韻踏み夫による日本語ラップブログ

日本語ラップについて Twitter @rhyminaiueo

ニッポンのポリティカルラップ

I'm out for presidents to represent me (Say what?) 

 

 

 あるときふと、日本のポリティカルラップについてどれほどのことが論じられてきただろうかと、疑問が浮かんだ。もちろんその政治性一般についてならば、多くのことが言われている。というかそれを避けて語られることなどほぼないといっていいくらいだ。ただそうではなくて、直接的なポリティカルラップに限り、どんなラッパーがどんな政治的主張を歌ってきたのかという、ある種一番ベタなことは実は行われてこなかったのではないかと思い至った。そこで、まだまだ抜けは多いだろうが拾える範囲で、日本のポリティカルラップの歴史と言うと大袈裟だが、概略のようなものを書いてみることにした。その意図はいくつかあるが、一つだけ言っておけば、安倍批判の歌が出たら拙速かつ一時的に騒いでみせるだけの末期的な状況から抜け出るために、少なくともまずはこれまで私たちがどれだけラッパーたちの声から耳を塞いできたのかだけでも自覚すべきだ、ということになろうか。


 最初からマニアックな話で始まってしまうが、まずはDJ K.U.D.Oのユニットで、桑原茂一がプロデュースしたThe Hardcore Boys「俺ら東京さ行ぐだ(ほうら いわんこっちゃねえ MIX)」(1985)に触れておかねばなるまい。発禁となった激レア盤として知られており、磯部涼は「もう一度、ハードコア・ボーイズから聴け!」(『ラップは何を映しているのか』)と言うほど重視している。幸いなことにネットを探せば聞けるので、いとうせいこうのラップパートを引く。「テレビもゲイ ラジオもゲイ/葉っぱもねえべハシシもねえべ/コークなんかまったくねえ おまわりヤクザとぐーるぐる/エイズもそれほど流行ってねえべ/角さんと中曽根と数珠を握って空拝む/核もねえべ戦もねえべ」といった感じで、厳密にポリティカルラップと呼べるかは微妙かもしれないが、後にこの曲のイズムは日本語ラップ史上最高のポリティカルラップに引き継がれもするので、紹介しないわけにはいかない。なおこの曲については、電子雑誌『エリス』(パスワード入力やらがややこしいが、ネットで無料で読める)での磯部の連載「ニッポンのラップ」の第6および9号分を参照のこと。いとうについて加えておけば、ヒップホップとしては括れないかもしれないが、湾岸戦争時の文学者声明や、「ミャンマー軍事政権に抗議するポエトリー・リーディング」などがある。

 次に重要なのはもちろんPRESIDENT BPM(=近田春夫)である。「MASSCOMMUNICATION BREAKDOWN」(1986)や「Hoo!Ei!Ho!」(1987)というクラシックはどちらも社会的な問題を取り扱っており、日本語ラップの歴史の最初から、ポリティカルラップあるいは少なくともコンシャスラップは存在したのだと言える。この二つの曲についてはもはや説明はいらないと思うが、実は私としてはそれよりも彼の「Egoist」(1987)の方が重要な曲だと考えている。「なんてエゴイストなんだ俺は」と自虐的に繰り返しながら、「よくなるわけなんかないじゃんさ/どんどん広がってっちゃう貧富の差/たった十年後にはスラムに老人ホーム」「ガスも電気も付かない母子家庭」など、格差について歌っている曲である。これが優れていると思うのは、当時の日本のヒップホップの限界を自覚しているからである。裕福な日本でヒップホップが~式の問題をおそらく自覚して、「なんてエゴイストなんだ俺は」と開き直りながら、しかし「Egoist」なりにコンシャスラップを行なっているわけだ。さらに、彼が予言しているように、日本は実際に格差社会になるわけで、それによってMSC、ANARCHYやSHINGO☆西成、いまならBAD HOPなどが出てくるという日本語ラップの歴史を思い合わせば、やはりこの曲はいまなお新鮮さを失わないクラシックである。
 次に触れるべきはECDの反原発ソング「Pico Curie」(1990)なのだろうが、あまり言うこともない。彼自身この曲はサブカル的な意識でやっただけくらいに言っていたし、広瀬隆などの影響を受けたものであろう、ということだけ言っておけばいいだろう。他に例えば差別問題について歌った「レイシスト」(1993)や、援助交際をテーマにした「ECDのロンリーガール」(1997)での「道の敷石ケツっぺた付けたまま立ち上がれ/マジな話早く立ち上がれ/これちょっとシリアスだけど立ち上がれ」「信号無視もできないアリンコにされるとさお嬢さん」といったパンチラインなどもあるが、やはり本格的に政治化することになるのはゼロ年代に入ってからなので、そのときに再び触れることにする。

 

 90年代は周知の通りさんピン、日本語ラップ派と、LB、Jラップ派が対立していた時代である。両者はポリティカルラップに対するスタンスにおいても対立していたと言っていいだろう。つまり、前者が本場アメリカのような政治や社会と結びついたヒップホップを輸入しようとしたのに対して、後者は80年代サブカルの流れを受けてベタな政治性を避けたということである。『ラップは何を映しているのか』でも指摘されていた通り、ギドラは環境問題が主題の「星の死阻止」(1995)や、反核反戦ソング「地獄絵図」(1996)など「ベタ」にポリティカルラップをやっていたのに対して、スチャは「クラッカーMC’s」(1993)で「社会に反撃俺は歌うテロリスト」と言いつつ、ヴァースで夏は暑いなどと歌って、ポリティカルラップをバカにしていた(つまりポリティカルラップは夏は暑い程度のことしか歌ってない、という皮肉)。とはいえ、90年代にはポリティカルラップと呼べるものはあまりなく、むしろポリティカルラップが増える2000年代を方向づけたことが重要だろう。つまり、日本語ラップ派がサブカル的「お笑いくさいイメージ」(マイクロフォンペイジャー)に勝利し、日本のヒップヒップ界のヘゲモニーを握ったということである。これが政治的な問題として浮上したのが、Dragon Ash「Grateful Days」(1999)のヒットによってである。この曲は「DA.YO.NE.」「ブギーバック」以来の日本語ラップヒットだったが、前二曲とは違って「お笑いくさいイメージ」が一切ないものであった。なぜこれが政治的な問題となるかと言えば、90年代は小林よしのりが台頭してきていたように、右傾化が問題視され始めていた時期であり、この曲には確かにそうした時代の空気が反映されていたからである。西田健作による『朝日新聞』記事「リスペクト ラップで語る空虚な倫理」(1999)が言っていることだが、「父から得た揺るぎない誇り 母がくれた大きないたわり」が封建主義的で、「日出ずる国に僕ら生まれ育ち」が愛国主義的である、というように(いずれもKJのヴァース)。むろんこの記事はクソだが、KJの体現していた政治性が陳腐であることもまた事実で、実際当時酒井隆史外山恒一などもドラゴン・アッシュを批判している(ちなみに外山のアッシュ批判はそれが右傾化だからというものではなく、一線を画している。ここでは詳しく触れないが、『音楽誌が書かない「Jポップ」批評2』に収録されているそれは、短いながらきわめて鋭く、日本語ラップ批評の重要文献の一つである)。まあ後にKJは逆にヒップホップ村から追放されてしまうわけでもあるが、それはまた別の話である。

 そしてゼロ年代前半になると、確かに日本語ラップの一部は明確に右傾化していった(もちろん当時は日本全体が右傾化していると叫ばれていた)。その右傾化の代表が再結成後のキングギドラである。日本語ラップでは珍しく外野の批評家も多く言及していることなのでここでは細かいところは省くが、Kダブシャイン「なぜか暴かれたくなる終戦記念日」(「狂気の桜」、2002)、ZEEBRA「たしかに負けたぜ戦争じゃ/だけどディスらせねえ今の現状は」(「Neva Enuff」、2001)などの反米保守的なラインは印象的だろう。そしてキングギドラの二枚目『最終兵器』(2002)はこの時期の彼らのスタンスを端的に示しているアルバムであり、右翼を描いた映画『凶器の桜』のテーマ「ジェネレーションネクスト」、拉致問題を取り上げた「真実の爆弾」などで保守的なメッセージが歌われている。他に同時多発テロについて歌った「911」もポリティカルラップである。ここで日本を代表する社会派ラッパーKダブの曲もまとめて紹介しておいた方がいいだろう。「ロンリーガール」の続編と言うべき「禁じられた遊び 」(1998)、虐待について歌った「Save The Children」(2001)、愛国ソングの代名詞的な「日出ずる処」(2003)。メディアなどを批判する「自主規制」、ギドラ「コードナンバー0117」の「もし俺が総理大臣だったら」をセルフサンプリングした「マニフェスト(オレなら)」、少年犯罪で亡くなった高校生が生前に残していたラップ音源を元にして作った「今の世の中 feat.ケンタS」などが収録されたEP『自主規制』(2010)などである。
 ところでこのゼロ年代前半の右傾化について、日本語ラップサブカル的な軽薄さを失い、ベタな「自己」や「倫理」や「共闘」について歌ったことが原因の一つだというような議論がなされた。しかし、それは間違っているだろう。というのも、右だけでなく、左のポリティカルラップが増えたのもこの時期だからである。言い換えれば、ゼロ年代前半は右傾化の時期というより、ポリティカルラップ隆盛の第一期と見る方がおそらく正確なのである(もちろん、それは小泉政権下で、イラク戦争の問題が起きていたという社会情勢が直接的な原因だろう)。それを端的に示しているのが、サブカル的軽薄さが特徴だったスチャとRHYMESTERの二組の「左旋回」である。周知の通りスチャはいまやSEALDsのデモに行くようになり、例えばそこで「ブギーバック」を披露し、「民主主義ってなんだ」「これだ」のコール&レスポンスを挟んだ直後に「よくないコレ(以下略)」と続け(つまり「コレ=民主主義」が「よくない?」というメッセージ)、かつてのナンセンスなリリックを政治化するまでになっている(https://www.youtube.com/watch?v=Lt3hNeLqblE)。おそらくその転向の契機となったのが2004年に4年ぶりのアルバムとして発表された『The 9th Sense』である。「Shadows of the Empire」はコンシャスラップと言ってよく、フックは「リアルが歪んだ あの帝国絡んだとたんだ/経費はかさんだ景色は荒んだ」で、例えば「高度資本主義のメッカ敗者の肉を食らうハイエナ」というリリックまである。他には、「スキマチック」では「オイ!そこの中流またはY.O.U/並の待遇並の収入/ダマしてたんまり出し抜く発想/時代だよしゃーない人間だもの」「労働者諸君/怒鳴ろう夜中請求昇給/冷たい群衆シュプレヒコール/通り過ぎてゆくLike荒谷二中」などと、かなりベタな左翼的主題を、もちろんコミカルにではあるが、歌っている。そしてこのアルバム以降継続的に社会的なリリックは色々歌われるようになった。例えば、「Shadows of the Empire」の続編と言っていい、『11』(2009)収録の「Antenna of the Empire」では、「上を向いて夢を見れた毎日がモーレツに変化/右肩上がりに所得も倍増なんて遠い目でつぶやく今日」と回顧するヴァースの中で、「カラテチョップ」や「アポロ」と並べて「固唾を飲んだ浅間山荘」と言ったりしているし、「聞こえのよかったあの改革知らぬ間に決まったこの国策/風呂敷だけはいつもデッカク ウン年後に財布を逼迫」とストレートな政治批判もしている。
 (グループとしての)ライムスが政治的なことを歌うようになったのも、スチャと同じ2004年に発表された『グレイゾーン』においてである(細かいことを言えば、2001年の前作『ウワサの真相』収録の「グッド・オールド・デイズ」で宇多丸が戦争自慢をする老人を皮肉っていたり、「The Showstopper」でMummy-Dが「まるでxxxの街宣カーの軍艦マーチなみの」「xxxじゃないなら手挙げな」と歌っていたりするが――「xxx」に入る言葉は自明だろうがなぜ隠さねばならないのか、メジャーデビュー作らしいと言えばらしいのだが――明確なポリティカルラップとは言えないだろう)。ライムスもスチャ同様にここではまだサブカル的ヒネクレを多少はとどめており、「911エブリデイ」は「911エブリデイ驚くようなこたあ別にねえ/ミサイル弾丸雨降りで ただしカメラ回ってねえ国で」というのがフックであるように、シンプルなアメリカ批判ではない。また、「フォロー・ザ・リーダー」は「The Choice Is Yours」(2013)の主張に繋がるような曲だが、まだこっちの方がヒネクレている。また、ライムスは同年に反戦ソングであるDJ HAZIME「いのちのねだん」に客演しており、宇多丸は「ついにボクの国も軍隊を模倣し後方支援を称し虐殺にご奉仕/調子こいた総理どもの言い訳はもう笑止あと一歩で奴らども念願の武力の行使」と鋭いポリティカルラップを歌っている。
 さて、いまとなってはスチャもライムスも結果的にリベラルな戦後民主主義者に「左旋回」していることに変わりはないわけだが、(かつての)宇多丸だけはそれと一線を画しているということは強調しておかねばならない。なぜなら、宇多丸日本語ラップ史上最高のポリティカルラップをその前に残しているからである。DJ OASIS「キ・キ・チ・ガ・イ feat. 宇多丸&Kダブシャイン」(2001)の彼のヴァースである。あまりに名曲なので詳しく論じるのは別の機会に譲るが、簡単にトピックを拾うだけでも、これが最も先鋭なポリティカルラップであるということは十分伝わるだろう。慰安婦問題(「まるで常習的性犯罪者」)などの戦争犯罪(「裁かれずに死んだ酷い人」)に触れ、それを天皇の戦争責任(「心の広い人」)に結び付けた天皇制批判であり、さらに広く戦後民主主義を批判する(「おかげでこの国じゃ事勿れ」「まるで猿みたく目と耳と口おさえ立ち竦む」)ものであると言える。本当はこの曲をきちんと読解するためには、この第一ヴァースと、PC的言葉狩りを主題にした(「政治的に正しい表現に変換キー叩くと自動転記」)第二ヴァースの連関、およびそこから見えてくるこの曲の主題と「言葉の隠し絵」という形式、技法、戦略の結びつきこそが重要なのだが、そこまで論じる暇はない。それでもなお、「右も左も危なっかしいぞ」というよく知られたパンチラインの通り、この曲は現在でも左右を積極的に批判しうる射程を十分に持っていることは一聴明らかであるはずだ(「右も左も~」はいまや、脆弱で欺瞞的な相対主義を歌うものとして流通しているが、許しがたい堕落である。とはいえその責任の一端は「グレーゾーン」のライムス自身に帰せられるのでもあるが)。例えばそれは現在のライムスについても言えることである。『Bitter, Sweet & Beautiful』(2016)は、吉田健一の「戦争に反対する唯一の手段は、各自の生活を美しくして、それに執着することである」という言葉をモチーフにしているが、「キ・キ・チ・ガ・イ」はそのような欺瞞をこそ批判する曲だったはずだからである。ちなみに、The Hardcore Boysの批評性が後に影響を与えると言ったのはこの曲のことである。放送禁止用語を聞き違いさせるこの曲のタイトルはおそらく、いとうと藤原ヒロシがラジオで共謀して、「行き違い」という言葉をスクラッチしているふりをして、〈聞き違い〉させていたことへの、オマージュであろうからだ。したがって「キ・キ・チ・ガ・イ」はその曲自体の完成度はもちろんのこと日本語ラップの歴史から見ても、またそれが自主回収に追い込まれてしまったということも含めて、疑いなく史上最重要のポリティカルラップである(というか、日本のポピュラー音楽全体からみても重要曲と見なされなければおかしいだろう)。さらにちなみに「キ・キ・チ・ガ・イ」はOASIS&宇多丸のポリティカルラップ三部作の一作目といった位置づけで、DJ OASIS社会の窓(キ・キ・チ・ガ・イPartⅡ) feat.宇多丸」(2000)、「世界一おとなしい納税者(カモ) feat.宇多丸」(2004)がある。
 さて、イラク戦争をきっかけに、政治に対する意識を強く打ち出すようになったラッパーとして、もちろんECDに触れねばならない。知られているように、彼はこの時期にサウンドデモに積極的にコミットしてゆくことになるのであり(松本哉・二木信『素人の乱』、毛利嘉孝『ストリートの思想』なども参照)、日本語ラップで一番左翼的なラッパーだったと言えよう。そこで作られたのが「言うこと聞くよな奴らじゃないぞ」(2003)である。それが後に「言うこと聞かせる番だ俺たちが」に変わり、デモのコールに使われていることは周知の通りである。この時期には他に「もう遠くに追いやるのはよそう戦争を」「いっそ東京を戦場に」と歌う「東京を戦場に」(2004)や、当時の運動(松本哉の「貧乏人大反乱」など)とキング牧師が率いた68年のデモ(英語ではPoor People’s Campaign)のイメージを重ねたものだろう「貧者の行進」(ちなみに収録の2003年のアルバム『失点In the Park』のジャケットには、「反戦」「スペクタクル社会」などの落書きが写されている)などがある。ちなみに、この時期のサウンドデモについての結構オドロキのエピソードを磯部が書き残している(『ヒーローはいつだって君をがっかりさせる』)。「次にテンプル・ATS(引用者注:降神を中心とするクルー)が覆面で登場すると一転、皆その生々しいリリックに聴き入る。続くECDでまたモッシュ」。ランキン・タクシーが出てきて、その次にシロー・ザ・グッドマンの出番が続くはずだったが針が飛んでしまい、「そこに手を貸そうと、ライブを終えたばかりのイルリメことモユニジュモがマイクを握る。「他にも誰か歌いたい人!」という彼の呼びかけに、テンプルのメンバーが、遊びに来ていたMSCのMCカンまでもが、シローのかけるジャングルの上でフリー・スタイルをし始める」。漢はサウンドデモでフリスタをしていたのである。
 ゼロ年代前半の時期は、ギドラ、スチャ、ライムス、ECDなど90年代に出てきたラッパーたちが左右関係なく、一気に政治化した(あるいは政治性を強めた)時期なのだと言うことができよう。では、彼らの次の世代がこの時期にどういうポリティカルラップを歌っているのかを見ておこう。世代で言えばさんピンと同じだが、シーンに出てきた順で言えば次の世代と言えるTha Blue Herb。触れるのは「時代は変わる PartⅠ」「時代は変わる PartⅡ, Ⅲ」(2000)だが、なんともヘンな曲である。パート1はブルハが音楽シーンに革命を起こすと言ったようなことが語られるのだが、2の最初のヴァースはいきなり本物の革命、つまりロシア革命のことから始まるのだ。それも革命の終わりから語り起こされる。「オレが生まれる前に一度ロシアで時代は変わった/赤い旗は勝利を祝った、だが大半の人々にとっての革命はそこで終わった/正確には終わらせたかったんだ、なぜなら並大抵の犠牲を払った訳じゃなかったから」。そして、ソ連スターリン時代に入り、恐怖政治が行なわれたことが歌われ、「イデオロギーが生み出したのはアレルギーだけだった/人間らしさに全てをかけた革命は結局その人間らしさに負けたんだ」とこのヴァースは締められる。ヴァース2ではソ連が崩壊し、冷戦が終わった後の世界が語られる。「そして時代はかわった、ソヴィエトは滅び去った/西側は勝利を祝った、しかしそれは人の欲に拍車がかかっただけに過ぎなかった/オレたちを止めるモノはどこにもなかった」。中東の紛争など世界の惨状が様々に語られ、次のヴァース3では革命の後の空しさに打ちひしがれ、「欲と無気力」という内面の問題に行き着く。「無気力を倒し欲をみたすのか、欲そのものに無気力になるのか、どっちがしあわせになれるのだろう?」。次のヴァースでやっと(?)日本が主題になり、左翼的批判が歌われる。「朝鮮、ベトナムWARでかき集めた金はこの国の中枢を簡単に狂わせた」「やられたコトをいつまでも言ってたってな、やったコトを認めなきゃ話にならねーな」「巨大な象のオリに囲まれた沖縄、二風谷の名は教科書にはなかった」「原発の安全計画は幻覚、その場しのぎの宦官どものていたらく」「アメリカに飼い慣らされていきがっているこの国は一体、何なんだ」。そして最後のヴァースなのだが、これまた奇妙な終わり方をする。いかにもBOSSらしいと言うべきか、「時代を変えたいっていうオマエの意見にはおおいに賛成だ/想う、考えるということは大切なことだ/だがこれだけは覚えておいたほうがいい」とつらつらと説教を始め、「革命が覚めることほど残酷なモノはない/オレに最後までついてくるのはオレだけだし/オマエを最後まで見捨てないのもきっとオマエだけだ」とやはり内面の問題に帰着してこの長い曲が終わるのである。このヘンな曲への評価の分かれ目は、これを反革命と取るかであろう。それはさておき、こうした曲をさしあたり文学的ポリティカルラップ(政治を内面の問題と絡めたり、視点を変える語りであったり、寓話的であったり、というのが特徴)とでも名付けておくことにしよう。こうした曲が他にいくつかある。例えば、ブルハだとディストピアもの「未来世紀日本」(2002)があったり、他のアーティストのものではSHING02「PEARL PARBOR」(1998)や、降神「who i am?」(2004)などがある。ちなみに、BOSSは2010年にOLIVE OIL、B.I.G. JOEとともに沖縄の基地問題などを歌った「MISSION POSSIBLE」を発表してもいる。
 次は般若だろう。妄走族に「Stop The Wars」(2003)という反戦ソングもあるが、ソロデビューした般若の最初のシングル「極東エリア」(2000)は日本のポリティカルラップ史において重要な転機だと位置づけることができる。内容は、反戦、反差別であり、特にアジアの平和を願ったものである。「アジア系外国人への日本名強要でも使わされる方も嫌ならNO」「確かに減るこたねぇ犯罪組織(中略)/全部が全部外国人 特にアジア系?そうじゃねぇ!」「狭い世界 差別はしない無差別/これからの日本のシステムに不可欠」「激しい貧困 拉致とか紛争/どうなる今から約数年後/終戦後の武勇伝よりも必要なのは物資救援所」。主題だけでも重要なポリティカルラップだが、この曲が転機をなすものだというのはむしろ、ポリティカルラップを歌う主体の変化によるところが大きい。それ以前のポリティカルラップは、シリアスだろうと軽薄だろうと、当事者性の欠如した「Egoist」的範疇にあったのだが、「極東エリア」は当事者性のあるポリティカルラップである。知られているように般若は韓国と日本のハーフであり、この曲では明言されてはいないが、「この歌詞が届くのはいつ先かしら/俺もどうなるか分からんが片方無かったぜ戸籍の欄は」と、父親について仄めかされてはいる。しかしこの曲が優れているのは、それにもかかわらず、磯部が「汎アジア的想像力」と評している通り(『ラップは何を』)、アイデンティティ・ポリティクスにとどまっていないという点だろう。だから、ポリティカルラップの語り口という点でもこの曲は新鮮である。つまり、この時期の般若と言えばODBやバスタ的な変態フローや、イルなキャラクターが売りだったが、「アニョハセヨ耳傾けろ/オイラのペニチョコ舐めてけろ」と始まるこの曲は、「Egoist」たることを自覚した軽薄さとも、逆に「Egoist」であってはならないとするギドラ的シリアスさとも、あるいはブルハ的内省とも、全く異なるスタンスを提示しているのである。ただし、その後の般若はシリアスになり、愛国的な主張を続けてゆくことになる。映画のイメージソングとなり話題を呼んだが「極東エリア」と比べれば凡庸な反戦ソング「オレたちの大和」(2005)、(自らがハーフだと明かしながら)韓流ブームを批判する「土足厳禁」(2007)、比較的最近の愛国ソングでDJ KEN KANEKOに客演した「JAPAN」(2016)などである。

 般若とタメのOZROSAURUSにも触れておこう。風林火山のJANBO MANとF.U.T.O.を招いた「Rule」(2001)は、反戦反核、反レイシズム、反人身売買などを歌うポリティカルラップで、出された時期的にも般若「極東エリア」と並べられるべき曲だろう。他には「Soul Dier feat. SORASANZEN」(2006)が優れた反戦ソングである。イラク戦争をテーマにしたものだが、例えば「(こっちじゃ)戦争の音もしねえがテレビじゃ軍人様さながら自衛隊サマワ」のなかなか上手いダブルミーニングもあったりする。次作2007年『Hysterical』にもフック「いい戦争悪い戦争そんなろくなモンなんて無そう」とある「EXODUS [大脱出計画]」などポリティカル、少なくともコンシャアスな曲が複数ある。
 同じ78年生まれの漢が率いるMSCもきわめて重要な存在である。磯部が言うように、彼らの登場によって、日本では不可能だとされていたリアリティラップ=ギャングスタラップの政治性が担保されたのである。これは日本語ラップの政治性を考えるときには最も根本的な変化なのだが、それは直接的なポリティカルラップだけを扱うここでの課題ではないのでスルーする。むしろMSCは2000年代後半において最も重要なグループとなるのでその時に触れることにする。
 ちなみに、T.V.O.D.の百万年書房のウェブサイトでの連載「ポスト・サブカル焼け跡派」で、このゼロ年代前半のネオリベが浸透してゆく時代の空気を反映したラッパーとしてKREVAが取り上げられている(http://live.millionyearsbookstore.com/category/post-sabukaru/kreva/)。が、ヒップホップ警察として補足すべき点がいくつかあり、ちょうどいい機会だからここで触れておくことにする。まず、「上がってんの」(キック「マルシェ」)と問いかけるネオリベ的なKREVAに対して、ネオリベに批判的な「下がってる」側からのラッパーとしてECDが褒められている。別にECDは素晴らしいアーティストであるしそれでいいのだが、なにかネオリベ批判が左翼だけのものだとでも言いたげな風に見える。だが言うまでもなく、ラッパーは左右関係なく基本的には「下がってる」側を歌うものであるのだから、この時代の右寄りのラッパーのリリックを拾って補足することにする。例えばKダブは「現金崇拝してる連中金の亡者よく眠る」というフックの「悪い奴ほどよく眠る」(2000)で拝金主義を批判していたり、「天国と地獄」で「この東京もう無国籍都市 権力側の目的阻止/野生の王国弱肉強食 食うか食われるかっていう法則」とおそらくグローバリズム批判である歌詞もある。これは2008年だが、Mr. Beats「大人の責任 feat. CRAZY KEN, 宇多丸, K ダブシャイン」(重要なポリティカルラップなのでここで触れておく)の「規制緩和してる基準だって/てめえらに都合よく自分勝手」というリリックや、「自主規制」の「また勝ち組集まって語る格差/ただ話題にあがってるだけの弱者」などもあるから、明確にネオリベに批判的である。あるいは、般若。彼こそ「下がってる」側のリアリティの表現者として最も突出した存在だと言えよう。かつて属していた妄走族「YEN」(2003)のフックは剣桃太郎の「貧乏人は犯罪者 金がねえと罪になる」という、ネオリベ+監視社会批判を自虐混じりに歌う素晴らしいパンチラインであり(ちなみに、般若ソロの2004年「絶」でこのラインが引用されるのだが、「貧乏人」の箇所にピーが入っている)、般若はヴァースで「大手金融自社金貸し/知ってる俺だから金なしだから情けなし/限度額上げたらジ・エンドだす」などと歌っている。ソロでも枚挙に暇がないが、例えば「ジャリ銭と夢見事反比例」「バカが付くほど金だな大将」「笑っちまうけど俺らアリンコ上から見ればなだけどガチンコ」などと歌う「MY HOME」(2005)も「下がってる」側のリアリティの表現として大変優れているだろう。あるいはまさに「構造改革」(2002)という曲もあるMSC(実はどちらかと言えば右寄りの思想を持つグループである、後述する)。これも磯部が指摘していたことだが、「新宿アンダーグラウンドエリア」(2002)の漢のヴァース1は不景気に喘ぐサラリーマンへの応援歌である。ヴァースを丸ごと引用しておく。「新宿西側 下向き歩くサラリーマンお前らも訳ありか? 後ろ姿が寂しげだ/不景気リストラいつ上司が手の平返すか分からない/逃げ出したいこの状況から上向け昨日はダメでも/ガンバレ今日からというのは簡単/上辺の言葉綺麗事に頼る挙句落胆/進め 自ら倒れても0から時には手を汚し掴む金そんなのもありさ」。最後にどさくさに紛れてハスリングのススメっぽいことを言っているのがさすがである。
 それに加えて、T.V.O.D.のそもそものKREVA評についても補足しておこう。確かにKREVAネオリベ的だというのは当たっているだろうが、あまりに雑な印象論にしか見えず、ちょっといただけない。彼らの論旨としては、KREVAのイケイケな自分大好き感がネオリベ的だというものだが、「アグレッシ部」(2007)を指して「社会という水準ではなく個人という水準が重視されている」と言っており、これが誤読なのである。なぜならタイトルが駄洒落になっている意味を見落としているからだ。説明不要だろうが、「アグレッシ部」はただ自分だけを信じるということではなく、自分を信じてアグレッシブに行動する者たちの「部」を作ろう、あるいは社会をそういう「部」にしようという意味が込められている。歌詞からはそういうメッセージは読み取れないという反論があるかもしれないが、それはこの曲にリミックスがあることを知らないだけである。元曲のフックの「広い世界ただ一人になろうがオレは決めた」という箇所がリミックスでは「広い世界一人ではないこと教えてくれた」と言い換えられているのであるし、ヴァースでKREVAは「一人を感じてるならばさみしい/これだけの仲間そしてfamiliy」とさえ歌っている。したがって、KREVAネオリベ的と言うなら、KREVAネオリベ的な競争で勝つことを目指すと同時に、それだけでは疲れるし無理があるよね的なことも歌っており、それも含めてネオリベ的、あるいはネオリベ時代の空気を反映したラッパーであるというのが、まあ陳腐な社会反映論だが妥当な見方となるだろう。例えば、『新人クレバ』(2004)の「skit/Dr.K診療所」では、自分で「典型的なワーカーホリックですね」と診断しており、それは確かにネオリベ的アグレッシブさと言えようが、それでは疲れるので打ち込みはやめてワンループでラップしてみろとアドバイスされて、そのような曲(「WAR WAR ZONE」)へと繋がれていることもそうである。もっと分かりやすいのは「ひとりじゃないのよ」(2004)だろう。このヴァース1とヴァース2は、「アグレッシ部」の元曲とリミックスの二面性とまったく同じ構造であると言っていい。ヴァース1では、「一人でできたまるで手品」と始まり、「してる暇ないぜ絶望なんか(中略)/おはようございます こんばんは/毎回毎回が本番だ」とワーカーホリック的な熱心さを歌い、「そんな時だからこそ書きたくなる俺の言葉それのどこが悪いんだ」とアグレッシブなことを言っている。しかし、ヴァース2ではそれに限界があるということが歌われる。というか、「アグレッシ部」同様明らかに確信犯でやっているのだが、それとまったく正反対のことを言い出す。「一人じゃ無理だゲームクリア」。そして、みんなで自分に自信を持って高めあいながら上を目指そうという「アグレッシ部」のメッセージも共通している。「好きな奴らと切磋琢磨し必ず結果出す」「あいつのラップが俺を駆り立てる/このトラックが俺をたしなめる/このトラックとラップがあいつらの合図になるなら嬉しくて涙出る」。このように見れば、フックの「ひとりじゃないのよ分かるでしょ/僕のハーモニー君のハートに重なってゆく」というのは、ネオリベ的な社会で戦う者たちへの応援なのだと言うこともできそうである。実際曲の冒頭で「やつれた心に望み少しでもあげたくて二人でともに乗っかてくぜこのビート」と歌っている。他には比較的最近の「王者の休日」(2013)も同じ構造だと言える。KREVA自らボースティングとラブソングを強引にくっつけたと語るこの曲は、競争を勝ち抜いている「王者」(ヴァース=ボースティング)が「休日」を取る(フック=ラブソング)という構成だと解釈できる。少々長くなったがヒップホップ警察的揚げ足取りは以上。

 

 2000年代後半のポリティカルラップを見ていこう。MSCによって日本語ラップでも可能であるとされたリアリティラップ=ギャングスタラップによって、日本語ラップはこの時期には右傾化の危機を乗り越えることができた、ということをまず確認しておこう。実際、この時期にMSCに続いて出てきたハスリングラップが本格的にシーンを席巻し始めるのであり、かつては日本語ラップを右傾化だと批判した『朝日新聞』でさえも2011年に、格差が拡大する日本のリアルを表現するものとして、ANARCHY(と鬼)に取材している(取材はされていないが、他に名前が挙がるのがSEEDA、B.I.G. JOE、SHINGO☆西成で、いずれも2000年代後半に台頭したラッパーである)。私としては、そのような意味での政治性を体現する、シンプルだが素晴らしいパンチラインとして、A-THUGの「ガバメント奴らは俺らを台無しにする/俺らはパクられまたジェイル」(SCARS「MY BLOCK」、2008)を是非とも紹介しておきたいが、ここではそうした政治性については触れず、リリックで直接的に政治や社会について歌ったものだけに限って話を進める。それだけに限ったとしても、おそらくこれまで指摘されてこなかったと思うが、実はこの2000年代後半の時期は、ポリティカルラップが活発であった第二期と言えるように思われる。
 まずはよく知られていることから確認しよう。この世代の代表者の一人であるSEEDAがポリティカルラップを歌うようになったということ。といっても、それ以前にも、ブッシュ批判のリリックのある「Realist」(2003)や反戦ソング「Life feat. L-VOKAL」(2005)もあったりするのだが、まあよい。2009年のアルバム『SEEDA』で積極的にポリティカル、コンシャス路線を取り入れることになる。代表的なのはストレートなポリティカルラップ「Dear Japan」である。拉致問題に触れたり、麻生をディスったり、「あれ自民党これ民主党shut the fuck up I got bored of both/fuck Rick Rossなみにフェイクなボス 口先野郎に定めるスコープ」「なんの価値もねえゴシップ政治が」と政治の腐敗を批判したり、「9条捨てる 医療を変える/倫理を捨てる スタイルを捨てる/俺の読んだ教科書ゴミになる」と不安を口にしたりといった感じである。この曲の特徴は、オバマやリックロスの名前を出したりしてはいるが、「何も煽っちゃいない/俺は意見をここに記したい」「突っ込めるところがあるなら突っ込んでくれナーミーン/俺は別に完璧じゃねえ」など、基本的にはストリートのラッパーSEEDAとしてでなく、普通の一人の市民という立場から歌われている点だろう(実際この前作『HEAVEN』は脱ストリート的な面が強い)。「Dear Japan」がポリティカルなら、コンシャスなのは「Hell’s Kitchen」である。「いかれたオタクがマーダー田舎のギャル漁るプラダ/TVつければねつ造ばっか放送作家マスかくドラマ」と始まり、「国会で寝てるフリして戦争準備進めるほうが問題」と歌ったりしている。客演のサイプレス上野については、「テレビのリモコンPush On!画面向こう消去不都合/それでも寝転がって眺めりゃ屁ぶっこいて面白がってる」とスチャ的=サブカル的なスタンスを見せていることと、阪神淡路大震災を受けてのマイクロフォンペイジャーのコンシャスラップ(と言ってもいいだろう)「病む街」(1995)のパンチライン「生き抜こう地球丸いうちは」へのアンサーではないかと思われる、「地球もオレもまだまだ青い」というラインを残していることに触れておけばいいだろうか。SEEDAはさらに次作『BREATHE』(2010)で、コンシャス路線をより掘り下げることになる。資本主義、ネオリベを批判する「MOMENTS」や、愛や平和の願いを歌った「ALIEN ME」などである。ちなみにインタビュー(http://amebreak.ameba.jp/interview/2010/09/001701.html)で、彼はこのアルバムの「メインテーマかもしれない」のが「資本主義×至上主義っていうのはもう終わりだ」ということなのだと答えている。
 SEEDAの盟友と言っていいだろうNORIKIYOはどちらかと言うと、311以後SEEDAに遅れて(そしてSEEDAと入れ替わりで)ポリティカル、コンシャスラップを本格的に取り入れ始めるのだが、ここでも一応触れておこう。2010年のコンピ『RAPSTA ON BOOTSTREET』収録の「NEW DAY」で、「団地の谷間」の風景を「米軍通りYナンバー走る」と歌ったり、「進むカレンダー戦後50ちょいGHQかりそめのルール/何が善悪?真珠湾原爆知らねえことばっかでテンパんだよ誰か本当のことを教えてくれ」と歌ったりしている。
 まずここで確認しておきたいのは、SEEDAとNORIKIYOというとハスリングやストリートなどのイメージが先行するが、実はコンシャス、ポリティカルラップに後に目覚めていたということ、そして政治的な立場で言うとリベラルであるということである。ちなみに言っておけば、「CCG」を代表する三大ラッパーのもう一人と言ってよい仙人掌は、二人に大きく遅れたが今年MOMENT JOONに触発されて政治に目覚めたようで、「ポリティックスは無知な俺には触れられぬ/勉強しなきゃな始めて思えた」と歌っている(「MONDAY FREESTYLE」)。かつてのスチャやライムスが〈サブカル左旋回〉と呼べるとすれば、これを〈ストリートからの左旋回〉とでも名付けるべきだろうか。それはさておき、しかし、彼らとほぼ同時期に出てきたラッパーの中には、はじめからストリートのリアルと政治的主張を同居させたような曲を歌う者がおり、この時代を日本語ラップのポリティカル化第二期と言うのは、実は彼らの存在によるところが大きい。
 まずはSHINGO☆西成だろう(世代的にSEEDAらより上だが、シーンに出てきたのはほぼ同時期である)。西成という土地をレペゼンしていることがすでにポリティカルであり、「ILL西成BLUES」などの名曲もあるが、ここでは「U.Y.C」(2007)という彼を代表するポリティカルラップを取り上げる。「UYC」とは「言うてることとやってることがちゃいますねえ」の頭文字をつなげたものだが、政治家を批判する曲である。「選挙前と後態度が全然ちゃいますね」「ほんまにウソついてすみませんじゃ済みません/記憶にございませんは一般では通用しません/親の七光りで当選?やっぱ期待外れ」「北のミサイルは脅威?でも今日に始まった事やない正味/どうする総理?情に流されてる場合やない脳裏よぎる9.11!Worry abaut it!」「金利×金利×金利×金利×金利×金利×金利な日本で/死にかけること詩に書けるshit!」などといったリリックである。政治の問題をリアルな感覚に引き付けて大阪弁で歌うこの曲は、「極東エリア」に近いものだと位置づけることができよう。ちなみに西成は、今年もポリティカルラップであるDJ FUKU feat. SHINGO★西成「新しい日本」を出しており、そこで「「UYC」言った通りなってる」とこの曲も触れられている。

 「U.Y.C」にインスパイアされた「A.K.Y」(「あえて空気読みません」)を発表してもいるRUMIにも触れておこう。まずは「この世のおわり」(2007)だが、タイトル通りこの世の終わりを想定し、「他力本願ポケモン国家」「資本家の皆さん事件ですこの世は終わりですよ/さあさばら撒け猫灰だらけ果てるこの世に銭をばらまけ」「往生際悪い永田町の議員団子で救命ボート」などと歌うディストピアものである。次は「銃口のむこう」(2009)だが、かつての相棒般若の「極東エリア」ほどではないものの、比較的早い時期に出された反ヘイトソングだと言えるだろう。引用しておく。「憎悪が憎悪を生むスパイラルに僧侶も報道も巻き込まれてく」「アジア何が過去からの脱却/反逆じゃなく手を取れよ観客/気分でヤジ飛ばしてる恥」「毛嫌うばかりで相手をねぎらうことを忘れたエセ愛国者」「事実を歪曲させず伝えろ/グロテスクな現実を見せろ」。同アルバム(『HELL ME NATION』)収録曲としては、「邪悪な太陽」はコンシャスラップであるし、「公共職業安定所!」はプレカリアートラップと呼べるだろう。
 次は鬼である。「小名浜」がクラシックすぎるためか忘れられているようだが、彼は「スタア募集 feat. D-EARTH」(2007)というポリティカルラップの大名曲を発表している。自民党、それも特に当時首相だった小泉、安倍の二人を批判した曲である。例えば鬼の小泉批判だが「甲高い声で感動した 国会答弁に理念はどうした/権力による改革の暴走 礎の無い政治構造/まるで姉歯建築士の デブセレブの抱く犬猫畜生」ときわめて辛辣である。さらにネオリベ批判も歌われており、「次は六本木ヒルズハイジャック 資本主義にぶっかけるコンニャク/MHK自由経済 アホ丸出しまるでジブリカオナシ」(補足しておくと、MHKとはおそらく村上世彰堀江貴文木村剛の頭文字)、「気に食わねえなあ自民党政権 五年前から死人も年々/増加してんだよ8000人 格差社会がうんでる完全に/中小企業キッチンは火車 気狂った挙句自殺 空はブルーだ/政治が ねえ 殺した ねえ 小泉さん落とし前/つけられねえから閉じた国会」などである。とはいえ、実はこの曲は安倍の第一次内閣に対する批判の方が今聞くと面白い。鬼も「見てくれ気にしだした六月の安倍/核保有 何を言い出すのかね」と歌っているが客演のD-EARTHの方が安倍について色々批判している。「よくも懲りずにポスト小泉(中略)/次は安倍さん このまま右寄りな男に……(引用者注:聞き取れず)/肯定する第二次大戦まじでヒデえ/思想で戦後60年の歴史を否定」、あるいは「小難しい話で煙に巻くのが手段でたぶらかす国民/でも集団的自衛権なんて理論的にはいたってシンプルで/要はアメリカとつるんでよそに喧嘩しに行くってこった/そんなことしたら相手にとっては立派な宣戦布告/ミサイルぶち込まれても言えん全然文句/まあ自衛隊に入る奴は減っちまうだろうね/まあそしたら一般人が絶対されちまうな徴兵」。十年以上前の曲とは思えないというかなんというか、である。ちなみに、2010年に発売されたDJ OLDFASHION『THE OLD STRAIGHT TRACKS』には、「スタア募集」の続編と言うべき「スター汚臭」という曲が収録されており、鬼一家のメンツが民主党批判をしている。さらにちなみに言えば、鬼はインタビューで「スタア募集」について聞かれて、自らが右寄りの思想であることを明かしている(http://amebreak.ameba.jp/interview/2009/10/001127.html)。
 さて、ここで再び重要になるのがMSCである。特に2000年代後半から政治的なリリックが増えており、たいへん面白い。2006年の『新宿STREET LIFE』と言えばNOE’の「部落条例で育った俺」(「音信不通」)というパンチラインが広く知られているだろうが、他に少佐「White River」では「戦後を引きずる舐められた日の丸/ヨン様カリスマあんた何様」「こんちきしょうなポン人/アジア隣国アメリEU嫌いじゃねえが舐めんじゃねえ/白地に赤い日の丸背負って特攻ストレート/玉砕覚悟べらんめえイエローモンキーの本気見せる」とラップされたり、「Highreturn Plan」でPRIMALに「なあアメ公アメとムチの太平洋パレード/汗もさわやか あれよという間に荒れ模様/当ても外れてイラクアフガンピープル/飽きるのに飽きたジャパニーズイズシンプル」というラインがあったりする。ここまでで明らかなように、漢が「右翼左翼感覚両刀」(MSC「反面教師」、2003)と歌ってはいるものの、MSCは右翼的なリリックが多い。その中でおそらくTABOO1は例外的に(?)左寄りであるような節がある。例えば彼のクラシック「禁断の惑星 feat. 志人」では、TABOOが「経済発展 競争社会の行く末/人工衛星 監視体制の下ボタン一つで瓦礫の山と化す」「あっという間にほら みな野良 手の平の上で転がるワーキングプア」「洗脳されたイデオロギー 強制収容されるコロニー/独裁者が奴隷操るパペット スモールプラネット」と歌っていたり、志人の「再処理は早いところ対処しないと防壁破り砲撃の恰好の標的/誤作動により放射能汚染 オーバードーズした六ヶ所 」という予言的な反核のリリックや、続く「国家暴力 目下冒涜を説く 教科書じゃ消化不良だ 坊や」というおそらく歴史修正主義批判である歌詞が歌われている。これが収録されたアルバム『LIFE STYLE MASTA』(2010)では、他に「Fight The Power」や「BORN 2 BONE」などで反体制的なリリックが歌われている。
 以上のように、2000年代後半はイラク戦争あたりの時期に劣らぬくらい多くのポリティカルラップが出ていた時期だということは示せただろうか。その特徴というのは、ストリートが日本語ラップに発見された後のポリティカルラップということになるだろう。しかし、例えばこの世代を代表するSEEDAのポリティカルラップは、内容が穏当あるとしても、いかんせんストリート感やアングラ感が失われた、ある種退屈なものであったとも言える。むしろ鬼やMSCの方が、右寄りであるとはいえ、アングラな活気に満ちたポリティカルラップを体現しえていた。そこで紹介すべきが、この時期のアングラポリティカルラップとでも言うべきものの最良の体現者であり、私が日本語ラップ史上最高のポリティカルラッパーの一人だと断固として主張したいラッパーであるところの、メシアTheフライだ。

 といっても、メシアほど扱うのに困るラッパーはいない。本来メシア論で一個の文章ができてしまうくらいに複雑である(あるいはヒネクレている)ので、簡単に済ますがメシアの政治的な立場は両義的である。メシアを知っている読者ならご存知の通り、彼は右翼を自称している。確かに右翼なのだが、しかしギドラのようなオーソドックスな反米保守にとどまっているわけではなく、かといってネトウヨオルタナ右翼などとも当然全く異なる。彼は時には右翼であり、時には左翼であり、あるいはアナーキストであり、ファシストであるようにも見える。ともかくラディカルであり、言うなら〈右でも左でも危なっかしい〉ラッパーというのが最も実像に近いと思う。引用して示すのが早いだろう。まずは右翼的なリリック。MSCのO2のソロ作に客演した「宵闇」(2009)。「さかのぼる昭和動乱 太平洋南方に消えてった日章旗大東亜」「今じゃ参拝も反対って何なんだよあんたら/大卒左翼かぶれの言うことを聞いたってこの国は一向によくならねえ」「泥沼の負け戦導いた戦犯にアルファベット/何もかもいかれてる(中略)/また靖国で会いましょう」(ちなみにO2も同じスタンスなのだが、面白いことにこの曲が収録された同じアルバム『Stay True』の「火星呆景」にはECDが参加している)。彼の代表曲「- 鉞-マサカリ-」(2010)からも。「続きまして演目は核武装論/理想と労働のビジョン平和の象徴を/夢にまで見た自存自衛に向けて/被曝した宿命を語る孤高の小国/独立国家たる所以をもう一度首脳部に強く主張せよ」。一応言っておくが、私はこの主張には賛同しない。では次に左翼的なリリック。といっても、メシアの右翼的主張にゲンナリした読者を安堵させるというよりは、むしろ別の意味でもっとゲンナリさせるかもしれないようなものである。鬼のところで触れたDJ OLDFASHIONのアルバムに収録された「ゲバルト」という大名曲だが、なぜかこれは正真正銘の左翼ソングであり、それもある種ECD宇多丸をもはるかに超えて、例えば頭脳警察ばりのド左翼っぷりで、暴力革命を煽動する曲なのだ。「骨の髄までむしゃぶり食いつぶす日本国 首脳の即退陣を要求する/正義の名のもとに武器を取れ 目には目を突き刺せば血が噴き出すのだ」「教育という肉体言語 階級的怒りを鉄槌で表現しろ/全国の労働者学生市民のくだりから口説く徹底的革命」、「ゲバルトとは反革命勢力のドタマかち割って切り拓く将来」「我々は戦いを進めるためにありとあらゆるものを武器にしなくてはならない/簡単な薬品も加工すれば劇薬となるマッチライターが爆弾と化す/ただちに報復せよ死をもって贖ってもらうほかない赤色のテロル」、そして決定的なのが「マルクスレーニンが唯一のスター」!なぜ右翼であるはずのメシアがこんなにオールドスクールな左翼たりえているのか、それもそのはずというエピソードを引いておこう。PRIMALの証言である。「メシア・ザ・フライが昔のビデオとか本が好きで、けっこう貸してくれる。さいしょにメシアから借りた本は立花隆の『中核VS革マル派』(引用者注:ママ。『中核VS革マル』の誤記だろう)だった(笑)」(二木信『しくじるなよ、ルーディ』)。実際、「メット被り火炎瓶安保羽田闘争集結」(JUSWANNA「KKK」のメシア)、「俺ら学生運動の残党だろ」(メシア「東京Discovery3」のPRIMAL)といった歌詞もある。ところで、なぜ私がメシアを史上最高のポリティカルラッパーと評価するのかを説明しておくべきだろう。右翼的な主張については賛同しかねるが、ド左翼ソングもあるから帳消し、という単純なことではない(むろん「ゲバルト」という大傑作を残している時点で十分評価に値するのだが)。最も重要なのは、彼が唯一、アングラで「ドープ」(メシア自身が標榜する美学である)なポリティカルラップ、というよりもむしろポリティカルであることこそが「ドープ」であるというアティチュードを提示しえたことである。言い換えれば、この愚直に、時代錯誤なまでに政治的であろうとするアティチュードが、パロディックなユーモア(ギドラは単にベタであり、スチャやライムスはせいぜいイロニーに過ぎない)を生むこと自体の政治性こそが彼の最大の美点なのだ。

 この2000年代後半について、さらにもう一つ例を加えておく。おそらく日本語ラップ史上初だろう、ポリティカルラップビーフが起きたのも、この時代である。2010年、HAIIRO DE ROSSI & TAKUMA THE GREAT「WE'RE THE SAME ASIAN」という反レイシズムの曲が発表された。ヤフーニュースにもなり、大きな話題を呼んだらしい。「らしい」というのは、私はこれをリアルタイムで追っていたわけではなく、また肝心のこの曲はアルバム未収録かつネットから削除されており、恥ずかしながら元の曲を一度も聞いたことがないのだ。それはさておき、これに対してネトウヨラッパーSHOW-Kが反論し、数曲に渡ってビーフとなり、これもネットで小さくない話題になっていたようである(むろんハイイロの圧勝であった様子、まあ聞かずとも自明)。この騒動の一連の流れや、曲のリリックについては、ゴゴニャンタ「HAIIRO DE ROSSI vs. show-k」(http://gogonyanta.jugem.jp/?eid=3414)の記事にバッチリまとめらており、またこの曲についてのハイイロへのインタビューが二木『しくじるなよ、ルーディ』に収録されてもいる。

 

 日本語ラップ史的には、ポリティカルラップが増えたこの時期の直後に311が位置していることになる。むろんそれに関する曲が多く発表された。復興を願う曲と、政府、東電、メディアを批判する曲に分かれるが、ここでは後者のみを扱う。まずはdj honda「Don't Believe the Hype 真実の詩 feat.DELI,般若,MACCHO,RYUZO,Zeebra,TwiGy,RINO LATINA II & ANARCHY」(2011)から触れるのが早いだろう。シーンの中心人物たちが一堂に会した曲で、フックは「隠しきれないお上のヘマなどDon't Believe the Hype/苦し紛れの安全デマなどDon't Believe the Hype」という感じである。この曲に参加したラッパーの曲では、キングギドラ「アポカリプスナウ」(2011)や般若「なにも出来ねえけど」(2011)は広く知られているだろうし、OSROSAURUSで言えば「半信半疑」(2012)は震災を意識した曲である。曲ではないものの問題意識を強めたDELIが2014年に松戸市議会議員に当選したことも重要なアクションだろう。

 それ以外だと、反原発を訴えるCOMA-CHI「Say "NO"!」(2011)もよく知られており、他に「Return of the Bad Girl」(2012)でも「税金原発風営法嘘だらけの世界気が狂いそう」などと歌われるし、絵本付きのコンセプチュアルなEP『太陽を呼ぶ少年』(2011)も寓話的だが明らかに原発が主題である。他にはD.Oのアルバム『The City of Dogg』(2012)にはよく知られた「イキノビタカラヤルコトガアル」(2011)や、政府やメディアを批判する「Bad News」が収められている。「時代は変わる」の時点ですでに反核を歌っていたTha Blue Herbも「Hands Up」や「Nuclear, Dawn」(2012)を発表している。2011年に亡くなったギルスコットヘロンをオマージュしたSHING02 & HUNGER「革命はテレビには映らない」(2012)も広く知られていよう。なおSHING02は311以前から反核運動を行なっていたことも重要で、例えば2006年に「僕と核」というレポートをウェブで公開している。HUNGERというかGAGLEについて言えば震災後にチャリティーソング「うぶごえ」(2011)を発表しており、震災に関係なくポリティカルラップ一般ということでは政府を批判する「クーデタークラブ」(2009)などがある。他にはS.L.A.C.K.の『この島の上で』(2011)も震災に際して発表されたアルバムとして触れないわけにはいかないだろう。ただし、般若「なにも出来ねえけど」ほどではないだろうが、多少ナショナリスティックな傾きを帯びていることもまた事実である(野田努も指摘しているhttp://www.dommune.com/ele-king/review/album/002079/)。

 LUCK-ENDについても触れておこう。優れたプロテストソング「HATE&WAR」(ちなみに、おそらくパンクバンドThe Clashの同名曲へのオマージュが込められている。メンバーのルーディー・サリンジャーがおそらくクラッシュの大ファン)やフックに「全て飲み込んでいった津波」とあるコンシャスラップ「E pur si muove」(2012)などを発表している。それ以前では「Fuck Da」(2008)がポリティカルラップである。LUCK-ENDが重要だと思うのは、ストリート感も文学感もユーモアもごちゃ混ぜのクルーだからであり、したがってその政治性も豊かであったと言いうるだろう。

 他にはNORIKIYO&OJIBAH「そりゃ無いよ feat. RUIMI」(2012)。「何かがオカシイ何かが変です 洗脳されんなテレビ宣伝/オカシイよてんでソレ詐欺の典型 瓦礫は議事堂に埋めてよ先生」(NORIKIYO)、「国民の意見はそっちのけで利権/優先する順位間違ってもうコレ核実験/責任転嫁責任転嫁ってようやくわかった頃ツケ回って来た/ツーケー拭くのは俺達と俺達のその子供」(OJIBAH)といったリリックで、反原発デモの音声を使ったり、アナウンサーの声をコラージュして「福島第一原子力発電所における事故および放射性物質漏洩により、民放各局さらに広く永田町の皆様にご迷惑をおかけしていることをお詫び申し上げます」というのも皮肉が効いている。

 また、悪霊もこの時期にはきわめて重要な存在だろう。運動に積極的にコミットしていたきわめてポリティカルなラッパーである。まとまったリリースがあるわけでもなく、MCバトルには出場していたりするようだが情報があまりなく、正直私自身、悪霊のことはあまり良く分かっていない。ただ、般若とRUMIと同じ高校の出身で、悪霊のMCネームは般若が付けたものだというから、結構オドロキである(http://bmr.jp/feature/60138)。ちなみに、2016年にはDJ TASAKAとLeft Ass Cheeksというユニットのセルフタイトルミクステを発表しており、これもポリティカルである(https://left-ass.bandcamp.com/releases)。サンクラも貼っておく(https://soundcloud.com/blue-water-white-death)。

 この流れで必ず紹介しなければならないのは、もちろん田我流「Straight Outta 138 feat. ECD」(2012)であろう。おそらく最もよく知られた反原発ソングで、またポリティカルラップ全体でも特に人気のあるものだろうこの曲についてはいまさら解説は不要だろうし、重要曲であることも間違いない。が、この際指摘しておきたいのは、田我流のフックに性差別的なリリックがあることは批判されなければならないということだ*1。リベラルの間でアンセム化していると言っていいようなこの曲でさえこうなのだからヒップホップのミソジニーの根深さを物語っていると言えよう(しかし、私がこの曲への性差別批判を聞いたことがないのは偶然なのだろうか)。

 以上のように反原発の流れは日本語ラップシーンにも大きく影響を与えたわけだが、その中で一人異彩を放っているのがやはりメシアTheフライである。これまた立場がかなりヒネクレている。左翼嫌いなので反原発運動を皮肉るのだが、かといってネトウヨ原発賛成などではもちろんなくあくまで反権力であり、推測するに、プロレタリアートの側からいっそ革命を目指すべきだというのが、彼のスタンスであると思われる。まずはSATELLITEに客演した「SE7EN」(2011)でのヴァース。「リベラル派からスペシャルゲストとお話をしましょう/それとこれは別モン/皆でシュプレヒコール&レスポンスお手て繋ぎさあ!Let's一緒に滅亡/クレーマーの市民団体がそこまでエスコート」。リベラルと手をつなぐのはあくまで(革命のための?)戦略で、「ほめ殺しの後はこきおろすおめでとう」とのこと(ちなみに同曲のDOGMAのヴァースは「原発から命は延滞料 街にあふれる冷たい熱帯魚」という素晴らしいパンチラインで始まる)。次はPRIMALに客演した「続Proletariat TD4」(2013、ちなみにTDとはメシアとPRIMALコンビのシリーズ曲「東京Discovery」の略)。「チェルノブイリとパン食い競争プルトニウム降る綺麗な東京/この世の果てが近づきましたとさ、あらそうですかだから何か/今に始まったことでもねえからさ悪いけどそれには乗りたくねえ」とここでも反原発運動と距離を置いているが、確かに「鉞」の時点で「ロマンティック プルトニウム降る屈辱の夜」と歌っていたので筋は通っている。むろんここでもプロレタリアート側から歌っており、「Discovery4 階級的武装闘争」「金が物言うこの町中で民の叫びはまたかき消され/trooper音を立て崩れた世界であがくプロレタリアート」とある(「トチ狂ってる反日極左ゲバ棒野郎に国がガジられた」と、左翼嫌いも相変わらずなのだが)。

 

 次は震災以降、現在に至るまでのポリティカルラップだが、見取り図を描くとすれば、中心とすべきはNORIKIYOであろう。彼の主張や主題にとりわけ目を見張るようなものがあるというわけではないが、シーンでの存在感と、継続してそれなりの量を、ということで言えばどう考えてもそうである(シーンからはディスやビーフばかりが取り上げられ、シーン外はECDやSKY-HIばかりを取り上げるという感じで、どうにもNORIKIYOのポリティカル、コンシャスな面が見失われているように見える)。彼の代表的なポリティカルラップと言えばまずは、韓国と中国との関係が緊迫しているなか2012年に発表した「Hello Hello ~どうしたいの?~ 」だろう。この曲については二木信と野田努の合評があるので貼っておく(http://www.ele-king.net/review/joint/002418/)。他には震災後に作ったという「ON THE EARTH」(2011)はコンシャスな内容であるし、世界平和を願った「ありがとう、さようなら」(2011)もある。「仕事しよう」(2013)でも「選挙行かねえヤツに発言権ねえよ」と言っており、311以後政治に意識的になったことが察せられる。ちなみに次作『泥と雲と手』(2014)に収録された同曲のリミックスにはSHINGO☆西成と田我流が参加しており、例えば西成のヴァースに「商売人が政治家になったらこういうことになるなるなる/大企業が金儲けだけ走ったらリストラをやる首刈る/仕事しようにも仕事がないのに仕事しろって言うのもね」とある。ただこのアルバムで最も注目すべきは「耳を澄ませば」である。ヴァース1では「いがみ合ってるじゃん海挟んで彼ら欲しがる金 謝罪と懺悔/俺ら取り合ってばっかだパンケーキ」と中国や韓国などとの関係について歌ったり、「戦闘機飛ぶ沖縄やグアム」と基地問題、「世界中で散ったって聞いた生きたかったと思う俺はみんな/だからもう二度としねえって意味で誓う為にきっとあるんじゃんあの神社」と靖国に触れたりしている(立場としては多少ナショナリスティックなリベラル、という感じか)。ヴァース3では「人を刺し行くって言う奴に包丁売るってのはさ罪じゃねえ?どう思う?/武器作って売って得た金 で、アベノミクスってのは何なのかね?」と明確な安倍政権批判も行なっている。ちなみに、この曲はghetto hollywoodによるMAD動画も製作されている(https://vimeo.com/103136755)。続く「家路」でも「この国がどうお隣がどう まだ揉めてんのか見たよこないだも/誰かが惑星に線引いただけなのに歴史が後ろ髪を引っ張る過去にさ/戦後70らしいこの島国 戦争は知らねえ俺は頭パープリン」「右に傾きそうこの国はバベル?/じゃあさ左が良い?じゃねえ真っすぐ立て」などと歌っている。引用はしないが、次のアルバム『如雨露』(2014)収録の「MUSIC TRAIN」「舵は俺たちの手の中に」、さらに次の『BOUQUET』(2017)収録「CARZY WORLD」「何で?」などもポリティカル、コンシャスな内容である。これらソロ作品に加えて触れておきたいのは、同じSD JUNKSTAのメンバーWAXへの客演「戦争反対」(2014)、KEN THE 390にZORNとともに客演した「Make Some Noize」(2015)である。どちらもNORIKIYOのスキルが全開で素晴らしいが、特に後者だろう。他の二人のヴァースは無視するが(一つも大したこと言ってない)、まずNORIKIYOの出だし。「そう五月蝿い米軍のヘリ飛ぶ座間Base/Hey Say My Name俺は墓石屋の倅/親父来るんじゃねのバブル?ハスるCoffin/勘が良い奴は分かるはずさ察する通り」と、地元が相模原で座間ベースが近いことや、「墓石屋の倅」であるという生い立ちを組み込みながらうまい皮肉を言っている。他に「馬鹿が動かす原発浅はかさ/黒い雨降ってたってさ地はまだ固まらない/のに民は忘れる?それあんた方だ」「半世紀以上も前にBombを貰ってる/墓で犠牲なった奴らが怒鳴ってる」などもパンチラインだろう。

 他のものは手短に済ますが、一応パッと思いつくままに挙げてみよう。Moment「Nation's Best Kept Secret」(2011)、AXIS「REBEL MUSIC(反逆音楽)」(2012)、TAKUMA THE GREAT「The Message2012」(2012)、ECDILLREME「The Bridge 反レイシズムRemix」(2013)、Kダブシャイン+宇多丸「物騒な発想(まだ斬る!!)feat. DELI」(2014)、KOJOE x OLIVE OIL「回る ft. RITTO & 田我流」(2014)、HAIIRO DE ROSSI「風たち feat. SHNG02」(2014)、SALU「NIPPONIA NIPPON」(2016)、SIMON「Eyes feat. IO & RYKEY」(2016)、CHICO CARLITO「月桃の花が枯れる頃」(2017)、Bullsxxt「Sick Nation」(2017)、SKY-HI「キョウボウザイ」(2017)、「The Story Of “J”」(2018)、MuKuRo「This is OKINAWA feat.CHICO CARLITO」(2018)。傾向としてはレイシズム、排外主義への批判が増えたということになるだろう。その中でやはり傑出しているのは「物騒な発想」である。「時に物議醸す歌詞も書く」と歌った通り反響も大きく、曲自体の完成度もきわめて高い。また、愛国ラッパーのKダブが「ネトネト粘着 ウヨウヨ湧く」というネトウヨ批判のパンチラインを残していることも重要だろう。

 外国人、ハーフ、沖縄出身などマイノリティのラッパーたちが増えたのも特徴だろう。中でも私が最も優れていると思うのはSIMON「EYES」のRYKEYである。この曲の三人のヴァースはそれぞれ「そんな目で俺を見るな」で始まるが、むろんRYKEYの場合これは差別の視線を意味しているだろう(彼はケニアとのハーフであり、代表曲の一つ「ホンネ」には「君も知ってんだろ俺の噂あのハーフとは遊んじゃダメの噂」とある。なお、SIMONもボリビアとのハーフ)。しかし、単に反差別を歌っているわけではないことが重要である。「そんな目で俺を見るな/遠い国では戦では涙さ」と続くが、つまり彼は差別的な視線を遮断するよりもむしろそれを逆手に取り、他者の「目」に映る彼自身の外見を通して、「遠い国」への想像力を、東京の街に持ち込もうとするのである。そこで導入された想像力にしたがって、中東やアフリカの惨状がきわめて詩的に歌われるのだが、真に平和や反戦のメッセージを支えるだけの詩的な強度を持っているのは、この曲のRYKEYくらいではないかと思われるほどである。ただこれも、論じ始めると長くなるので割愛する。

 

 

 このくらいで一通りはさらえただろうか。もちろん紹介しきれなかった曲もあるし、見逃している曲も多いだろうから、ヒップホップ警察お得意のアレがないコレがない議論を期待しておく。

 

 

*1:ツイッターにて誤りを指摘されたため修正した。元の文は以下である。「が、この際指摘しておきたいのは、田我流が二か所で性差別的なリリックを歌っていること(しかもその一つはフック)は批判されなければならないということだ」。ヴァース中の「ゴキブリみたいな芸能レポーター」の箇所を「ゲイのレポーター」と私が聞き違えていた(歌詞カードの表記が「芸能」)。