韻踏み夫による日本語ラップブログ

日本語ラップについて Twitter @rhyminaiueo

絶対的にHIPHOPであるために

 ここ最近、TWITTER上で限りなく暴言に近い批判を繰り返してきた。反省している。文字数の制限があり、伝えるべきことを十分に書くことができないと感じたので、ここに書く。

 

 11月16日放送の『フリースタイルダンジョン』、じょう VS T-PABLOW戦について、じょうがバトルに勝利したことに不満を漏らしているツイートをいくつか見た。しかし、個々人の好き嫌いは別として、勝敗についてプレイヤーには責任は一切ないことをまず押さえておかねばならない。言うまでもなく、ラッパーは何を言ってもよいし、どんなラップをしてもよい。客に媚びてもよいし、バトルはエンターテイメントだと割り切って嘘八百を並べたり、事実と異なるディスをしても、何をしてもよい。重要なのは、観客及び審査員の評価基準である。バトルにおいてプレイヤーは丸腰であり、その身とマイク一つしか持ち合わせないからだ。力を持っているのは観客(バトルの判定はそれぞれのバトルで異なるので、便宜上審査員も「観客」に含めることにする)である。

 MCバトルとは、裁判であり、政治である。純粋なエンターテイメントだとは言えない。バトルに勝つことはラッパーの権威=プロップスになるからだ。多数決の原理に基づいて、どちらに権威を与えるかを決める場である。バトルはバトルである、と楽天的なことは言えない。それは日本語ラップシーンの外にいる者の発言であり、もしそうであると認めるならば、誤解のないよう明確に宣言してもらいたい。シーンの法を無視しつつバトルで得たプロップスを利用し、その上でバトルはエンターテイメントであり権威やシーン内の政治とは無関係だと言う都合の良い二枚舌は許されない。このことを批判すべきであり、そうすることができる者は観客以外にはいない。バトルは価値観を戦わせるものであり、その優劣を決めるのは観客である。観客はそのことと無関係ではいられない。もちろん、その場にいなかった者が観客の決めた判定を覆そうとすることは許されない。しかし、観客に権限があるということは、観客の判断基準、趣味が変わるならばシーンにおいて力を持つラッパーを変えることができるということだ。観客はバトルを通して(バトルに限らないが)シーンを変えることができる。「全て支えてきたヘッズたち」!

 勝敗に文句をつけることは許されない。しかし、それを決めた観客の趣味を批判することは可能だ。バトルでは何を言ってもよいとするラッパーを選ぶこと、倫理的な制約を無視し悪口の限りを尽くしその場の面白さを優先するラッパーを選ぶことについては十分に批判されるべきである。バトルは新しい価値観を生む場である。即興であること、というのはこの新しさのことを指しており、例えば「ネタ」の是非などといった話とは一切関係がない。価値観とは、リアルの別称である。何を言っても許される場であるからこそ、リアルな言葉を求め続けるべきだ。またここで注意が必要だが、リアルとは現実に起きたことをラップすること、ステージの裏と表に関わらずラッパーが同じ振る舞い、言葉遣いをすることなどを指すのではない。リアルとは、言葉が権威を持つということだ。どのようにして、バトルで新しい価値観が作り出されるのか。いくつも方法はある。例えば、ビートにラップが上手く乗ったとき。言葉は、ビートと上手く絡み合うことで、無法の状態を抜け出し、リズムによって制約が与えられ、リアルになる。韻を踏むとき、踏まれる言葉と踏む言葉は相互に絡み合い、リアルになる。ラッパーのそれまでの経歴(インタビューでの発言、楽曲で歌ったこと、これまでの活動等)と今バトルで吐かれた言葉が結びつくとき、言葉はラッパーの経歴を準拠とし、リアルになる。アンサーを返すとき、相手の言葉が足場となり、言葉はリアルになる、等々。むろん、ただ上手くビートにアプローチすれば、韻を踏めば、アンサーを返せばよいというのではない。二つのもののがどのように関係しているのか、その関係の仕方に応じてリアルであるのかどうかを判断しなければならない。

 観客は投票権を持っている。彼は参加者であり、責任を持っている。だからこそ、観客が趣味を鍛えることが必要である。ラッパーの言葉がリアルになる瞬間を見逃してはならず、きちんと判断せねばならない。「本物偽物見極めるお前らの耳が見物」。観客は見られている。

 ここで一つ反論に答えておきたい。今の観客が、バトルで何を言ってもよいとするスタイルを「新しい」ものとして、それを選択したのだから、新たな価値観が生まれているのではないか、という意見に対してである。端的な間違いである。ここで言っている新しさとは、「古さ」に対して存在する相対的なものではない。絶対的な新しさであり、即興である。例えば、韻を踏むとき、客に媚びるように語尾を甲高く発音するラッパーがいるとする。彼は新しさを生まないという意味で絶対的に古いのだ。なぜなら彼は、客の足元を見て、それに合わせてラップをし、リアルを偽装し、客をだますことで勝ちを得ているのであり、客と演者の間で現状肯定のための密約が結ばれているに他ならないからだ。

 具体例を挙げて説明しよう。『フリースタイルダンジョン』におけるACE VS T-PABLOWは、とても分かりやすい。T-PABLOWは、ACEがラップスクールを開き、受講者から金を取っていることを「アコギだな」と批判する。観客に、自らの地元の川崎に来れば無料でラップができると呼びかける。客に媚びているだなどとバカげたことは言うまい。川崎で彼はそうしてラップを覚えたのであるし、ほとんどすべてのラッパーは金を払わずにラップを覚えたのである。「金かかんないでラジカセ一個囲んでラップ出来んのがHIPHOPじゃねえのかよ」というPABLOWに対して、後攻のACEは「魂そして声だけあれば成立するのがHIPHOPなんだよ」と返答する。ここで争われている価値観は、「HIPHOP」についてである。ラジカセさえ必要ないというACEは確かに本当のことを言っているだろう。ラジカセがなくてもラップは出来る。しかし、彼の言葉はリアルではない。彼がラップスクールで金を取っているのは事実であり、PABLOWの指摘を無視している。また、彼は即興で言葉を吐いてもいない。ACEがラジカセを不必要だというのは、単により少ない、より貧しい方が「HIPHOP」であり、「魂」という抽象的で何やら至極真っ当そうなものが「HIPHOP」である、と言いたいだけである。「HIPHOP」というものの価値観を新たにしようとはせず、抽象的な物語をそのまま肯定しているだけである。しかし、バトルでの言葉の一つ一つをあまり重く見すぎることは危険なことだ。第二試合では、T-PABLOWが「かっけえのが正義だろ 嘘じゃねえ前歯十本折られて学んだHIPHOPと礼儀作法」と言う。対してACEは「前歯十本折られた後に 心の牙をACEにポキっと折られて終わり」と返す。これはアンサーではない。物語という制度にまみれた言葉だ。累加という物語の欲望に従って、折るものをねつ造した言葉である。これらを見ればどちらの言葉がリアルになったのかが明瞭に分かるはずである。T-PABLOWは勝利した。

 言うまでもないが、価値観の創造という点で触れなければならないバトルはBBP2002の決勝、般若 VS KANであった。盟友が互いに相手を認めながら、バトルの外にあるより大きな敵と戦ったその伝説的な試合において、彼らは押韻主義を否定した。そしてこの新たな価値観はリアルになった。後にこの二人が発表した数々の作品の中で、実際に彼らは押韻というものを根底から変革した。これこそがMCバトルである。

 

 バトルは一つの審級である。技芸を競うだけではない。テクニックとスキルの違いを明らかにしておこう。テクニックとは、応用可能なものであり、リアルなものではない。スキルとは、即興のものであり、模倣不可能な固有のものであり、リアルなものだ。テクニックの中でしか生まれ得ないが、テクニックを無効にしてしまうようなものがスキルだ。「心に書き留めたフリースタイル 生かすも殺すもスキルが介す」。これは何もフリースタイルであるか、制作された楽曲であるかの違いとは無関係にそうなのだ。スキルが全てである、というのはスキルが媒介であり、スキルを見ることによってしかリアルであるのかどうかを判断することはできない。ここで言うスキルとは、小手先の韻やフロウといったものでも、生き様と無関係なものでもない。そんなに矮小ではない。押韻やサンプリングはほとんどの場合テクニックに過ぎない。むろん、そのような困難があるからこそ、多くの問題をはらんでいるのだが。声やフロウは、本来は模倣できないもので、そのラッパーに固有のものだ。しかし、これはなぜだろうか、優劣を判定するのが難しいもののようである。

 先日発売されたISSUGI&GRADIS NICEの「How Ya Living feat. BES」でISSUGIは「ラップの形だけパクられた」と歌っている。この摘発はありふれてはいる。しかし、ラップの模倣可能なものだけが「パクられ」て、リアルなもの(それはテクニックとスキルが衝突する瞬間だ)が失われてゆくとしたら、それは放ってはおけないものだ。例えば、短歌や俳句に「ラップの形だけ」を取り込むとしたら。

 『IN&ON』はそれを目指した雑誌であるらしい。誤解を避けねばならないが、「ラップの形だけ」を模倣することは責められるべきことではない。重要なのは、それが価値を生むのかどうか、である。実際、いくつかの俳句及び短歌は、それがいくらかではあれ、ラップと短歌を出会わせることの必然性を得てはいる。また、反対にラップを取り込むということだけに満足した程度の低いものもある。ここではそれについていちいち触れない。多少とも必然性があるならば褒められるだろうし、くだらないものならば批判されるだけだ。

 作り手の多くは、日本語ラップという文化がいかに濃密であるか、また作り手ら自身がその日本語ラップの文化にあまり詳しくはないことを認めている。それはよい。知識の多寡は一切問題ではない。しかし、最大の問題は、そのことを認めながらも、知識が足りないために批判されることを恐れ、それを姑息な手段で回避しようとする姿勢にある。ラッパーのゆうまの「ラッパーが短歌と俳句について語る――「ふつうの人」の視点から」という文章である。ゆうまが説くところはいたって平凡で、取るにたらないほど陳腐なものだ。いわく、俳句や短歌に関わる人たちは門外漢の筆者に俳句や短歌について語らせてくれた。この雑誌に関わっていない歌人の方も許してくれるだろう、悪いことをしているのではないのだから。翻ってみれば日本語ラップシーンの人間は、詳しくない人がラップのことを語ることを拒む。なぜそうするのだ、ラップのことを語ってもらえるのはありがたいことではないか。

 おおよそこのようなことを言っている。いちいち批判するのもバカげている。詳しくなければ語っていけないなどということはない。ただ、無知は間違った言辞を誘いやすく、間違ったものにはその都度批判を加えるだけだ。知識の多寡は問題ではない。しかし、より大きな問題は、ゆうまが一応はラップシーンの内部にいる人間だということだ。ラップに詳しくない人たち、すなわちここではラップについては別段詳しくもないが、ラップと定型詩についての雑誌を作った彼らは、ゆうまに当事者として、内部の人間として、語る許可を与えてもらっているのだ。

 なぜ、語る許可を得ようとしたのか。ここに問題のすり替えが潜んでいる。彼らは、彼らが犯すかもしれない間違いについての責任を放棄する。彼らは俳句や短歌について門外漢であるゆうまに語らせ、代わりに日本語ラップについて語る許可を得る。語ることの許可の問題は、書かれたもの自体への批判可能性の次元を隠蔽する。茶番である。

 当事者と門外漢という問題は日本語ラップについての言説に常について回る問題である。この対立は容易に和解せられるものではないし、またそうすることが正しいのかもわからない。であるというのに、賄賂を渡してこっそりと門を開けてもらうなどということは許されない。

 『サイゾー』2010年7月号にて行われた「日本語ラップという不良音楽 対談――磯部涼×佐々木中」で、佐々木は門外漢でもなければ内部の人間でもない「オン・ボーダー」であると自らを規定しながら、日本語ラップは独自の言語を持っているのだから、哲学や思想といった外部の言葉でそれを語るような「下品なこと」はしたくないと言っている。マイナーな者の声について他人が語るとき、そこには常に政治性が存在し、だからこそ語るに際しては慎重にならなければならない。当事者でない者ならばなおさらである。ゆうまの言う「ふつうの人」というのは、その政治性を回避したい者がねつ造した抽象的な虚構であるに過ぎない。反対に、磯部はインサイダーとしてどこまでも当事者に付き添うことで語る者なのだと言える。ここでは二種の立場が存在している。沈黙、絶句することと、接近の試みを続けることである。やってはならないことは、日本語ラップに今欠けてるもの、例えば商業的成功、高尚さといったものを与える代わりに、彼らから搾取をすることだ。

 ここで提出された問題は日本語ラップについて語る者に、当然私にも返ってくる。これまで私の書いた、そしてこれからも書くだろう文章は佐々木がいうところの「下品なこと」に当たっているのだ。それでよい。例えば、作者のことを一度括弧に入れて作品だけを語るのだから政治性とは無縁だ、などといった虚構をでっちあげる必要ない。そんな欺瞞をして何になるというのか。不誠実で、半端で、愚鈍でもあるのだから、私は間違いを犯しているのかもしれない。しかし、語る許可も、犯した間違いへの許しも必要ない。「発言権」は「俺から俺へ」与えるものだ。素晴らしい作品の素晴らしさを語る。批判されることを避けようとは思わないし、むしろ批判を必要としている。なぜ、当事者に許可をもらおうなどと考えるのか。「ラップの形だけパクられた」と批判されることをなぜ回避しようとするのか。もしかすると、形だけパクられることは、当人たちにしてみれば許せないことなのかもしれない。形式的なもの、サンプリングや押韻などといったものを七五調に重ね合わせる。そのことはよい。だが、形式的なものが思想や政治性と無関係であることにはならない(でなければ私は押韻について語らない)。

 先の磯部×佐々木対談においても、韻の歴史は長く人間の生理と深く結びついたものだと言われている。和歌でも韻が踏まれていること、日本における漢詩の受容などといったことが、HIPHOP用語を用いて説明されている。日本の韻の歴史と日本語ラップを結び付けて語ることが「言語ナショナリズム」に利用されることを両者は危惧し、その意図がないことを説明してはいる。ここで対談両氏と『IN&ON』の作り手は似通ってくるかに見える。押韻という形式的なものを取り出し、外側へ持ち運ぶという点で。むろん、両者とも日本語ラップが復活させた日本語での押韻について十分な敬意を払っているだろう。しかし、押韻をめぐる種々の立場は、いとうせいこうキングギドラ、78年式のラッパーたちと続く日本語ラップの歴史の中心にあったものだ。韻を踏むこと、あるいは踏まないことは一つのシーン内において政治的な立場の表明である。それは既述したKREVAスタイルと、それを打ち破った78年式の二人の立場の違いからも明らかである。対談において、「言語ナショナリズム」について警戒しているのは、韻が政治的であるということを自覚しているからであろう。その点、この同人誌の作り手たちは、日本語ラップに詳しくはない、MCバトルを見てはまっただけである、と言うことで、政治性を無視しているように思われる。形式だけを移植すれば、日本語ラップヘッズシーンの価値観とは関係がなくなり、批判の声を避けられるのだとでも言いたいのだろうか。

 サンプリングという技術も押韻と同様に政治的な技術である。当の『IN&ON』に収録されている矢野利裕「日本語ラップ情緒論」では、和歌を巡るいくつかの知見を利用し、日本語ラップの言葉の「協働性」について語っている。折口信夫の説く和歌の「斜聴作用」(今ある言葉に別の言葉が付いて回ること)は、例えばサンプリング、本歌取りの技術に顕著である。「彼ら(日本人ラッパー)のラップには、かつてブロンクス地区の一角でおこなわれたラップの記憶が、『情調』として抱えられているのだ」と論は締めくくられるが、これは形式には政治性が付いて回るという指摘に他ならない。和歌の中で日本語ラップの楽曲や、バトルでの発言を「サンプリング」するとき、彼らは彼らの立場を暴露している。いくら当事者を招き入れ、語る許可を得たとしても状況は何も変わらない。七五調には、例えばそれが歴史的にきわめて権力と近い場所にあったことや、日本固有の文学の伝統であるといった評価が付いて回り、日本語ラップにはこれまでの歴史が、さらには「ブロンクスの一角」の光景さえもが付いて回る。作り手にはその自覚があるのだろうか。

 ここで思い出されるのはマルコムXの分離主義である。彼は人種間の融合を拒否しようとした。後年、メッカ巡礼の体験を経て、融合が成功するならばそれは望ましいことだと認めたとしても。マルコムが摘発したのは、融合という名を掲げておいて、むしろ搾取の構造をより強化させる体制の欺瞞であった。であれば、新たな共同体を自らで作るべきだと主張した。名ばかりの融合など捨ててしまえ、と。これは日本語ラップブームの今、再考されなければならない問題である。なぜこれまで幾人ものラッパーたちがセルアウトをかたくなに拒んできたのか。自分たちの言葉が外部の人間に奪われること、これは搾取である。日本語ラップが閉鎖的である?そんなことを甘ったれた自分勝手な不平を垂れ流す権利が誰にあるというのか。一応繰り返すが、だからといってラップを外部の人間が利用することを禁止しろなどとは言っていない。そこには慎重になるべきだと言いたいだけだ。そこに知識の多寡は直接には関係ない。佐々木中は言っている。「これは『仁義』の問題なんですよね」。

  「この街では土地柄あって よそ者ハンデ 土足はなんねえ」。ハンデを背負うことを拒否してはならないし、ハンデなど存在しないし存在するならば一刻も早くそんなものを無くして平等に開かれた言説の場を作るべきだといった意見は概して欺瞞的である。「あげたくないけどやるよハンデ」。日本語ラップは多くの者にハンデを与え/奪われてきたのだ。そのことに無自覚でいることは許されない。日本語ラップが外界と触れるとき、多くは抑圧にあうか、搾取されるかであった。むろん、利用されることと引き換えに、利用し返すという方法もあるだろうし、それに成功した例もある(『リンカーン』に出演したD.Oはそれを上手くやってのけた。「分かってるぜその動きが作戦だってことくらいは」とは、D.O自身に向けられるべき言葉だ)。しかし、失敗する危険もある。

 今後シーンがどのような方向に向かうのかは分からないが、常に新たな価値観の闘争の場所であることを望む。