吟味してみよう。ミソジニー批判のときに、「そもそもヒップホップは性差別的な文化であり~」といった言い方がよく見られる。それ自体は正しい。しかし、それがほとんど常識であるかのような口ぶりには、違和感を覚えないでもない。例えば最近大きな話題や共感を呼んでいた「あるリスナーの葛藤:hiphopミソジニーと無自覚について」(https://i-d.vice.com/jp/article/3kyk88/hiphop-misogyny-and-unawareness)という記事で、「イヴ・セジウィック女性嫌悪と同性愛嫌悪を保持する男性同士の閉鎖的連帯を指して「ホモソーシャル」と名付けたが、HIPHOPはまさにこの典型だ」として、TY-KOHの「オンナはセックスだけでいい」という発言が「コミュニティのありようを端的に表している」と書いている。これを見逃せない誇張だと感じるのは私だけだろうか。もちろんその発言は批判されなければならないが、元記事でインタビュアーの伊藤雄介が「女性に失礼な気もしないでもないけど、まあいいや……」と諫めてはいることに触れないのはどうかと思うし(それが甘いという批判はありうるだろう)、フライボーイの強固な仲間意識は例えば「バイトしない」「Day Ones」などのように彼らの売りであるからシーンの中でも特に際立ったものであり、さらにそれは川崎のストリートの状況と切り離せないといった事情があるはずで、そうした個々のリアルの単独性に触れず「コミュニティのありようを端的に表している」とまで言い切るのもどうなのだろうか。また、記事では『文化系のためのヒップホップ入門』から引用した後に「ミソジニーは社会全体の問題だが、HIPHOPの場ではより煮詰められたミソジニーが可視化されるのだ」と書いているが、同書には「(筆者注:「暴力的なリリックや女性蔑視の要素」は)メインのリスナーがティーン男子のポップ・ミュージックに運命づけられた性質だと思っています。ロックだって同じようなものだし、ヒップホップだけを責めるのはどうかなと」という長谷川町造の発言が記されており(この意見自体への批判は当然ありうる)、そのことを検討せずに「より煮詰められたミソジニー」とまで言うのは公平と言えるのか。もちろん、だからミソジニーが免罪されるなどというわけでは決してない。批判のときに、事実を曲げてよいのかということが言いたい。

 後で詳細に触れる栗田知宏「「エミネム」の文化社会学」(『ポピュラー音楽研究 Vol.11』)、及び「「差別表現」の文化社会学的分析に向けて」(『ソシオロゴス NO.33』)という論文を参照しつつ、こうした問題を少し掘り下げて考えてみよう。まず、そもそもヒップホップの暴力的、性差別的リリックが非難されるようになったのは、N.W.A.をきっかけに登場したヒップホップのサブジャンルであるギャングスタ・ラップが隆盛した90年代以降である。あえてこういう言い方をすれば、ヒップホップが暴力的で性差別的であるという「イメージ」はそのときに作られたものである。例えばトリーシャ・ローズが、「Cop Killer」が大きな議論を呼び起こしたときに、批判する側が「終始この曲をヘヴィ・メタルではなくラップと呼び続けたこと」自体に人種的偏見が潜んでいると喝破したことが引かれ、「ヒップホップに社会的批判が集まりがちな状況は、そこに人種という要素が作用しているからだという見方は少なくない」のだと書かれている。データは古いが例えば、栗田文の参考文献にもなっているエドワード・G.アームストロング「GANGSTA MISOGYNY: A CONTENT ANALYSIS OF THE PORTRAYALS OF VIOLENCE AGAINST WOMEN IN RAP MUSIC, 1987-1993*」(https://www.albany.edu/scj/jcjpc/vol8is2/armstrong.html?ref=dizinler.com)という論文では、「"only" 22 percent of gangsta rap music songs dealt with violent and misogynist lyrics」という集計結果が出されてもいる(こういう研究の新しいものはすでにあるだろうがそこまでは調べてない。その後おそらくより増えているだろうとは予想されるが、あまり適当なことも言えない)。『文化系』で大和田俊之が「もちろん、あらゆるポピュラー音楽が女性差別的な側面を多かれ少なかれ持っているのですが、ヒップホップほどセクシスト(性差別主義的)でミソジニック(女性蔑視的)な側面が非難されているジャンルも少ないと思うんです。でも実際には女性のラッパーもそれなりにいるわけですよね」と言っているのは、おそらくこうした議論を念頭に置いてのことだろうと思われる。そしてこうしたヒップホップに対する偏見やステレオタイプは、人種的な問題がアメリカほど前景化されていない日本にも流れ込んでいることは確かであろう。前段落で指摘したこともおそらくそれが原因だが、それに加えて例えば、「『ヒプノシスマイク』の「女尊男卑」設定は、ミソジニーを表現する免罪符にならない」(https://wezz-y.com/archives/57096)という記事で、その問題が「ミソジニーホモフォビアが目に見える形で表現されることが多く、女性にとってとっつきやすい文化だとは言いづらい」「現実のヒップホップカルチャーとの接続は明らか」であるとされているのには、人種の問題は直接絡んではいないが、「Cop Killer」の場合と似たような強い違和感を覚える。確かにラッパーは絡んでいるが、一義的には明らかにオタク系文化の問題であり、次にオタク系文化と親和的なものとなった今の日本のMCバトルの問題であり、ヒップホップとは間接的な関係しかないはずだからだ。カルチュアル・アプロプリエーション的な観点からの検討も必要だろう(あれをヒップホップと引き付けるのなら、ヒップホップ的な評価を加えてもいいことになるが、それでいいのだろうか。というのも、ヒップホップ的にはどう考えてもクソダサいからだ。むろん、そうしたディスは不適当だろうから、やはりヒップホップとは間接的な関係しかないと言うべきだろう)。

 以上が少なくとも私にとっては妥当だと思える再批判の例である。おそらくその内容自体はそれほど間違ったものではないだろうと思う。しかし、これらは些事に過ぎないということの方が重要である。その内容がいかに妥当であったとしても、こうした言説に問題がないわけではない、ということが本題なのだ。いや、むしろ大きな問題を抱えていると言った方がいい。というのも、こうした言説は、もとのミソジニーの問題への視線を逸らし、また批判の言説を抑圧するようにもはたらいているからだ。とはいえ、私は上で述べたこともまた必要なことだったと思っている。一般化すれば、次のようなジレンマにハマったと言えるだろう。ヒップホップについての知識を欠いていたり、不正確なミソジニー批判は有効なものとはなりづらい、かといって些細な揚げ足取りばかりしていては問題を放置するのと同じである……。

 だからここで、アメリカですでに行われたこうした論争を振り返っておくことは、日本とは事情が異なるとはいえ無駄ではないはずだ。取り上げるのはヒップホップ研究のパイオニアであるトリーシャ・ローズの第二のヒップホップ論『The Hip Hop Wars: What We Talk About When We Talk About Hip Hop--and Why It Matters』(未邦訳)である。ローズはそこで、ヒップホップのセクシズムに対する批判を二つに分けており、この視点がきわめて有益である。一つ目は、セクシズム批判を黒人が異常devianceで、劣等であるinferiorityといった概念を強化しようとすることに用いる保守派たち。二つ目は、ヒップホップのセクシズムを憂慮しているが、基本的にはヒップホップを愛しているようなリベラルたち。政治や人種の問題は日本のミソジニー批判ではさほど前景化していないが、やはりこの区別は使えるだろう。日本語ラップもまた数々の偏見に晒されてきたのだし、また現在は例えば警察が麻薬での逮捕やクラブの検挙などでヒップホップを潰そうとしているのだから。まず、前者のグループのような、良識を装った欺瞞はクズ以外の何物でもないので論じる必要もなかろう(セクシズム批判に限らなければ、例えば古くは朝日新聞記者西田健作、最近では柴那典とダイノジ大谷などがこのようなクズの典型となる)。むしろ重要なのは、以上のような二つのグループの境界が明確ではないということである。例えば、黒人女性を侮辱する言葉が元は白人の保守派に由来するという歴史があるように。日本での状況にも当てはまるように話を敷衍するならば、例えばヒップホップを愛していながらミソジニーの問題と向き合わないならば、それはマイノリティを抑圧しているのにほかならないし、反対にヒップホップを愛するからこそのミソジニー批判であっても、その批判の仕方次第ではヒップホップに対する偏見を強化することに加担してしまうケースもありうるということだ。このような複雑さを直視することが重要である。

 むろん、だからといってミソジニー批判が活発に行われなければならないということに変わりはない。その時、今述べたような複雑な問題が絡むことは必然である。だが、ミソジニー批判に対するヒップホップ側からの反論(というか言い訳)には典型的なパターンというものがある。ローズはそれぞれを吟味しており、それを見ておくこともまた有意義だろう。そのパターンとして以下の六つが挙げられている。

 

(1)社会がセクシストなのだ society is sexist

(2) アーティストは彼ら自身を表現するときに自由であるべきだ artist should be free to express themselves 

(3)ラッパーは不公平に(批判の対象として)選び出されている  rappers are unfairly singled out

(4)私たちは根本にある問題に取り組むべきだ we should be tackling the problem at the root

(5)厳しい現実を聞くことは私たちの指針となる listening to harsh realities gives us road map

(6)性的侮辱はラジオやビデオ放送から消されている sexual insults are deleted from radio and video airplay

 

 これらはすべて、ある程度は真っ当であるが、それと同じ程度かあるいはそれ以上に誤っている。ローズの考えを簡単に紹介しておく。まず(1)の主張自体は確かであるが、しかしそれは問題を広げ過ぎていて(今生きている人類の中に性差別を発明した者がいるわけではないのだ)、ヒップホップに対する妥当な批判を沈黙させることにしかならない。(2)ローズは表現の自由を口にする企業側に焦点を絞っている(日本はアメリカほどヒップホップが売れないので事情は違うが、『フリースタイルダンジョン』のアベマなどには当てはまるかもしれない)。商品の性差別表現を責められて表現の自由を口にする彼らに対するローズはクリティカルである。ならばなぜ反戦や政府批判などについても表現の自由を与えないのか、と。(3)は、上での私からの再批判や引用した長谷川の発言などと絡むので重要である。まず、ローズもヒップホップの性差別への非難が人種問題と絡んでいたり、ただ「彼ら自身の議題を満たすため」だけにそれらが論じられていたりするといったことについては認めている。当然、そうした不当な批判はある。だが同時に多くの黒人女性からの批判も行われているのを忘れてはいけない。また外野からのヒップホップに対するセクシズム批判を受けて、それを人種的偏見だと言うとき、彼らが感じているのは「黒人男性」が攻撃されているということに過ぎず、女性が忘れられている、と。(4)確かにヒップホップがセクシズムを作ったわけではないが、黒人女性に対するセクシズムに限れば、ヒップホップがステージの中央に立っていることに違いはないのだと言う。なぜなら、ヒップホップは周縁にあり貧困や差別に苦しむコミュニティの声を「レペゼン」してきたのだから(それはラッパーたち自身が主張することでもある)。実際、コミュニティの中でヒップホップの果たす役割は大きい。したがって、ヒップホップがすでに存在しているセクシズムを保持し、増幅させている面があることは疑いないのである。(5)ラッセル・シモンズが引かれる。ラッパーたちは、誰もが避けて通りたがるミソジニーホモフォビア、暴力を積極的に扱っているのであり、それが「指標road map」となるはずだと、シモンズは主張している。しかし、何の批評性もなく歌われる事柄は、truth-tellingだと取られて仕方ないだろう。実際、暴力的な内容についてはそれがリアルなことだと解釈された方が都合がいいのだろう。しかし、性差別を批判されるときはどうだろうか。ローズは、そこになんらかの批評性があるか否かが重要であると考えている。そうでなければその「指標」は私たちをどこにも導いてはくれないのだ、と。(6)まず、ローズは政府による検閲に対してはきわめて警戒しており、明確に反対している。しかし、政府による検閲と大衆への責任は分けなければならない。例えば、規制音やクリーンバージョンなどはある程度は有効だが、やはり限界があるだろう。単に決まった単語を消したり入れ替えたりするだけで、差別的でなくなるのかと言えばそうではない。また、クリーンバージョンがフェイクでダーティーバージョンの方がオーセンティックだと捉えられるという事態もたびたび起きる。

 人種の問題や、商業的な規模の点で日本とは事情が異なるが、参考にならないわけではなかろう。重要な点は、ヒップホップの闘争や固有の文脈をきちんと見たうえで、しかしそれと同じ程度にミソジニーに対する意識を持つことであろう。あえて言うまでもないが、アメリカのそれと同様に日本語ラップもまた様々な戦いの中にある。貧困、人種差別、音楽産業等々。しかし、それが可能であるということは、ミソジニーを後回しにしておいてよいということではなく、ミソジニーに対する戦いもまた日本語ラップにおいて可能だということを示しているのだと解釈すべきなのだ。

 ミソジニー批判とヒップホップ擁護の問題については以上だが、次に、日本におけるミソジニー批判に欠けていると思われるものを指摘しておきたい。それもまたきわめて基礎的な事柄だが、あまりこうした議論がなされているようには見えないからだ。上で触れた「あるリスナーの葛藤」は、「ラップは好き、でもミソジニーはきつい」という一言に要約しうる。おそらくそれが多くの人が抱いている感情であったために、記事が話題となったのだと思う。それ自体は真っ当なヒップホップ観である。だが、「HIPHOPに内在された差別」と書き、また「ストリートカルチャーに対してポリティカル・コレクトネスを説く行為の暴力性は無視できない」ためにヒップホップのミソジニー批判が難しいのだというとき、そこに見落とされているのは、ヒップホップがヒップホップ的にミソジニーを批判し、改善しうる可能性ではないだろうか。これこそが、私が強調しておきたいことである。

 Joan Morgan『When Chickenheads Come Home to Roost: A Hip-Hop Feminist Breaks It Down』(1999年、未邦訳)という本がある。著者の人生を語りながら、ポスト公民権運動、ポストソウル時代、つまりヒップホップ世代のフェミニズム、「ヒップホップ・フェミニズム」というものを提唱したもので、いわゆる第三波フェミニズムに数え入れられてよいものだろう(ちなみに、ローズの前掲書でも引用されていたり、私も読んでないが同じ著者のローリン・ヒルについての著書が最近出版されたりもしてもいる)。英語版だが、ウィキペディアにもこの「ヒップホップ・フェミニズム」のページ(https://en.wikipedia.org/wiki/Hip-hop_feminism)があるくらいだからある程度一般化しているものと見ていいだろうし(というかこのウィキのページは結構な充実度)、事実これの後を追うようなヒップホップ・フェミニズム関係の本は数多く出ている(ほとんどが未邦訳であるから次々に翻訳されていってほしいものである)。それら議論の蓄積を紹介することや、他のフェミニズムとの関係を論じるなどといったことは当然私の能力の及ばないことであるから、他の専門家の方々にお任せすることとして(是非ともお願いしたいものである)、ここでは非力ながらモーガンのヒップホップ・フェミニズムの基本的な立場を見ておくことにする。実は、この本を紹介したいのはそれが基本的な文献だからという以上に、「あるリスナー」とモーガンが、約20年のタイムラグと日米の隔たりがあるにもかかわらず、ある地点までは驚くほどに酷似しているからである。解説にある要約の文章から引くとそれがより分かりやすいだろう。モーガンは次のことを問うている。

 

Is it possible to like this music despite the fact that it contains so much misogyny? Are you able to listen to the music and use it as a tool to understand how community works, as Morgan advocates, or would it be better to silence its violent content?

(筆者訳:ミソジニーをとても多く含んでいる事実があるにもかかわらず、この音楽(筆者注:ヒップホップ)を好きでいることは可能だろうか。モーガンが支持するように、コミュニティがどのように機能しているのかを理解するためのツールとして音楽を聴きまた用いることは可能か、あるいはその暴力的な内容を沈黙させることは良いことであろうか。)

 

 ただし、きわめて類似している点がある一方、両者の間には明確な違いがあり、ここではそちらを強調しておきたい。モーガンはいかにそれがミソジニーに溢れているとしても、ヒップホップとフェミニズムを相いれないものだとはしないのだ。確かに、モーガンも同じように性差別的なリリックに傷つき、またドレやスヌープ、アイス・キューブなどを批判している。その「葛藤」にもかかわらず、彼女はヒップホップとフェミニズムを出会わせようとするのだ。

 

We need a feminism that possesses the same fundamental understanding held by any true student of hiphop.

(私たちには、真のヒップホップの生徒の誰もが持っている、共通の基礎的な理解を保持するフェミニズムが必要である。)

 

 

 素晴らしいパンチラインだと思うが、ではヒップホップの何がこうしたフェミニズムを可能にしてくれるのか。モーガンが考えるヒップホップの最良の部分は「its illuminating, informative narration and its incredible ability to articulate(後略)」という箇所に集約されていると言えよう。すなわち、「問題を照らし、情報を与えてくれる語りと、(筆者注:コミュニティや個人の痛みなどを)はっきりと口にする驚くべき能力」である。「黒人のためのCNN」(チャック・D)の話を思い出すまでもなく、これは疑いないヒップホップの本質である。それは当然(理念的には)「黒人女性のためのCNN」を排除しない。だから、ヒップホップ・フェミニズムと聞いて意外だと思うような人物には「HIPHOPナメんな」と言うべきであろう。ヒップホップの政治性を考えるときに重要な視点は、必ずしもそれがコンシャスであるかを問わないということである(『ラップは何を映しているのか』などを参照)。それがヒップホップのリアリズムの重要な点であり、だからN.W.A.やBAD HOPも政治的でありうる。モーガンもまた、例えば「リル・キムよりもクイーン・ラティファ」を選ぶような頭の堅いフェミニストを批判してもいる。むしろ多くの女性ラッパーの声の中からリアルを見出だそうとするのだ。これを日本に置き換えてみれば、例えば椿と同様あるいはそれ以上にELLE TERESAが評価されなければ何ともバランスが悪いということになるだろう。

 こうして考えてみると、「ストリートカルチャーに対してポリティカル・コレクトネスを説く行為の暴力性は無視できない」ためにヒップホップのミソジニー批判が難しいのだという「葛藤」は、むしろストリートカルチャーだからこそ可能な批判の形へとさらに一歩進みうるということが明らかになる(もちろん、PCによる批判が無駄だというのではない)。こうした視点を持つならば、例えば記事で触れられているSALU「夜に失くす feat. ゆるふわギャング」は、「なんとなくまだ眠りたくない夜」にピッタリというだけでは到底片づけられない重要なものとなるだろう。つまり、この曲のユートピア的な主題がゆるふわギャングの過酷なストリートからの脱出というストーリーと深く関係があるだろうことが浮かび上がってくるし、ましてやMVで誰の目にも明らかなドデカイ「SEX」を首に掲げ、「ロックスター」のように堂々と歩くSophieeのまさしくヒップホップ・フェミニズム的振る舞いを見落とすことも決してできなくなる、というわけだ。

 このように、モーガンの視点はヒップホップのリアリズムとPCとの問題にも重要な示唆を与えてくれるものである。そこで次に、フェミニズムに限らないヒップホップ一般の闘争について、少し立ち入るのがよいだろう。最近読んで啓発的だった中村寛「ケンドリックのディレンマ」(『ユリイカ』2018年8月号)を参照してみる。

 

(筆者注:アフリカ・バンバータの取り組みに代表されるように、ヒップホップに平和主義的な側面がある一方)だがヒップホップは、それ自体が闘争的な表現であり、悪くすると「暴力的violent」と見られる傾向が強いし、表現者も製作者も販売者も、そうした「過激さ」や「マッチョな勇ましさ」「暴力性」を演出し、ポルノグラフィ化し、売りにすることさえあるように見える。フォックス・ニュースなどに代表される保守系メディアは、それに狙いを定めるかのように、繰り返しラップの歌詞を時には曲解して非難してきたし、それを受けて曲中で反論を試みる者もいれば、逆に「宣伝の機会」と受け止める者もいる。ラップという表現の特徴は、だから、いくつものレベルで、何重かの闘争を余儀なくされているという点だと言える。

 

 ここからさらに、「暴力性」と「敵対性」の概念を区別する酒井隆史『暴力の哲学』の知見を借りて、ヒップホップが「≪反暴力≫の地平」を切り開くことの望みを記すのがこの論のハイライトなのだが、そこまでは立ち入らない。まず、「闘争」と「暴力」が別のものであること、「何重かの闘争」と「暴力」の間の複雑さが、基礎的だがきわめて重要である。例えば、アイス・キューブが暴動前夜のロサンゼルスの過酷な状況を描くには「暴力的」な表現が不可欠だった。それこそが彼の偉大な「闘争」を可能にしたのである。しかしその暴力性は別の方向にも向けられたのであり、その「レベル」から見れば、彼は性差別主義者であり、コリアン・コミュニティに対する人種差別主義者でもあった(後に謝罪し和解する)。だからヒップホップのリアリズムとPCの関係は繊細なものとならねばならない。このとき中村は、時に正しさから逸脱するかもしれぬヒップホップの「呪詛や嘆きの言葉」を、傷ついている個人に対して向けることは当然禁じられ、権力に対してのみ向けられるべきだとしたうえで、「部外者にとってそれがどれほど「暴力的」に見えようと、それを言葉にして表現する回路が閉ざされてはならない」と力強く主張している。そして、モーガンの立場はこのような、ヒップホップのリアリズムが可能にしてくれる「呪詛や嘆きの言葉」をも、フェミニズムに積極的に取り入れようとする、ある種柔軟なものだと言えよう。もちろん、ヒップホップシーンのミソジニーを批判することと、ヒップホップから社会のミソジニーを批判することは別だが、それを包括するような視点で議論が行われるべきだろう。そのためにはやはり、ヒップホップ・フェミニズムは欠かせないものとなるのではないだろうか。

 ただし、ここで再び注意を喚起しておきたい。「闘争」などを云々することについても、リスクがないわけではないということだ。ヒップホップの政治性に目を向けないことは欺瞞である(これがMSCあるいは少なくともANARCHY以後の日本語ラップにおいても同様であるというのは常識である)。そしてこのようなリアリズムが、ミソジニーの問題と切り離せないものであることも事実である(それを無視しては、ローズが批判した保守派の言説と限りなく近づくだろう)。だが、それを言いすぎることは、ミソジニーの問題を隠蔽するようにもはたらきうるのだ。つまり、先に少しだけ触れた栗田文が言うように「「抵抗」という表現の審美性が強調・美化され、そこで行われている女性や同性愛者に対する差別的な表現の使用が不問に付される」という事態に陥る危険性があるということだ。十分に警戒すべきことである。

 

 では次に、ヒップホップにおけるミソジニーの問題が、ヒップホップのどこにあるかを検討する。まずは現在の日本でのヒップホップのミソジニー批判において、ヒップホップのどこに問題があるとされているのかを確認しよう。その代表的なものはヒップホップが閉鎖的であり、その閉鎖性をホモソーシャルと結びつけるという批判の形である。そして、それはある点では正しい。だが、注意が必要である。というのも、日本では「外野」(RHYMESTER)からの批判が向けられるときに、必ずといっていいほど頻繁に見られるのもまた、あるヒップホップの問題はシーンの閉鎖性に由来するという形の二重の批判であり、「日本語ラップが猿真似なのは~」「日本語ラップが売れないのは~」等々いくつも例は浮かぶ。(ミソジニーの場合は後で個別に検討するが)それらの多くは短絡に過ぎない。だからまずは、ヒップホップが閉鎖的だと誰もが当然のことのように言うが、それは本当だろうか、というそもそも論から始めたい。素朴な話、今最も世界中で聞かれ、また実践されている音楽の一つはヒップホップである。私にしてみれば、金がなくてはできないだろうクラシック、古臭い産業構造に縛られ、歌詞やメッセージの制約もガチガチだろうJポップ、それこそジェンダー的に最も窮屈そうに見えるアイドルなどに比べて、ヒップホップはなんと開放的で自由なのだろうかとさえ思うのだが……。また、「日本語ラップダサい」と足を引っ張り続け、少なくともかつてはアジアのヒップホップの先頭を走っていた国を、いつの間にか誰の目にも明らかなヒップホップ後進国にした「閉鎖的」な人々はどこの誰であろうかとも尋ねたくなる。愚痴はこのくらいにしておくが、まずは、きわめて初歩的なことを指摘しておきたい。ヒップホップの閉鎖性ばかりが言われるが、そこにきわめて開放的なユートピア主義が刻まれていたことが忘れられてはいないか、ということである。そしてその両者が備わっていることこそが、ヒップホップというジャンルの最も偉大な点ではなかったか。すなわち、どちらも1982年に発表された二つのクラシック中のクラシック、「The Message」と「Planet Rock」の対照性のことを指している。前者が、ニューヨークのローカルな風景を描写して「リアリティ・ラップ」の起源と呼ばれるのに対して、後者がヒップホップに性別、年齢、国籍、人種を超えるグローバルな普遍性を付与したものであるというのは基本的な論点である。そしてこの両者の配合、つまりヒップホップという手段自体は世界に広がってゆくことができ、それぞれの場所、立場からリアリティを描き出すことができるということこそが、ヒップホップの特質であり、発展の歴史そのものである。また、宇多丸日本語ラップの実践を正当化/弁明したのもまた、この点に基づいてのことであった。つまり、ヒップホップに参加する権利は、生まれや国籍、人種、そして性別を問わず誰に対しても与えられている。だから、ヒップホップの理念そのものには、閉鎖的、差別的なところはないというところから始めなければならないのではないだろうか(アフリカ・バンバータ性的虐待の容疑がかけられていたとはいえ、やはりそうであると言いたい)。もちろん、現実にはヒップホップシーンにミソジニーは存在している。その問題の在りかを正確に見極めることが重要であるはずだ。

 そのために、この「閉鎖的」が何を指すのかをはっきりさせる必要がある。「あるリスナー」はこう言っている。

 

ライターの長谷川町蔵は、HIPHOPとは音楽ではなく「一定のルールのもとで参加者たちが優劣を競い合うゲームであり、コンペティション」なのだと述べた。「ゲーム」の「参加者」の多くが強固なホモソーシャルを形成している以上、HIPHOPは「男が男を褒め、男が男を貶す場」なのだ。この磁場の上では、女やクィアはいつまでたっても「よそ者」のままである。

 

 この非常に有名な長谷川の「コンペティション」の定義は、私も優れたものであると思っている。また、この箇所が現状の観察としては妥当であることも疑いないことである。そのことは検討するが、その前に言いたいのは、日本でヒップホップが「閉鎖的」と言われるとき、その実何が非難されているかといえば、それは「コンペティション」に他ならないということだ。キングギドラ公開処刑」でのKJへのディス(とそれに対するファンの反応)や、SEEDAとVerbalのラジオ対談を思い出せばよい。しかし、上で引用されている長谷川の発言のすぐ後に、「日本の洋楽ファンって、やたらとヒップホップに他ジャンルとのクロスオーバーを求めるじゃないですか。でもそれはバスケットボール選手に「なんでボールを持って走らないんだ?」って文句を言ってるのと同じなんです。ゲームのルールは守んなきゃいけないんですよ」と記されている通り、そうした批判はまったくのお門違いであり、嫌ならヒップホップではないラップ・ミュージックをやればいいだけの話である(実際、ラップはするがヒップホッパーではないと公言しているアーティストは多数いる)。しかし、このコンペティションミソジニーが無関係ではないというのは、(結果としてはやはり)正しいことである。順を追って見ていこう。

 ここで栗田の論文の本題が重要なものとなる。エミネムの成功と差別表現の密接な関わりを暴こうとするもので、詳細に理路を追うことにする(私見では、ヒップホップの差別表現について日本語で書かれたものの中で最良のものであり、またネットでも読めるのだが、その割にあまり言及されないように見える)。まずは、ラップのリリックのステータスを定めなければならない。そこで、リリックの内容を批判されたラッパーが口にするお決まりのパターンが、アイス・Tを例に紹介される。つまり、ラップはただの「与太話」に過ぎず、深い意味などないのだというもので、「真に受けんな」(呂布カルマ)もその一種であろうし、キングギドラがリリックのホモフォビアを批判されたときに口にした「比喩」というのも同じだろう。しかし、その一方で彼らが歌う物語は「現実reality」なのだとも主張される。これは明らかに「ダブル・スタンダード」である。であるのだが、それを虚構なのか現実なのかとぎこちなく批判しないところが栗田文の優れたところであろう。そのようなバカ正直な批判は、むしろ本質を見誤らせることになるからだ*1。つまり、そもそもヒップホップにおいて現実かフィクションかという対立図式は重要ではないのであり、「真正性authenticity」の観点から見るべきだということだ。オーセンティシティはここでは、「ある楽曲を「ラップ」であると主張する際に持ち出され、演じ手たちによって「本質的」に含まれるべきだと考えられている諸性質」だと説明されている*2。そこで、栗田文の先行研究として引かれているエドワード・G.アームストロング「Eminem's Construction of Authenticity」(https://www.tandfonline.com/doi/pdf/10.1080/03007760410001733170)の視点が紹介される。アームストロングによれば、ラップにおけるオーセンティシティは「自身に正直であることtrue to oneself」、「地域的な忠誠とアイデンティティ」、「演じ手がオリジナルなラップとの関係や近隣性を有しているか」の三つの指標によってはかられるのだという。これらは確かにヒップホップファンならば共有している価値観だろうと思われる。だが、アームストロングは「But authenticity is more complex than where you’re from and whom you know」(しかしオーセンティシティは、ひとがどこから来たのか、誰を知っているのかといったことよりも複雑である)として、社会学的なもう一つの三分類を提示している。「(1)人種」、つまりヒップホップが黒人のものであること。「(2)ジェンダー/セクシュアリティ」、男性の異性愛者のものであること。「(3)社会的ポジション」、ストリートの、貧困層のものであること。これも理解しやすいものだろう。

 ここまで来てようやく、本題のエミネムに入れる。アームストロングは、これらオーセンティシティの観点から、大変興味深い指摘をしている。エミネムがなぜオーセンティシティを獲得しえたか、それは彼の差別表現の使用法と関係があると言うのだ。ここでヒップホップの性差別のシステムが暴かれているのだが、それはどういうものだろうか。決してNワードを使わないことがエミネムのポリシーとさえ言えるものなのだが、それは彼が黒人文化に大きなリスペクトを持っていることの証としてもはたらく。しかし、彼は性差別表現については控えない。これを追求したインタビューも引かれているが、ともかく、これが白人である彼がヒップホップにおいて地位を得ることができた要因の一つであったと指摘されているのだ。図式的に言えば、彼は白人だがNワードを決して言わぬことで黒人をリスペクトしていると見なされて(1)が、性差別表現を用いることで(2)が、白人貧困層である出自によって(3)が満たされたというわけだ。そこで栗田は、『The Source』が、昔のエミネムが黒人女性に対して差別的なことをラップしている音源を引っ張り出してエミネム批判を大々的に繰り広げたとき、その実批判されたのは黒人差別であり女性差別でなかったことを指摘し、「複合差別」(上野千鶴子)だとしている。つまりエミネムのケースから見えてくるのは、ヒップホップにおいて性差別は黒人差別よりも軽いものだとされているということだ。

 ここからさらに引き出せるのは、ヒップホップのミソジニーはまずオーセンティシティの観点から見られなければならないということ、そしてオーセンティシティの指標にこそ性差別を助長するようなシステムがはたらいているということである。

 ただ「オーセンティシティ」とは言うものの、それはあらゆるジャンルに存在しているものである。アームストロングは「But different kinds of popular music have “different authenticities”」(しかし、異なる種類のポピュラー音楽は「異なるオーセンティシティ」を持っている)と書いている。それぞれのジャンルにおいてオーセンティシティを構成するものは異なっており、そのジャンルにおける軽重もまちまちである。そして、「Alan Light, editor of Spin magazine, believes that authenticity is deeply important in rap, more so that any other musical genre」(『スピン』誌の編集者アラン・ライトは、他のどんな音楽ジャンルよりも、ラップにおいてオーセンティシティは非常に重要なものであると信じている)と紹介されているように、ヒップホップにおいてそれは特に尊重されねばならないものである。では、ヒップホップに固有の「オーセンティシティ」とは何なのか。栗田は「ヒップホップ<場>におけるラップの正統性指標で極めて重要なのが、「リアルであり続ける」という態度である」と正しく記している(注で述べた通りこの「正統性」は「オーセンティシティ」と互換的なものと解釈する)。それはアームストロングの指標によってはかられるとされているのだが、それでは不十分である。なぜなら、そうした「リアル」というオーセンティシティが、どのように作り出されてゆくのかについての視点を欠いているからである。それを補うのが、岩下朋世「「リアル」になること」(『ユリイカ』2016年6月号)である。ヒップホップでよく言われる「リアル」とは何なのかを探ったものだが、まず重要なのは、「リアル」が「コンペティション」と結び付けられていることである。岩下も同様に、『文化系』の長谷川の「コンペティション」の定義を引いたうえで、その競争が何をめぐるものであるのかについて分け入る。「そこで競われているのはラッパーの「キャラ立ち」の優劣だと言っていいだろう」。そして、「そこで表現される「自分」が、「リアル」であることを証明する必要がある」としている。つまり、ヒップホップにおいて重要なオーセンティシティは、コンペティションを通じて、自らを「リアル」だと証明することによって獲得されるものだということだ。そのとき、岩下はこの「リアル」の生成過程を次のように記述する。

 

ラッパーが「リアルである」と評される時に、それは何に対して「リアル」なのか。まず考えられるのは「彼のラップはリアルだ」などと評される場合で、その時にこうした評価を支えているのは、その内容が彼の実人生に即した「ウソのない」ものだ(と感じられる)ということだ。(中略)ただし、単に「ウソのない自己像」をラップしただけで「リアルなラップ」という評価を得られるかといえば、話はそう単純ではなく、そこで描きだされるラッパーの生き様が「リアルであるか」も、その時には同時にはかられている。ウソがなければどんな生き様をラップしても「リアルである」と言ってもらえるわけではない。そこには、たしかに語るに値する「生き様」とそうでない「生き様」との間での線引きがある。

 

 ここから、「リアル」に二種のものがあるということが言えそうである。まず「ウソのないこと」、次にヒップホップ的にイケてる(「たしかに語るに値する」)こと。もちろん、「ウソのないこと」が「リアル」な場合の方が多いのかもしれないが、ヒップホップ的にリアルな嘘というのもあり得るということは、現実とフィクションの区別が重要でないということからも明らかである。そして、この二つはそれぞれ次のようにして評価されるものである。前者の「リアル」は、リリックとラッパー(の実人生)が「リアルに」(=ウソなく)結びついているのか、という基準によって。これが相互的なものであることを忘れないようにしよう。ラッパーは自身の過去を歌うのだが、同時に歌うことで自身がどのようなバックボーンを持つラッパーであるかを構築してゆくのでもあるからだ。次に、そこで歌われている事柄がヒップホップ的に「リアルである」(イケてる)か、という判定基準。例えば、MSCの有言実行ルールは前者の「リアル」を極端に突き詰めたものであるが、その滑稽なほどに徹底した姿勢自体が後者の基準から見ても「リアル」である。あるいは、エミネムのスリム・シェイディは虚構のキャラクターだから前者の点では「リアル」(ウソでないこと)ではないが、後者の点からして、(そこに性差別が深く絡んでいたとはいえ)社会の鬱憤を表現して「リアル」なのである。

 アームストロングの分類と混乱してしまうかもしれないので、一度整理をしておく。まず、岩下の言う前者の「リアル」についてはアームストロングの「自身に正直であることtrue to oneself」とほぼ同じものだと見てよいだろう。主体と表現の間の結びつきが「true」であるということは、もちろん「oneself」に対してそうであるということを含むかもしれないが、当然わたしたちにはラッパーが究極的に嘘をついているか本当のことを言っているかは同定しえないのであって、むしろ観客が「自身に正直であるtrue to oneself」ように思えるかどうかが重要であるはずだからだ。そして、後者のリアル、生き様が「たしかに語るに値する」ものであるかということの内実のうちに、残りの二つ、「地域的な忠誠とアイデンティティ」、「演じ手がオリジナルなラップとの関係や近隣性を有しているか」とが当てはまるであろう。

 要約しよう。ヒップホップはオーセンティシティがきわめて重要な音楽であり、そのオーセンティシティは「リアル」という形を取る。そのリアルというオーセンティシティはコンペティションを通じて作り出される、あるいはコンペティションの文化だからこそオーセンティシティが重要なものとなる。そして、その指標にこそ性差別が潜んでいる。つまり、現状では、ラッパーが性差別的なことを言っても、それがヒップホップ的「リアル」を強化する、もしくはそこまではいかなくとも(黒人蔑視のケースとの比較に明らかなように)「リアル」を損なわないということ。あるいは、スキルある女性ラッパーやLGBTのラッパーが「リアル」を獲得するのに不利な状況に置かれているということ。問題の在りかを記述するならば、このようになるのではないだろうか。

 では、やはりコンペティションの閉鎖性こそがミソジニーの原因であり、そのような窮屈な制度こそ批判されねばならないのか。確かに、アームストロングや栗田のエミネムの研究は、一義的には、コンペティションがきわめて抑圧的にはたらきうるという、「あるリスナー」の批判を裏付けるものとして読むべきだろう。だが、それでも、私はコンペティションこそがヒップホップのミソジニーを改善するのに不可欠のものであると断固として主張したい。アームストロングのオーセンティシティの指標が、分析的なものに過ぎないことを忘れてはならないだろう。実際、栗田はそれが不安定なものだと指摘している。「様々な攪乱的言語実践が、当該の〈場〉の真正性・正統性指標として再び制度化され、言説や実践へと組み込まれていくその瞬間の様相を把捉しつつ、その言説や実践を裏打ちする論理の作動が失敗しうる様相から、文化ジャンルの境界そのものの揺らぎを描き出す」という「文化社会学」の視点が、ヒップホップにおいても有効だろう、と。簡単に言ってしまえば、ヒップホップの「リアル」は常に変わりゆくものであるということだ。例えば現在アメリカでも非アフリカン・アメリカンのラッパーの存在感は増しているし、韓国、中国、インドネシアなどアジアのラップも広く聞かれるようになっている。また、マチズモについてもギャングスタ・ラップ全盛の時代から時が経って緩和してきているだろうし、ドレイクやカニエの作品を直接的な影響源としてむしろ弱さをさらけ出すようなスタイルが増えてきている(それはそれでメンタルヘルスとの問題が新たに取り沙汰されているが)。それにつれて、ミソジニーもかつてに比べれば少しずつ改善されていっているようにも見える。ホモフォビアについては、次の記事がきわめて優れたものであるから参照してほしい。「ラップ・ミュージックと反ホモフォビアの現在 フランク・オーシャンからキングギドラまで」(http://realsound.jp/2015/05/post-3198.html)。

 こうした変化が可能なのは、抑圧的にはたらく場合があるとしても、コンペティションが何よりもまず対話の場だからだろう。それが目に見える形で表現されているのがMCバトルである(もちろん、今の日本のそれはヒップホップ的なオーセンティシティへの視線を失いつつあるのだが)。岩下はこれを「対戦をつうじて、他のラッパーとの関係性も生み出され、再解釈の糸口やイメージ更新の契機が矢継ぎ早に生じる動的なキャラクター生成の場」だとしている。岩下文が重要なのは、演者とそのリリック、演者同士、演者と観客の間にある種々の相互性を見つめ、その中で「リアル」が生成されること、そしてオーセンティシティ=リアルの内実を絶えず更新してゆくことの可能性を捉えているからである。また、対話の重要性を強調するのは、『ブラック・ノイズ』のトリーシャ・ローズも同様である。「男性ラッパー(そしてその他)との全面的な対立ではなく、対話関係から女性ラッパーを捉え直すことで、私は、黒人女性ラッパーが、アメリカ文化で支配的な人種的・性的ナラティブに沿いながらも、時にそれに反発しているさまを描き出したい」として、バフチンの枠組みを借りたジョージ・リプシッツの「ダイアロジスム批評」を応用し、ソルト・ン・ペパやクイーン・ラティファの楽曲を精緻に分析し、ヒップホップの対話的な在り方に沿うことで、女性ラッパーたちが存在感を増してゆく様子が描かれている。

 ヒップホップの歴史とは、対話的であるコンペティションの場で、価値観が更新されてきた歴史だとも言えるはずなのだ。例えばネイティブ・タンは非マッチョ的なものを持ち込んだし、N.W.A.はヒップホップが東海岸だけのものでないことを証明した。あるいはキングギドラは日本語で韻が踏めることを、Tha Blue Herbは地方でヒップホップが可能であることを、SCARSは日本にハスラーがいることを、ANARCHYは日本にゲットーがあることを、KOHH日本語ラップが世界に通用することを、それぞれ証明し、ヒップホップの「リアル」の内実を変革してきた。もちろん、白人がヒップホップ・ゲームの頂点に立てることを証明したエミネムの例のように、それらの変化にはそれぞれ、抑圧的な機構を温存するようにはたらく部分があるかもしれない。しかし、対話の場を確保し続けておくことこそが、「リアル」の更新を可能にするのではないだろうか。実際、アメリカにおけるQueen Latifah「Ladies First」、日本におけるCOMA-CHI「B-GIRLイズム」という、それぞれの国のヒップホップシーンに女性MCが参与することを後押ししたクラシックのどちらからも、きわめてコンペティション的な性格が見て取れるはずだ。だから私は、それがいまだ不完全であるとしても、コンペティションこそが〈ヒップホップの民主制〉を支えるものだと考えている。こうした可能性を、絶えざる批判がもちろん不可欠だとはいえ、強調したいと思うのだ。

 

 都合上、アメリカのヒップホップの話が中心となってしまったが、やはり私が最も興味があるのは日本語ラップである。「日本語ラップ批評」というものもこれから盛り上がってゆくべきだと考えている。いまだ語られていないことが多い。例えば日本の女性ラッパーに話を限ったとしてもそうである。「DA.YO.NE」のYURIやさんピンに参加したことで知られるHACらパイオニアに始まり、姫やMiss Mondayを経て、ANTY the 紅乃壱やRUMIといったレジェンダリーなMC、一時期フィメール・ラッパーのレーベルを立ち上げもした蝶々、そしてブレイクスルーとなったCOMA-CHIと続いてきた。テン年代に入ってからはSIMI LABのMARIAやS7ICK CHICKs、さらに現在のELLE TERESA、Sophiee、Awichなどが登場する。また同時に文化系ラップやアイドルラップ、さらに最近では一部のMCバトルなど、非ヒップホップ分野の女性ラッパーも多い。さしあたりこれらに触れておけば、簡単な見取り図にはなるだろうか。ともあれ、こうしたことすらいまだ十分に歴史化されているとは言えない状況である。やるべきことが多く残されているだろう。

 

 

 以上でこの文章の目的は達したことになるが、最後にもう一つ記しておきたいことがある。ここからは、現実の種々の問題からは「遠く離れて」書くのだとまずはじめに言っておきたい。その区別をしておかなければ、うえで散々検討したような、問題の隠蔽に加担する類の文章となってしまうからだ。しかし、そうした問題から距離を置くこともまた自由であるはずだ。だからこれは長めのアウトロといった位置づけにしておくのがよいだろう。

 ヒップホップについて考えるときに、常に頭にあることである。それはジル・ドゥルーズの「文学と生」(『批評と臨床』)にあるいくつかのセンテンスだ。そこでアメリカ文学についてこう言われている。「文学としての健康、エクリチュールとしての健康は、欠如している一つの民衆=人民(ルビ:ピープル)を創り出すことに存する。一つの民衆=人民を創り出すことこそが、仮構作用の役目なのだ。(中略)アメリカ文学は、この例外的な力、自分自身の思い出を、だがそれも、ありとあらゆる国からの移民によって構成されたある普遍的民衆=人民のそれとして自分自身の思い出を物語り得る、そんな作家たちを産み出す例外的な力をそなえている」。そこで創り出されるピープルとは、次のようなものである。「それは世界を支配するべく運命づけられた民衆=人民などではない。それはマイナーな民衆=人民、永遠にマイナーな、革命的に–なることの中にとらえられた民衆=人民である」。もちろん、エクリチュールとラップは異なる。しかし、ヒップホップもまさしく同じように、「マイナーな民衆=人民」を世界中に創り出しているのではないだろうか(U.T.F.O.から生まれたロクサーヌ・シャンテ、あるいはZEEBRAから生まれたANARCHY、そしてさらにBAD HOPが「ANARCHYみたく与えるゲトーキッズに夢と希望」と歌う……)。ましてや、この数行後にドゥルーズはこうも書いているのだ。「私は永久に一匹の獣であり、下等人種のニグロである。それこそが作家の生成変化なのだ」。カフカメルヴィルについて言われていることだが、それにしてもこれを読んでヒップホップを思い出さないことの方が、私には難しい。とはいえ、ヒップホップの特徴は、次のような一節に反しているようにも思われる。「文学は、われわれから〈私〉と言う能力を奪い取るような第三の人称(ブランショの言う「中性的なるもの」)がわれわれのうちに生まれるとき、はじめて始まる」。というのも、おそらくヒップホップは「私」と言うことによってしか始まらないように思えるからだ。それはすでに引いた岩下の「キャラ立ち」をめぐる議論もそうであるし、宇多丸がヒップホップを「“一人称”の文化」だと言ったこともまた有名な話である。そして、特に日本語ラップにおいて明白だが、この「私」は常に「俺」であった。「B-BOYイズム」という日本語ラップ史上最も偉大な曲のタイトルに、男性中心主義が明白な形で表れていることがその証拠であり、だからこそCOMA-CHIがそれに対してリスペクトを込めつつも、「B-GIRLイズム」と切り返し、「俺の美学」を「あたしの美学」と言い換えたことは歴史的な瞬間であったのだ。ここで、同じ「文学と生」のあまりに有名な一節が思い出される。「人間=男であることの恥ずかしさ――書くことの最も優れた根拠はそこにあるのだろうか?」。COMA-CHIのこの曲は、つまりこのような意味での恥を知れというメッセージであったように思われる。しかし、エクリチュールにおいて可能だとされている生成変化は、ラッパーたちに可能なのだろうか。ラッパーが「私=俺」である一人称から解放される契機が、ヒップホップには存在しているのだろうか。おそらく、それこそがキャラクターの生成や、偽装、リアルの更新といったヒップホップに可能な変革を、最も深いところで根源的に裏付けるものとなるはずなのだが、果たしてどうであろうか。COMA-CHIの「B-GIRLイズム」が出た2009年、RHYMESTERは活動休止中だった。この曲を聞いてインスパイアされたとまで言うのは深読みが過ぎるだろうが、翌年のカムバック作『マニフェスト』収録の「Come On!!!!!!!!」のMummy-Dは、このような問題に一つの光を与えてくれているように思われる。

 冒頭で宣告されるのは、自身の死である。彼の口ぶりは、あたかもMummy-Dという人格=人称が窮屈であるかのようである。「死 2 My technique 死 2 Mummy-D 死 2 My yesterday’s originarity/死 2 My ステージの王の称号 呼ぶな伝説とか大御所と/ああ、もう、解き放ってくれ縦の棒よ 横の棒よ/野生閉じ込めたがる鉄の棒よ」。ラップのリリックが常にラッパーの「私」に送り返され、また「私」と照応されることによって「リアル」が作り出されるのだということはすでに書いた。コンペティションには「自分が自分であることを誇る」(Kダブシャイン「ラストエンペラー」)ことが不可欠なのだが、そうしたシステム自体が、いまは耐えられないようなのである。「だってコトバはいつもオレを甘やかす 耳障りよくオマエをマヤカす」。同アルバム収録「ラストヴァース」に明らかだが、もともとMummy-Dは「オレ」と「オマエ」の間のコミュニケーション*3を重視するラッパーだ。しかし、ここでの彼はそれからさえも「逃走」を企てようとする。だからもはや、「コトバ」が「オレ」へも「オマエ」へも送られることがないように、意味のない言葉を歌うだけだ。「ラッタッタララッタッタ トゥルルラッタッタ」。彼の望みは「ただただドラムと愛し合う」ことだけであり、それにはMummy-Dという人格=人称も、それを成立させる「オレ」と「オマエ」の一対も、コンペティションのシステムも邪魔なのだ。しかし、最も重要なのは、「私」が常に「俺」でなくてはならないこと対しても、彼は自らうんざりしているかに見えることである。次の美しい一節にこそ、ラッパーに許された「逃走」の形が、「ラップすることの最も優れた根拠」が表明されていると私は考えている。

 

トゥルルラッタッタララッタッタ トゥルルラッタッタ

オレは今日もリズムと愛し合うだけのSkeezer…

それを巷じゃKINGと呼ぶらしいさ

 

 この錯乱、矛盾に驚くべきだろう。そして、それこそが「作家」ではなくラッパーに固有の生成変化なのだと言うべきだろう。つまり、「オレ」が「Skeezer」だと言っているのだ(補足しておけば、「Skeezer」とはインモラルな女性を指すスラングである)。優れたラッパーはみな秘密に、こうしたリズムとの特異な関係を持っているのだということを、ここでMummy-Dは打ち明けているように見える。彼らは、非人称的な力の場であるリズムを通って生成変化を経験して、戻ってくるのだ。一度捨てた王冠を再び頭につけて。それはリズムに自らの身体を貫かれることと比べれば、何ほどの価値もない。だが、ひとに言わせればそれこそが最もリアルでオーセンティックな「KING」の条件であるらしい。そのように誇り高く、あるいは「男であることの恥ずかしさ」を直視して苦々しく、歌っているのだ。

 ヒップホップとリズム論の哲学、詩学を接続したのは、「絶対的にHIP HOPであらねばならない」(『現代詩手帖』)の佐藤雄一であった。日本語で書かれたヒップホップ論の中で最も優れているその議論を紹介すること、ここで私が論じていることと佐藤の理論をすり合わせることなどはここではできない。しかし、リズムを中心に据えることで、ヒップホップの最も根源的な力に迫ることができるということは、ここで明らかにされたことである。Mummy-Dの一節に加えて、例えば次のようなフレーズが聞き逃せないものとして浮かび上がってくる。「HIPHOP よく音楽以上って言うけどよ 俺は音楽のリズムの上に乗って生きるぜ」(「MUSIC」)。これはSEEDAの素晴らしい洞察である。「音楽のリズム」と別のところに、生き様やリアル、セクシュアリティアイデンティティ、また社会や政治があるのではない。ましてそれらが「音楽以上」だとでも言うのか?ラッパーは、音楽のリズムに自らをさらして生きることで、それらを作り上げる。それこそが、ラッパーに固有の「小さな健康」(ドゥルーズ)ではないか。佐藤は、Kダブシャインの「まだ見たことない動き編み出す」(キングギドラ「行方不明」)というパンチラインを掘り起こしていた。ラッパーはリズムの中で、「まだ見たことない」自己を、リアリティを、セクシュアリティを、社会を、世界を捉えることができる。それをまだ聞いたことがないリズムに乗せて歌う。だから、リズムとはそれそのものが反逆なのだ。それは同じ曲でMummy-Dが、チャック・Dを引用して言っていることだ。

 

いざ明言しよう This is HIP HOP, this is the RHYTHM, the REBEL 

 

 

 

*1:その典型が「”全員主役”はまるでウータン・クラン!? ヒップホップ文脈で読み解く『HiGH&LOW』の真意」(http://realsound.jp/movie/2017/10/post-115007.html)である。「必ずしも悪ぶったり“リアル”なばかりでない、個性的でフィクショナルなキャラが次々と登場するのが本来のヒップホップの魅力なんです」として「『HiGH&LOW』は本来のヒップホップの持つフィクショナルな面白さをきちんと採り入れることで、日本の従来のヒップホップに根付いた固定観念をひっくり返している。これこそが僕にとってはヒップホップ的なものだと思います」と言っているさやわかは、自分で勝手にこしらえた「固定観念」を自分で勝手に「ひっくり返している」だけである。つまり、栗田文にもある「ヒップホップの表象する世界においては、「フィクション/リアリティ」の二項対立が極めて曖昧な形で存在する」というきわめて基礎的な視点や、「オーセンティシティ」が重要だと磯部涼らが繰り返し指摘してきたことを無視しているか、そのことに無知であるかのどちらかであるということだ。また、フィクショナルな側面については大和田俊之『アメリ音楽史』で「偽装」の欲望として十分に強調されていたことである。オルター・エゴは確かにその典型で、日本に少ないとはいえTwigy「Mr. Clifton」など例がないわけではない。しかしそれを言うなら、そもそも日本語ラップというジャンル自体が「黄色」から「黒」への「偽装」の欲望を強く持つジャンルであり、そのこと自体がフィクショナルだと批判され続けてきたことに触れなければフェアではない(サムライなどを「偽装」してナショナリズムに傾いたこともあったが)。また比較的最近の例を挙げれば、川崎南部とシカゴ南部を想像的に結び付けたBAD HOPや、ゲームやSFの要素を取り入れたゆるふわギャング、アメコミへの言及も多くフィクショナルな設定のコンセプト・アルバムを作ったPUNPEE(これは記事の後だが)などがあり、日本語ラップのどこが「悪ぶったり“リアル”なばかり」なのか、是非とも教えてほしいものだ。閉鎖的なヒップホップ村にヒヒョーを加えてくださっているつもりなのだろうが、この程度のテキトーな言説を垂れ流すだけなら、氏がヒップホップについて語っていようと黙っていようと、「リアル」なヒップホップ及びその批評には無縁のことだから私のあずかり知るところではない。

*2:なお、これと似た概念に「正統性Legitimacy」があるが、栗田はこちらを「ある楽曲が「ラップ」であると主張する際に持ち出され、かつ演じ手の相対的な社会的布置がより「本質」に近いと見なされるような方向性の指標」としている。しかし、この二つの指標を分けることの意義が私には分からなかった。というのも、栗田はその「正統性」を「リアルであり続けること」としているが、しかしそれは引用されているアームストロングの「真正性」のはじめの三分類(「自分に正直であること」ほか)と同一であるように思われるからだ。よって、ここでは「真正性」を栗田の言う「正統性」を含んだものとして使うことにする。

*3:詳しくは触れられないが、バンヴェニストディスクールの概念を思い出させるこの原理は、佐藤雄一が、後で触れる連載において、メショニックを通じて指摘したヒップホップの最も重要な要素の一つである。