韻踏み夫による日本語ラップブログ

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『POPEYE』7月号取材記事追記/Too Green To be Clean~DOTAMAの一件について~

※この記事は、それぞれ全く別の文章である「『POPEYE』7月号取材記事追記」と「Too Green To be Clean~DOTAMAの一件について~」の二本立てである(分けた方が読みやすいのかもしれないが、端的に面倒だった)。

 

・『POPEYE』7月号取材記事追記

 『ポパイ』2019年7月号の映画特集に私の取材記事が載っている。「なぜ『ポパイ』に、しかも映画について?」というのは依頼をもらったときに私自身が思ったことだが(「シティボーイ」などとは縁遠い人間であるし、そもそも映画について語ったこともツイッターですら多分一度もない)、せっかくなので、日本語ラップ、ヒップホップと絡めた形でよければ受けると返し、了承を得たので、取材を受ける運びとなった。

 特集のテーマは「面白い映画、知らない?」というもので、各人に「どんな映画が好きですか」という質問に答えてもらう形で、私は「ラッパーが好きな映画が好き」、あるいは「ラップの曲に出てくる映画が好き」だと答えた。映画については門外漢なので語るべきか逡巡した訳だが、そのようなテーマでなら語れるだろうと判断したのである。そしてそれは、「ラッパーが好きな映画が好き」というテーマと案外整合的だとも考えることができる。というのも、ラッパーが好きな映画は必ずしも批評的な(シネフィル的な?)評価が高いものではないからだ。しかしながら、音楽についてサンプリングという技法を通してそのようなことをしたように、映画についても、従来の価値観とは異なるヒップホップ的価値観をもって見ることで、別の見方や評価が発見できるだろう……というのがまあ、私が取材を受けることを正当化するためにこしらえた理屈である。

 ところで、「ラッパーが好きな映画」というテーマは少しヒネってある。それに類するものとして考えられるのは、『8マイル』や『ストレイト・アウタ・コンプトン』、『NAS タイム・イズ・イルマティック』、あるいは『サイタマノラッパー』、『トーキョー・トライブ』などのヒップホップ映画。2パックやアイス・キューブメソッド・マン、日本では田我流や般若、NORIKIYOなどラッパーが俳優として映画に出演している作品という括りも可能だろう。また、いわゆる「ブラック・ムービー」として、カーティス・メイフィールドのクラシックが主題歌の『スーパー・フライ』などのブラックスプロイテーションパブリック・エナミーが関わった『ドゥ・ザ・ライト・シング』をはじめとするスパイク・リー作品、ギャングスタ・ラップと同時代の『ボーイズ'ン・ザ・フッド』や『ポケットいっぱいの涙』などのフッド・ムービー、時代を飛ばして最近ではケンドリック・ラマーと密接な『私はあなたのニグロではない』や『ブラック・パンサー』などについても語れるだろう。

 しかしそうしたことは専門家に任せておくことにして(というか案外『PEPEYE』記事中にはヒップホップ関係の映画が多く取り上げられていた、また昨年杏レラト『ブラックムービー ガイド』というのも出版された)、よりライトに語れそうな「ラッパーが好きな映画」というテーマで話すことにした。そこで私は、ブライアン・デ・パルマスカーフェイス』、北野武『BROTHER』、ロバート・ルケティックキューティ・ブロンド』の三作品を選んで語ったのだが、取材に際して結構いろんなことを調べたり考えたものの字数的に入りきらなかったことが多く、貧乏性かもしれないがせっかくなのでブログに残しておくにした。

 ベタ過ぎると思われるだろうことは分かっていても、やはり外せなかったのは『スカーフェイス』である(たとえば最近でも『ペン+ ダークヒーローの時代。』収録の小林雅明×磯部涼の対談記事「ラッパーが体現する、ダークヒーロー像。」の中で『スカーフェイス』について、さすがによくまとまった形で言及されている)。サンプリングされた音楽が後に再評価されるということはよくあることだが、おそらく『スカーフェイス』についてはヒップホップがあったからこそ、現在にまで名作として残っているというのは間違いないのではないだろうか(公開当時、人気や評価がそれほど高くなかったとは、よく指摘されることだ)。逆に言えば、それほどまでにラッパーたちはこの作品を熱狂的に愛している、ということでもある。例えば、2003年にデフ・ジャムが作った『Scarface: Origins Of A Hip Hop Classic』というドキュメンタリーでは、ナズ、メソッド・マンスヌープ・ドッグ、ノリエガ、ファボラスなどの錚々たるラッパーたちがいかにこの作品から影響を受け、また愛しているかをいきいきと語っている。ヒップホップ史上最もサンプリングされた曲がジェイムス・ブラウン「Funky Drummer」なら、最も参照された映画は『スカーフェイス』だろう。

 周知の通り、『スカーフェイス』には「元ネタ」がある。「Kawasaki Drift」でT-PABLOWも「アル・パチーノじゃなくてアル・カポネ」と歌っていた通り、禁酒法時代を舞台に、主人公のアル・カポネの人生を描いた1932年の『暗黒街の顔役』(原題:SCARFACE)である。よく指摘されることだが、それを80年代のアメリカでトニー・モンタナが成り上がる物語に変えたことが、この作品の受容に重要な影響を与えたはずである。モンタナは、カストロ政権下のキューバからの移民で、彼が捌くのはコカインである。イタリア系でなくヒスパニック系を主人公にしたことは、アフリカン・アメリカンのラッパーたちにとって身近に感じられただろうし、また社会主義国から自由の国アメリカへ、という筋書きは、ヒップホップにも通じる成り上がりの物語をより際立てるだろう。さらに、ちょうどこの映画とほぼときを同じくして、いわゆる「クラック・ブーム」がインナーシティを襲ったわけで、そのこともラッパーたちに作品をよりリアルなものとして受け取らせただろう。一応確認しておくと、映画公開の83年は、ギャングスタ・ラップも、「Walk This Way」すらもまだ誕生していない時期である。したがって、『スカーフェイス』はおおよそ十年後にギャングスタ・ラップを発展させてゆくラッパーたちが生きていた環境に取材した作品なのであるから、ラッパーたちが熱狂的に愛しているのも当然と言えば当然で、さらにはこの映画のナラティブや造形を見ながら、彼らはギャングスタ・ラップを作り上げたのだとも言えそうである。

 より具体的にヒップホップとの繋がりを見てゆこうと思うが、無数に例があるので有名どころだけを押さえておくことで満足しておこう。まずは、MCネームやグループ名にオマージュが込められているもの。おそらく最も早く、かつあからさまなのは、ゲトー・ボーイズのスカーフェイスで、日本ではSCARSがそれに当たるだろう。トニー・モンタナから取ったものとしては、G-UNITのトニー・イェイヨーや日本だと剣桃太郎がトニーを名乗ったりもしていた。それぞれ曲の内容はまったく異なるがFutureにもECDにも「トニー・モンタナ」という曲があったりもする。また、たとえば2PacGangsta Party」のMVの冒頭でビギーを皮肉っている箇所は、モンタナがボスのフランクを殺すシーンのオマージュである。トニー・モンタナはそれほどのヒーローなのであって、日本語ラップでは「分かんだろモンタナ Yo what up」(般若「サイン」)や「映画で焦がれたトニー・モンタナ」(NORIKIYO「Bullshit」)、「ヤクに生きヤクに死に/トニー・モンタナ リアル物語」(SCARS「Pain Time」)といったリリックが頭に浮かぶ。少し変則的なのだと、トニーとその妻エルヴィラ・ハンコックについて言及するものとして、チャイルディッシュ・ガンビーノが「Got a big place like Scarface, treat her ass like Elvira」(「Money Baby」)と歌っていたり、「たとえばコロンビアのレックス・ソーサ/裏切り者は消えるYou know that」(SEEDA「God Bless You Kid」のSHIZOO)と最終的にモンタナの暗殺を指示することになる黒幕ソーサに言及するものもあったりと、ヴァリエーションは豊富である。また、コカインを指す「イェイヨーyayo」というスラングは、もともとヒスパニック系のものだったそうだが、この映画を機に広く知られるようになり、トニー・イェイヨーについては先に触れたが、例えばA-THUGにも「We sell weed, sell diesel/ラップじゃなくても金を稼いでる/We sell X, We sell meth, We sell yayo, get money let’s go」(「Starting 5」)というパンチラインがある。

 が、最も注目すべきは、ラップ作品で頻繁に引用されたり、そのまま声ネタで使われたりする、パンチラインの数々だろう。少なくとも以下で触れる四つの名セリフはチェックしておくべききわめて有名なものである。まずは、一般的にも広く知られているだろう、ラストシーンでモンタナが言い放つ「Say hello to my little friend」。ゲトー・ボーイズ「Assassins」やG-UNIT「My Buddy」では声ネタで使われているし、エミネム「We Made You」には「And I'll invite Sarah Palin out to dinner, then / Nail her, baby, say hello to my little friend!」とある。いつの放送分だったか忘れたが、『フリースタイル・ダンジョン』でR-指定も「俺の友達に挨拶しやがれ」と引用していた記憶がある。次はおそらくヒップホップ的に最も有名なもので、フランコを殺して成り上がりのための大きな一歩を踏み出したときに、宣伝用の飛行機に映し出される「The World Is Yours」だろう。言うまでもなく、ナズのクラシックである同名曲はここから取られており、このフレーズはほぼ定型的な表現となっていると言っていいだろう。また、日本語ラップでもDABOがZEEBRAを客演に招いた同名曲がある。それに準ずるパンチラインとして「All I have in this world is my balls and my word」と「Don’t get high on your own supply」の二つが挙げられよう。前者は、モンタナのモットーと言えるもので、度胸と信頼以外の何物も持たずに成り上がる彼にピッタリのものである。またもゲトー・ボーイズが「Balls and My word」という曲を出していたり、日本語ラップではMC漢「93R feat. Mega-G」の「デンジャー危険だ黄色い信号/オレの信条はガッツと信用」というのもこのセリフの引用である(この「All I have~」のセリフは字幕訳では「俺の武器はガッツと信用」となっている。なお「デンジャー危険だ黄色い信号」というのは言うまでもなくBuddha Brand「Funky Methodist」のNIPPSパンチラインで、例えばSD JUNKSTA「Party」でもNORIKIYOが引用している)。次のものは、The Notorious B.I.G.のクラシック「Ten Crack Commandments」の元ネタとなったことで有名だろう、「自分のブツに手を出すな」という掟である。ちなみに、ビギーのリリックでは掟の「ナンバー4」だが、映画では「レッスンナンバー2」であり、これを考えたのはフランクだが、それをモンタナに教えるのがエルヴィラであるということは物語上、重要な細部だろう。というのも、――こうした指摘がすでにあるのか知らないが――『スカーフェイス』の物語は悲劇であるということと関係するからである。モンタナは自らの性格によって身を滅ぼしたのだと考えることもできるが、少なくともヒップホップ的にはむしろ運命によってそうなったと解釈すべきである。というのも、ギャングスタ、あるいはハスリングラップでは「カルマ」という言葉が頻出するからである。だからモンタナの破滅は、「自分のブツに手を出」して冷静な判断ができなくなったからというリアリズム的な理由からではなく、「自分のブツに手を出すな」という「掟」に背いたという悲劇における説話論的な理由によってもたらされていると理解しなければならない。だからこそその掟を口にするのはヒロインのエルヴィラでなければならなかったのである。『スカーフェイス』の悲劇的な演出について付言しておけば、モンタナの死のシーンにおいて、妹との近親相姦の幻影が見えること(オイディプスを思い出すまでもなく近親相姦は悲劇的なテーマである)はその傍証となろうし、撃たれて噴水に落下するラストシーンでは宗教的な隠喩(聖水)がカタルシスをより強固に演出することになるだろう。

 ちなみに同じデ・パルマ監督、アル・パチーノ主演『カリートの道』も(とりわけ日本の)ラッパー人気の高い作品で、こちらはストリートから抜け出そうとして失敗するという物語である。最も有名なのはラストシーンで看板に映る「Escape to the paradise」という言葉で(『スカーフェイス』における「The World Is Yours」と似た趣向である)、ESSENTIALやゆるふわギャングに同名の曲があったり、BAY4Kが「Escape to the paradiseストレスたまらない生活ものにしたいfor life」(「Dogg Life」)と歌っていたりする。BAY4Kに触れたが、SCARSはこの作品への言及も多く、「Love Life」はこの映画のワンシーンから始まるし、SEEDA「Homeboy Dopeboy」には「カリートの道ショーン・ペン」というアリュージョンもある。また、CHICO CARLITOのファーストアルバムは『Carlito’s Way』というタイトルなので、MCネームもこの映画から取られたのかもしれない。

 

 次に取り上げたのは、北野武『BROTHER』である。アメリカのギャング映画である『スカーフェイス』はアメリカのラッパーたちに愛されたが、日本のラッパーが独自に参照するカルチャーも当然ある。BUDDHA BRANDのクラシックに『御用牙』が出てきたり、Tha Blue Herb「SHOCK-SHINEの乱」の冒頭には『座頭市』、田我流「Straight Outta 138」の冒頭には『仁義なき戦い 広島死闘篇』のセリフがサンプリングされていたりする。また般若はそうしたネームドロップがきわめて多いラッパーと言え、小川英二(長渕剛主演のドラマ『とんぼ』の主人公)や菅原文太松田優作といったスターに触れており、彼らは日本のラッパーにとって、アメリカのラッパーにとってのアル・パチーノロバート・デニーロのような位置づけであると言えるだろう。

 そうした例は多々あれど、『スカーフェイス』とヒップホップの関係がある種そうだったように、日本語ラップとの同時代性を体現していた映画として『BROTHER』を選んだ。周知の通り、この映画から生まれたクラシックがZEEBRA「Neva Enuff feat. AKTION」であり、AKTION=真木蔵人は『BROTHER』に出演しており、MVには映画の映像も差し込まれている。

 この映画がZEEBRAに大きな刺激を与えることになったであろう要因は簡単に推測できる。この映画が発表された2000年代前半のZEEBRAは、ヒップホップのローカライズの方向性を定め、強力に推し進めようとしていた。その特徴は主に二つであると言えよう。磯部が指摘しているように、ひとつは「Grateful Days」や「Mr. Dynamite」に顕著なように、「ギャングスタ」「サグ」などの翻訳としての「ヤンキー」であり、もうひとつはアフロ・セントリズムの翻訳(あるいは致命的な誤訳)としての反米保守的な政治スタンスである。こうした試みにもかかわらず、当時の日本語ラップはいまだ逆風のなかにあったと言っていい。そのとき『BROTHER』は、日本語ラップ(あるいは少なくともZEEBRA)と同じ方向を目指していると解釈できたが、しかし北野武の方はすでに世界的な評価を得ていたのであり、そのことがおそらくZEEBRAにとって大きな励みになったのではないか。

 『BROTHER』は、日本のオールドスクールなヤクザである山本(北野武)がアメリカに渡り、子分にした黒人のデニーと奇妙な友情を結びながら、成り上がってゆく物語である。「エイジアティック・ブラックマン」などといった言葉に感激していたZEEBRAである、この映画を通して裏側からアフロ=アジア的想像力を透かし見ていたのではないだろうか。実際、「ファッキン・ジャップぐらい分かるよバカヤロウ」のパンチラインのように、この映画では日本人への人種差別的な発言に対して暴力で報いるというシーンが複数描かれている。むろんそれが「Neva Enuff」において「人種差別にカンカンだ/これは現実取り戻す反乱だ」「日本人舐めたのが間違い/マジダリい雑魚らどもは弾きゃいい/確かに負けたぜ戦争じゃ/だけどディスらせねえ今の現状は」というようなナショナリズム的なディスクールに回収され尽くしてしまってもいるのでもあったという留保は付けておかねばなるまいが(これは特に紙面に反映すべきだができなかった点である)。ただし『BROTHER』と日本語ラップの間に異なる点があるとすれば、山本が「ファッキン・ジャップくらい」しか英語を解しない(物語が進むにつれて徐々に喋れるようになっていくが)のと反対に、日本のラッパーたちは「英語」を徹底的に理解することから始めたということだろう――「俺らお前の英語分かんだぜHaha」。そのうえで、山本のようにデニーと友情を結びながらアメリカで「シマ」「ナワバリ」を奪っていくこと。これが当時すでに日本語ラップに組み込まれたプログラムであったはずで、現在の日本語ラップもその延長線上にあることは言うまでもない。そのような点からして、『BROTHER』はきわめて日本語ラップ的な映画だと言えようし、またアジアのヒップホップが躍進しはじめた現代の状況と照らして振り返ることも有意義だろう。

 

 最後の作品『キューティ・ブロンド』はピンポイントな理由で選んだのだが、ギャング/ヤクザ映画だけではないということを示そうという配慮でもあり、しかしまたこの映画とこれに言及している曲の結びつきを発見していたく感動してしまったという率直な理由からでもある。ELLE TERESA「YMIL」がその曲なのだが、おそらく一聴ではその言及を見落としてしまうだろう。というのも、その言及というのはフックの「I'm rich motherfuckin’ Legally Blonde」の一節で、邦題ではなく原題Legally Blondeの方で言っているからである。そこで思いがけず、実はこの映画がELLE TERESAにとってきわめて重要なものであるのではないかと気づいた。というのも、主人公の名前からしてエル・ウッズなのだ。つまり、ELLE TERESAが実践している「ヒップホップ・フェミニズム」(ジョアン・モーガン)のロールモデルとしての『キューティ・ブロンド』。その映画作品としての評価はさておき、私にとってはそのことだけで重要な作品なのだ。

 『キューティ・ブロンド』は、ハーバードの法学部に入り弁護士を目指しているボンボンの彼氏に知的でないからと振られたエル・ウッズが、彼を見返すために同じ進路を選ぶところから始まる。遊びにしか興味のなかったエルが一念発起し、ハーバードに受かったまではよかったが、その派手なファッションと言動で周囲から白い目で見られ、イジメやイビリを受ける。そこで再び弁護士になるための勉強に身を入れると成績は上がっていき、インターン生に選ばれるものの、エルをインターンに選んだ教授がハラスメント的に言い寄り、そのショックで彼女は一度夢を諦めようとする。周囲の助けを借り、ショックを乗り越え、教授を出し抜き、担当していた裁判でも勝利し、主席に選ばれて卒業、ヨリを戻そうとする元カレを軽やかに振ってハッピー・エンド、という物語である。

 ELLE TERESAは、自律的な女性であれというエンパワメントを歌うのではなく(あっこゴリラはこの方向を推し進めている)、そうあろうとする際のリアルを描いている。そのときのキーワードがアルバムタイトル(『Kawaii Bubbly Lovely』)にもある「kawaii」である。かつてイアン・コンドリーは、女性ラッパーに可愛くあることを強要する力学を「キューティスモ」と呼んだが、エルテレの「kawaii」がそうしたものと無縁の場所にあることは疑いない。たとえばインタビューで「エル的カワイイとは?」という質問に「服とかメイクとかで可愛いを作る、みたいな」と答えているように、彼女はkawaii構築主義的に捉えているからだ(https://www.youtube.com/watch?v=oy0qcQAJQPU)。このとき、『キューティ・ブロンド』のファッションや世界観もまた「エル的カワイイ」ものとして捉えることができるだろう。

 エルテレ作品において、こうした「kawaii」に男たちがハラスメント的に接近してくることになるのだが、それに対して、「キモい男」というきわめてエルテレ的な語彙が向けられることになる。「Check dick, main chick/俺のになってくれよmain chick/ありえないわ帰れセキュリティ/キモい男とかお断り」(「Kawaii Bubbly Lovely」)。こうした光景は『Kawaii』で繰り返し描かれるが、最も優れているのはそれが「My Shoes」の中に置かれたときだろう。「踏まないでよmy shoes」というリフレインは、まさしくヒップホップ・フェミニズム的である。というのも、それはハラスメントへの抵抗であると同時に、ヒップホップマナーの女性側からの捉え返しでもあるからだ。Run-DMC「My Adidas」や「毎日磨くスニーカーとスキル」(Twigy)を引くまでもなく、靴に対する愛着はきわめてオールドスクールなヒップホップマナー的仕草でもあるからで、たとえばDABOも「おい少年気をつけな/俺のNike踏んだら即極刑」(Nitro Microphone Underground「Mischief」)とよく似たことを歌っていたことも思い出される。しかしそのうえで、真にエル・ウッズ/テレサ的なのはこうした敵対的な構図――「強い女の子」/「キモい男」――を一歩乗り越えるポジティブさを有していることだろう。それが以下の一節である。

 

汚したら殺したいもん Drunkな男はGo home

私は強い女の子 キモい男とかGo home

これはマジなシリアストーク クラブにお洒落は必要

近づきすぎちょっとHold on でも君のスニーカーもGood

 

 

 クラブでのハラスメントというある種タイムリーなテーマが歌われていることからも重要な箇所だが(先日、クラブ内にアンチハラスメントのステートメント掲示を求める署名運動が始まった)、むしろ重要なのは、ハラスメントを振り切る際に「でも君のスニーカーもGood」という言葉を残す絶妙の呼吸だろう。

 自律的であろうとすると孤独になってしまうというジレンマを歌った「YMIL」のフックにある次の一節もそうした複雑さを捉えたものである。「Big D will get me horny / But you ain’t give me the gold that I need / Imma be no slut that you thinking」。「Kawaii」トラックに平易な英語でのラップが乗せられる一曲のなかで唐突に、「デカいアソコBig D」が「ムラムラさせるget me horny」と率直な性的欲望が歌われハッとさせられるが(なお、この曲の日本語ヴァージョンも発表されており、そこでは同箇所は「デカいアソコもイイけど」と歌われている)、しかし彼女は「slut」になるつもりはない。そうではなくて「my own Queen E」でありたいのだ。そのときにこそ『キューティ・ブロンド』が言及される。「Imma make a banker working like a hustler / I’m rich motherfuckin’ Legally Blonde」。エル・ウッズのように、可愛く強くリッチであること。そして曲の最後の一節では、自律的に生きることと孤独というジレンマが素朴な韻で対置され、その葛藤ごと「I’m a bitch」の一語のもとで引き受ける決意が歌われている。「Heavy routin I’m one and only / So I’m a bitch you know Y I’m lonely」。

 

 というのでこの文章は終わっていいのだが、『POPEYE』の取材後に発表された一曲とある映画の結びつきに気づき、それがなかなか面白かったので少し追加で書いておこう。RYKEY × BADSAIKUSH 「GROW UP MIND feat.MC 漢」である。新旧交えた日本を代表するストーナー/ハスリングラッパーによる傑作だったこの曲と映画の繋がりというのは、冒頭の声ネタである。「Black racket money stays in Harlem. No more mafia, police, mayors, senators, judges or presidents. It’s our money up here, let’s keep it」。訳してみれば、「黒い不法な金がハーレムに眠ってる。マフィアも、警察も、市長も、議員も、裁判官も、大統領ももう用無しだ。俺らの金がすぐそこにあるんだ、獲っちまおうぜ」とでもなろうか。曲にピッタリの気の利いたサンプリングだが、これの元ネタはラルフ・バクシストリートファイト』(邦題で記しておく、というのも原題が差別語だからで、実際公開当時から議論を呼んだ)という作品である(ちなみに、日本語ラップ最高のMV監督の一人Ghetto Hollywoodもこの作品からの影響を語っているhttps://news.joysound.com/article.php?id=2019-02-25-1551095700-00321118)。この映画は映画で様々に論じ甲斐のある作品だろうがそれは措いて、このサンプリングにはもう一つ細かい芸が仕込まれていることに気づいた。『ストリートファイト』は実写とアニメが混じった興味深い構成で、アニメ部分は(下画像、左から順に)Brother Rabbit、Brother Bear、Preacher Foxの三人組の物語である。もう明らかだろう。特にBrother Bear=漢が分かりやすいが、この曲の三人組にはおそらく『ストリートファイト』の三人組のイメージが重ねられているのである。まあだから何だと言われたらそれまでだが、ちょうど次の文章の題辞にこの曲のパンチラインを引用してもいるので、ちょうどいいクッションにはなるだろう。

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・Too Green To be Clean~DOTAMAの一件について~

 

ポリスとかメディアには今でもFuck/社会不適合者ハスラーにピース(RYKEY × BADSAIKUSH「GROW UP MIND feat.MC 漢」)

 

 今年4月にDOTAMAが警視庁の「違法大麻」の「撲滅」キャンペーン『I'm CLEAN なくす やめる とおざける』に参加したことが、大きな議論を呼び起こした。言うまでもなく恥知らずな振る舞いであり、徹底的に糾弾されるべきだと思うし、実際そうされていた。それで満足しておいてもいいかとは思ったが、いささか不満が残っていないでもないため、この件について書いておくことにした。
 一応先に言っておくと、私は大麻を合法化すべきだと考えるし、もっと言えばすべての薬物の使用を非犯罪化をすべきだと思う。ハードドラッグについては措くとして、大麻合法化に賛成の理由は、端的に違法である理由がないからである。大麻に限ればこれで十分で、不当に自由を制限しているのだから、むしろお前らこそ違法にしている理由を我々市民に説明すべきだと言いたい(むろん厚労省や警視庁が嘘八百を吹聴しまわってはいるが、あんなものが理由になどなりはしないことなど誰でも知っている)。このように考えてはいるが、私は別に大麻の専門家でも、法律の専門家でもないし、合法化のための活動家でもない。ただの日本語ラップリスナーである。だから私のここでの主張は、日本語ラップリスナーの立場から行われるものである。
 DOTAMA擁護の言説のどれ一つにも説得されなかった一方、批判の言説のほぼすべてに同意した私は、多くのラッパーが真っ当な声を上げていたのであらためて日本語ラップシーンの先進性に嘆息した……というのは半分冗談だとして、そのときに思ったのが、これらの日本語ラップシーンの声をより明確に方向づけるべきではないかということだった。DOTAMA個人への軽蔑という風に矮小化することなく(むろん軽蔑してもいいし、少なくとも私はそうし続けるだろうが)、あるいは「ファックバビロン」的な粗雑さのまま放っておくことなく(むろんそう言ってもいいし言うべきだが、ここではむしろその「ファックバビロン」の射程をできる限り正確に捉えること)、である。
 合法化の議論の際にしばしばアルコールや煙草との比較が示される。大麻取締法禁酒法を重ねるのもよく目にする。同じドラッグなのだから当然だろうが、日本語ラップの立場からすれば、大麻取締法の横に置くべきなのはむしろ風営法なのではないだろうか(不思議なことに、こういう語り口を私は見かけなかった)。そうすることで問題が見えやすくなるように思われる。実際、かつてD.Oは鮮やかなパフォーマンスでそのことを示して見せたのだった(念のため補足しておけば、最後の二行でPresident BPMYOU THE ROCK☆のクラシック「Hoo!Ei!Ho!」の一節を大麻取締法に置き換えて歌っている)。

 

憐れにすら思える石頭すっこんでなクソバビロンが

散々ヤキ入れられて育てられてきたから怒鳴られるだけじゃ俺はめくれません

犬のお巡りさん困ってしまってワンワンワワーン

あの取締法は単なる嫌がらせに決まってるんだから

本気で怒っちゃ損する所持だけしなけりゃたかが草ただの草

 
 しかしながら今のところ二つの法律の間には大きな相違点もある。周知の通り、2016年には改正された風営法が施行されたからだ。その改正に大きな役割を果たしたのはクラブとクラブカルチャーを守る会(CCCC)であり、その会長はほかならぬZEEBRAであった。その背景には、ラッパーたちがクラブでの光景や風営法批判を歌ってきた歴史があったはずである。とりわけさんピン世代においてクラブは「現場」(宇多丸)とも呼び表わされ重要な意味を持っていた(この点に注目してフィールド・ワークを行ったのがイアン・コンドリー『日本のヒップホップ』であった)のであり、「スカスカのクラブにて組むスクラム」「夜中のクラブの暗がりから発生」などクラブについてのパンチラインも枚挙に暇がない。むろんそれ以降も同様である。「風営法?うっせーよ/夜遊びが何の罪になる」(般若「国際Ver.」, 2005)、「たとえば何で放置してんだあの風営法改正/俺たちの自由な夜の権利を返せ/なんて声さえ出ないなんて情けねえ/パーティーピーポー怠けてないで叫べ」(Mr.Beats「大人の責任 feat. CRAZY KEN, 宇多丸, K ダブシャイン」, 2008)、そして風営法改正を求める運動の中で生まれたものとしておそらく最も有名な「HooでもEiでもHoでもいいからNoと思うなら叫んでくれ」(SHINGO☆西成「大阪UP」, 2012)。
 こうしたことは、大麻取締法についての場合も全く同様のことが言えるだろう*1。おそらくマリファナについてこれほど頻繁に取り扱う音楽はレゲエかヒップホップくらいしかないだろうし、その点において風営法改正のときと同じく日本語ラップは社会的に重要な役割を果たしうるし、すでに果たしているとも言える(もちろん、実際の風営法改正運動にラップのリリックがどれほど実際的な効果を持ったかは分からないし、むしろ地道な活動の積み重ねの成果であったことは覚えておかねばならないが)。だがそれよりも注意しておきたいのは、風営法改正反対の根拠の一つとしてよく言われていたのが、クラブが麻薬の温床だという偏見であったことである。これが私が風営法大麻取締法を並べて考えるべきだと言う直接的な理由である。
 DOTAMAへの批判は、第一に反ヒップホップ的振る舞いであること(スニッチ、セルアウト等々)、次に国家権力に加担したこと(バビロン、カウンターカルチャー等々)というように要約されている。しかしながらそこに欠けているのは、市民社会もまたラッパーたち及び彼ら彼女らがレペゼンしているところの人びとを排除しているという視点である。確かにDOTAMAがそのケツを舐めたところの警察は国家権力ではあり、ラッパーたちはつねに警察を批判してきた。アメリカにおいて、ヒップホップとポリス・ブルータリティが密接である歴史は今さら復習するまでもないだろうし、日本のラッパーたちも不当な「お触り職質」「麻薬チェックワン・ツー」(MC漢)を批判してきたこともこのうえあらためて強調しておくまでもない。しかし、今さらマルクスを引くまでもなく、警察は市民社会の安全を守るための権力であり、だからその中における異物を排除し抑圧しようとするものである。「ファックバビロン」に含まれるこうした共犯的な排除への批判を見逃し、単なる反体制的なスタンスの誇示に矮小化することこそが警戒されなければならない。同様のことはクラブについても言える。風営法改正への壁として、騒音やゴミの問題が持ち出されたではないか、警察はその要請にしたがってクラブを検挙したのでもあるのだ。

 風営法問題に関して千葉雅也は「「享楽」を守るために、法のクリエイティブな誤読を」(磯部涼編著『踊ってはいけない国、日本』)で次のように指摘していた。3・11以後の社会において国民が「安心できる生活」を強く求めて反原発デモが盛り上がった一方、それは「「不道徳性」への反発」、「標準的でないマイナーな生への不寛容」にも容易につながりうるものであり、「公権力による文化の「浄化」」はそうした気分を背景に行われているのではないか、と。こうした力学が今回のキャンペーンにもはたらいていることは自明である。すなわち、「I’’m CLEAN」なるグロテスクな標語である。権力は「Are you clean?」と問うことで分断を持ち込み、監視、管理を強化しようとする。「Clean」を自認する(善良な?)市民たちはそれを受け入れることによって、「I’m Clean」であることを証明しようとし、さらにその自意識を慰めるだろう――しかし言うまでもなくそれは最終的には国家を利することにのみ終始することに、彼らは気づくことはない。

 

(補助線と余談。ジャック・デリダは『ならず者たち』において、「ならず者」と民主主義の深く密接な関係を指摘し、そのとき民主主義がその自己免疫性によってそれ自体崩壊しかねないというアポリアを論じていた。ストリートのラッパーたちがときに「ならず者」――なお、それは自称されるものではなく「保守的なブルジョワから、道徳的ないし法的な秩序の代表者」からの他称であり「つねに二人称か三人称である」――であることは、次の記述を照らしても明らかである。「ならず者と狡猾漢は街路に混乱を持ち込む。この者たちは指し示され、非難され、裁かれ、断罪され、指さされる。現動的ないし潜勢的な非行者として、予知されている被告として。そして、この者たちは執拗に追い回される、文明化した市民から、国家あるいは市民社会から、善良な社会から、その警察から、ときには国際法から、そして、その武装せる警察から」。ラッパーたちの社会的、政治的地位を見極めるためには、こうした視点が不可欠の前提となろう。「ならず者」を単なる排除の対象とすることが許されないのは当然として、安易な神秘化を避けながら、その条件や限界を問うこと(デリダバタイユの「至高性」、ベンヤミンの「大犯罪者たち」との近さを指摘している)。だから重要なのは、むしろラッパーと「ならず者」の差異――「俺は輩とは違うラッパーだクソ野郎」――、あるいはラッパーが引き出す「ならず者」の可能性の中心であろう。ラッパーたちがストリートのしがらみを抜けて音楽で生きてゆくなどと言うときに見出されるような場は、「ならず者支配」の論理で動くところの「裏社会」でもなければ、むろん市民社会でもないだろうからだ。そこで、次のようなスケッチを残しておこう。「レペゼン」のとはなにか。それは、政治的リプレゼンテーションにとって代補的な地位を占めるものではないか。ナズはこう歌っていた。「俺を代表してくれる大統領を探してる(何を抜かしてるんだ?)I'm out for presidents to represent me(Say what?)」(「The World Is Yours」)*2。ケンドリック・ラマーもまた選挙は二次的なものに過ぎないと言っていた。そのとき、2パックが彼に次のようなことを教えたことを思い出そう。「それはスピリットだからさ、俺たちは本当はラップしているのでさえない。俺たちはただデッド・ホーミーにストーリーを語ってもらってるだけなんだBecause it's spirits, we ain’t even really rappin’ / We just letting our dead homies tell stories for us」(「Mortal Man」)。したがって、「レペゼン」とは政治的リプレゼンテーションの外部に追いやられたものを、「スピリット」あるいはまさしく幽霊として回帰させる方法なのだ。そしてそのことによってたとえば彼らは「哀悼可能性」(バトラー)を奪い返そうとする――「To my man Ill Will / God bless your life」。つまりは「Represent, Represent」、そして「I reminisce, I reminisce」……。以上のことから「レペゼン」と記されるものは、西洋近代的リプレゼンテーションを「シグニファイング」(後述)したものであると言えよう。そこからヒップホップと民主主義という問いが引き出されうるのではないか。)


 国家と市民社会からの排除に対するラッパーたちの抵抗の基本的な図式はどのようなものであろうか。マリファナに関する無数のスラングが存在していることから明らかなように、それは「シグニファイング」(ヘンリー・ ルイス・ゲイツ・ジュニア)と密接に関係している。ラップにも引き継がれているところのその技法は、ある種ラングのハッキングと呼べるようなものだが、ヒップホップ(少なくともギャングスタラップ、ハスリングラップ)との関係においてそれはむしろ、言語の密売と呼び表してもいいかもしれない。言語と商品の問題がアナロジーとして考えられる(柄谷行人)とすれば、シグニファイングも違法薬物と同様に正規の交換体系の中に裏道を作り出すからだ。隠語とはまさしく「栄養ドリンクのビン中身非売品」(MC漢&DJ琥珀「光と影の街」)のようなものにほかならないのだ。実際ラッパーたちはしばしば、自らの作品をドラッグの比喩で語る。パケの代わりにCDを捌き、純粋なヒップホップ作品はさながら高純度のドラッグのようにぶっ飛ぶ等々。そして、たとえば「Smoke the shit, I love THC/笑う人間に届けひっそり」(Nitro Microphone UndergroundNitro Microphone Underground」)というように、マリファナスラングも「ひっそり」と配達(デリバー)されるのである。このようにして言語によって境界線が引かれること――スラングを理解し「笑う」者/それを理解できない間抜けな者等々――、それこそシグニファイングの持つ政治性の一つであった。NORIKIYOはそれを見事に要約して、次のように歌っている。「意味なんてねえのさこっちの話/意味なんてねえのさこっちの話」(「In Da Hood」)。部外者にとってそれらの言葉は、あるいは彼らの享楽は、何の意味も持たないのだから口を出すな。ヒップホップがカウンターカルチャーであるとすれば、その最も基本的な形はこのような領土の画定なのだと言えよう。さらにNIPPSはこうしたシグニファイングの機制をまさしくマリファナのイメージと重ねて歌ってもいる。「読解不可能スラングで喋る/うるせえ奴らを煙に巻け」(漢 a.k.a. GAMI, RYKEY, DOGMA, MEGA-G, NIPPS「COVER UP」)。

 したがって、マリファナについての議論は、こうしたヒップホップの基礎的な政治性についての認識を前提にしたうえで、かつきわめて重要な問いをはらみうるものとして、なされなければならないはずである。そうでなければ結局は「バビロン」と共犯的になるほかない市民主義へとヒップホップを包摂しようとすることにしかなるまい*3。それに抗してラッパーたちが行なったことは、次のように要約しうるだろう。すなわち、強要される「クリーン」を拒否して「グリーン」を選ぶこと――あるいは「I’m CLEAN」を「I’m GREEN」へと読み/書き換えること(シグニファイング)。これこそが今回の騒動の焦点を形作っていたところのものではないだろうか。

*1:日本語ラップにおいてマリファナへの言及が増えるのは、MICROPHONE PAGER『Don’t Turn Off Your Light』をきっかけにしてのことで、それ以後マリファナへの言及は止むことがない。本来日本のストーナーラップの歴史を振り返る必要があるかもしれないが、ここではさしあたり、重要と思われる楽曲あるいはアルバムを列挙するにとどめておく。MICROPHONE PAGER「夜行列車」、YOU THE ROCK☆「フクロウ(夜間飛行)」、BUDDHA BRANDブッダの休日」、Audio Active「スクリュードライマー feat. BOSS THE MC」、NITRO MICROPHONE UNDERGROUND「Bambu」、餓鬼レンジャー「火ノ粉ヲ散ラス昇竜」、韻踏合組合「GREEN車」、妄走族大麻合掌」「ブリブリテーマソング」、OZROSAURUS「AREA AREA マリファナリミックス」(非音源化)、THINK TANK『BLACK SMOKER』、MS CRU『帝都崩壊』ほか、SEEDA「Sai Bai Man feat. OKI」「Purple Sky」、SCARS「We accept」、Swanky Swipe「Green Feat. BB the KO」、BES「JOINT feat. メシアTheフライ」、BRON-K「ROMANTIK CITY」、TAK THE CODONA「ポパイ feat. Killer Bong」、S.L.A.C.K.「Dream In Marijuana」、JUSWANNA「Ten Budz Commendments」、KOHH「Drugs」、Goku Green『HIGH SCHOOL』ほか、Fla$hBackS「g3-Gin Green Global」、MEGA-G「HIGH BRAND feat.DOGMA」、The タイマンチーズ「Ganjah Ganjah」、BAD HOP「Chain Gang」、ゆるふわギャング&Ryan Hemsworth『CIRCUS CIRCUS』ほか、舐達麻『NorthernBlue 1.0.4.』、RYKEY × BADSAIKUSH「GROW UP MIND feat.MC漢」、OZworld「Peter Son feat. Maria & yvyv」、ジャパニーズマゲニーズ「REAL STONER feat.PERSIA & VIGORMAN」

*2:なお田崎英明は「Nas タイム・イズ・イルマティック : ストリートのサヴァイヴァル=死後の生について」(『現代思想』2018年3月号)において、ヒップホップにおける「レペゼン」の多義性に驚きながら、その死者との密接な関係を指摘していた。

*3:なお、ポリコレとヒップホップの関係もまたこうした点から考えられなければならないだろう。その摩擦が最も際立つのがおそらく性差別に関する問題においてである。言うまでもなく、マリファナやクラブの場合と違って明確にマイノリティの抑圧に加担しているためであり、それが迫る「民主化」(!)を否定することは難しいためである。しかしむしろそのためにこそ、ヒップホップは独自の、内在的で自発的な方法でそれを改善することが求められていると言えよう。さらに一点付しておけばしかし、ラッパーたちによるマリファナの表象について批判を加えることは可能であろう。つまり、マリファナを歌うのが男性ばかりである、と。実際マリファナを女性の比喩(メリー・ジェーン等)で歌うことは一般化している。しかしながらこれは、そこに含まれる性差別的な視線を批判すべきだとしても恋愛やセックスについて歌うことをやめるべきではないように、マリファナについて歌うこと自体をやめるべきだということにはなるまい。したがって、女性ラッパーが性を歌うことで多様化が進んでいるように、女性ラッパーもマリファナを歌うことが望まれる、ということになろうか。R&Bなので多少ズレるが、辰巳JUNK「マリファナ・セックス・暴力ーー3つのタブーのアイコンとして常に批判され続けてきたリアーナは何故21世紀を代表するポップスターになったのか?」(https://www.fuze.dj/2018/07/rihanna-icon.html)の記事ではRihannaがそれを行ったことが解説されている。その点、非常にしばしばマリファナに言及しているゆるふわギャングのNENEはきわめて重要なストーナーだと位置付けることができるだろう。