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韻踏み夫による日本語ラップブログ

日本語ラップについて Twitter @rhyminaiueo

「ソレならイイ」について 不実な愚行と押韻の「限界」

 「GOLDEN MIC(REMIX)」から一年も経たない2004年2月に発表された般若のソロデビューアルバム『おはよう日本』のジャケットを見ると、真っ黒な背景に一人の男が立っています。男の右にはアルバムタイトルが赤く縁取られた白の文字で筆書されていて、日の丸を転倒したいという青臭く壮大な野望が反映されているのかもしれません。左下には、真っ赤な文字で「般若」とあります。これが血の赤が連想させるのは、男が日本刀を振りかざすように持っているからでしょう。しかしよく見ると刀身が般若の首裏に向けて反り返っていることが分かります。自刃への覚悟です。左右に大書された文字の荒々しさとは裏腹にこの男の顔は影がちに映されていて何か静謐ささえも感じてしまいますが、それはおそらく死をも恐れぬ覚悟がそうさせるのでしょう。これらが示すのは秘められた覚悟が表出するときにも、アイロニカルな過激さをまとわずにはいられないという男の性質です。アルバムを聞いてみてもその印象はますます強まるばかりで、過激なラップの言葉の内容を辿ることは困難で、ある種の支離滅裂が支配していますし、主張やメッセージがないのかと言えばそれはラップの熱量を聞くに至ってはありそうもない話です。あまりに熱心な空転、というような印象さえ抱いてしまいそうになるほどです。では、その反対は?「ソレならイイ」という一曲はアルバムの中では過激さの小休止だとでも言いたげに、例外的に静かで切ないラブソングであるような風体をしています。ですが、振りかざした刀が自分に向いている倒錯した男において小休止はその実、急進=求心であるのかもしれません。

 

 ところで、芸術家とは聡明な者なのでしょうか、愚か者なのでしょうか。あるいは、技術とは理性的なものなのでしょうか。愚かさとより優れた技術への志向は、ART(芸術/技術)においては矛盾なく共存するし、技術とは本来改変と同時にそれまで自明だと思われていた遠近法を根底から揺るがす可能性があるクリティカルな一面を持つのだという渡部直己谷崎潤一郎 擬態の誘惑』の序章におけるすがすがしい啖呵を唐突に思い出したのは他でもありません、今まさに私たちがそのような愚行としてのART、あるいはARTとしての愚行に参加するよう、「誘惑」されているからです。

 

なー馬鹿になろうぜ

 

 この誘いを聞いて、狂乱、馬鹿騒ぎといったものを思い浮かべたなら肩透かしを食らってしまいます。例えばZeebraのファーストソロアルバム『The Rhyme Animal』に収録された「Parteechecka」に描かれたパーティーのような。確かに、そこでは「一晩中 HIPHOP BEATS」が鳴り響いていて、「人ゴミ」が揺れ踊り、中には「デルモ級」の美女もいたりして、みなが酒をあおったり、「赤い目」で「ブリブリ」だったり、集団的な愚行という言葉が似合いそうではあります。しかしこの曲自体、前に見た「真っ昼間」が「ハメ外す夜の部はこれからだ」と閉じられたのを受けた続編として歌われており、愚行、狂乱というにはあまりに構成意識といったものに捕らわれていますし、事実曲の中でも「金払ってんならば払っただけ 遊んでかなきゃお前の負け」と吝嗇な懐具合の勘案が見え隠れしていたり、「仕込み十分のDJブース」に構える腕利きのDJの「奴らがいれば安心」だとまで言います。経済的にも、それに見合うサービスの質の面でも、「安心」して遊べるという姿勢に明らかなように、Zeebraが描くのは日常/狂乱という二元論的な愚行であって、それはおそらく真に愚行であるとは言えないでしょう。おそらく今ここで始められる愚行とは、日常に支えられた非日常という形ではなく、秩序そのものを欠いた錯乱として行われるでしょう。

 

別に酔っちゃねー 

安全装置ってなモンは取ったぜ 裸の・・・ 今は何も要らねーよ

 

 その愚行は、素面のままで行われるべきものだと言います。あるいは、判別しかねますが、酒場で酒乱からよく聞かれる酔ってはいないという無意味な虚言であるようにも聞こえます。それはともかく、来るべき愚行への準備として彼はすでに「安全装置」を取り外しています。私たちもその姿を息を呑んで見つめます。これから何が始まるのでしょうか。しかし、予定された愚行をいざ始めようとしたこの瞬間に語り手は何故でしょうか、言い淀んでしまいます。すでに私たちは一つのことに勘付きはじめています。「馬鹿になろーぜ」と気前良く誘惑したこの男が始めようとしている愚行とは、おそらく狂乱、酩酊、忘我の体験といった内実を備えたものではないのではないかということに。あえてその愚行の内実を探るとすれば、それはおそらく語り手の語り自体、つまり今ここで歌われている言葉自体のことを指すのではないでしょうか。なぜなら、「酔っちゃねー」という真偽の不確かな発話、不意の言い淀みといった語りの錯乱をしか私たちが見て取ることはできないからです。この男の言葉の語っている内容は不確かで、その内実を推測しようにも両義的であったり、判別不能で、つまりこの男は「信頼できない話者(Unreliable Narrator)」であるようなのです。男の言葉は不実であり、この語り自体が愚行であるというのが正しければつまり、今ここに演じられているのは不実な愚行としての言葉の運動であるということです。続く「何も要らねーよ」という言葉は、単にアルコールや「安全装置」が必要ないということを示しているのでしょうか。それはおそらく違います。やはり、これは全面的に言葉の問題なのです。

 

 分かってるから喋らねー

 

 不要なのは、他でもない言葉だと言っているのです。「裸の・・・」と語りが不意に空転し、次に沈黙を宣言するこの男の語りこそがやはり錯乱しています。彼はすでに口を自ら塞いでしまいました。そのような場所からこの曲は始まっているということです。例えば試みに、「真っ昼間」のB-BOYが「ボブの歌かなんか口ずさみ」「何してんだとか言って」「昨日の夜知り合った娘と喋る」と言う風に饒舌であったことと比較してみてもよいかもしれません。しかし、ともかく今はこの男の動静を見守りたいと思います。

 

 何故だか外は雨だぜ

 背中だけ見えるソファー 「こっちへ来いよ」目でかけるオファー

 

 口を閉ざした男は、他ならぬ「目」を動かすことになります。窓の外を見つめ、ソファー越しの「背中」に視線を移し、「目」で再び誘いをかけています。「目は口ほどに物を言う」という言葉がありますが、その原義とはまた別の意味でこの沈黙した男の目は饒舌です。「外」を見つめることで初めてこの男が〈中〉にいることを知らされるということが第一に挙げられますし、「背中」が見えるということは見られている人が〈あっち〉を向いているという事実を物語ってもいます。常に「目」に映るものは、その反対、逆方向をもこの場に映し出すのです。そのような「目」の饒舌さをとりあえず説話の省略的な産出機能と名づけておきましょう(それとは別に「目」が「オファー」の言葉を実際に語っているという点も付記しておきます)。この産出機能が重要なのは、他ならない二項対立を利用した表現であるからです。語られた言葉と、私たちが行間から読み取る内容の間を、二項対立が媒介しているからです。そのことへの意識は、語りの形態として、引用部の二行目がまさに対句的な表現として二項対立の形を反映していることからも伺えます。対句表現は言うまでもなく、今まで私たちが見てきた、脚韻や二項対立といった1・1の形を取るものの一つに数えられます。

 もちろん、「省略的な産出機能」と大袈裟に言っているがそんなものは多少でも詩や小説を読めばどこにでもありふれたものじゃないか、という反論が聞こえてきそうです。確かに目新しい技法ではないことは明らかです。しかし、このテクストでの語りが示す内容は一貫して不確かで、その連関においてこのような技術が用いられているのだという点が見逃せないのです。

 なるほど、切断的な語りと、押韻や対句的な表現は、二項対立を間において連動しているのか、と大きく頷いてしまいそうになりますが、やはりこの語り手の男は錯乱していて、一筋縄ではいきません。よく考えてみると、「背中」がこちらを向いているのに、それに向かって「目」で出したオファーを相手はどのようにして受け取ったというのでしょうか。首を百八十度回転させていたのでしょうか?それともテレパシーでも送った?それは私たちにはわかりません。ともかく、この「オファー」の送受は無事完了します。しかし「分かってるから喋らねー」と男は言っていましたが、本当にこの男女は全てを理解しあっているのでしょうか。言葉もアイコンタクトも、必要ないほど分かち合い、二人でありながら一人であるような深い関係にあるのでしょうか。

 

 別にいいよゆっくりで 長めの沈黙 ぐっすり寝る?

 どのくらい互い感じるか 一つになりてえ後半日は

 

 やはり、物語は切断的に語られます。知らぬ間に「オファー」を受けた女は、「ゆっくり」と男の傍らに身を寄せますし、「沈黙」が続き、眠る素振りを見せていたかと思えば、すでに行為に及んでいます。「背中」に向けられた無言の「オファー」が受け取られるという事態からも分かるように、この場は現実的な遠近法と微妙に齟齬をきたし始めています。この引用部の「ゆっくり」「長め」「ぐっすり」「後半日は」といった語彙は、静的なイメージを文章に付与し、ラップ自体も静かに歌われるのですが、その裏では、物語は異常な加速度を示しています。語る内容と形式の間に大きな断絶が生まれているのです。

 これはフランスの文芸批評家リカルドゥーがヌーヴォーロマンへの同時代的な共感とともに著した『言葉と小説』において明快に図示した、テクストの「叙述」=形式と「虚構」=内容の間の時間の相関関係によって、読まれるテクストの時間が決まるという考えを参照しています。例えば、「百年経った」という文章では、語りの短さと語られる内容の長さ(百年)の間に齟齬が生まれて極端な加速を示しますが、「私は森を見ていた。風が木々を揺らし、夕日が・・・」と描写をするときには、語りの長さに比して語られる時間は停滞しますので、テクストは一種の放心状態にさらされます。この引用部における語りにおいては、形式の次元では静的な語彙が頻出し、時間経過も緩やかに見えますが、実際の虚構内に流れる時間はそれに比して切断的=タイムワープ的にきわめて早く進んでいます。やはり非現実的な磁場がここに捻出されているということです。「信頼できない話者」(両義的)→説話の省略的な産出(二項対立)という段階を経て、ここでは虚構と語りが激しい摩擦を引き起こしているのです。語り手は言葉Aが意味aと直接つながることを避け続けているように思えます。つまり言葉への記号論的な不審。言葉を扱う者として真っ当な姿勢を有しているとも見えますが、そんなことは言っていられません。単に男の意識は渾然とし始め、眩暈状態が徐々に悪化しています。

 しかしその前にもう一つ、ここに重要な主題を認めることが出来ます。合一と離反という二極に向かって、男の意識と身体が分裂している、ということです。そもそも互いのことを「分かってるから」と断言し沈黙を選択したこの男の言うとおり、男女が合一されているのだとすれば、行為の最中に「一つになりてえ後半日は」と、願うことが許されるはずがありません(サルトルの「自由」=「不安」がこのような意識の非定立性に規定されていることを考えれば、この部分は「意識」=「目」の「自由」さゆえの「不安」=錯乱であると要約することもできます)。合一を願っているということは、離反していることにほかなりません。この合一と離反という主題は、言うまでもなく、前回明らかとなった押韻における類似と差異という中核的な問題から導き出されています。このように考えると、押韻する二語とはあるいは男女のようなものなのではないかと考えずにいられません。他者であるが故に愛し接近しますが、もしも完全な合一を遂げるや愛そのものは消滅しますし、類似によって引き合わされた二つの言葉が、差異を持たないとしたら押韻は成立しないからです。類似と差異、合一と離反の間で引き裂かれたこの男が女を前に、何か楽天的な、例えば少しこちらが恥ずかしくなるようなラブソングで「好きな飯だって同じイタリアン チーズ好きとかマジぴったりじゃん」と歌われたような、類似していることそれ自体へのきわめて楽天的な幸福を味わうなどとは考えられません。

 

 いくつかのコップに写真立て 所詮はそうだが他人じゃねえ

 追いし追われのBACK IN THE DAY  今は噛むんじゃねえ

 

 身体的な合一の持続を願うこの男を、女から引き離すのはまたしても「目」です。見ること以外の何事かを付随させずにはいられないこの男の「目」はここで、意識をテーブルに置かれた雑貨に向けさせます。「写真立て」に映る過去の二人の姿はさらに、二人の合一と離反の狭間で揺れる関係を、絶妙の逆接で繋ぎ止めながら述懐させるに至ります。と思えば、意識は二人の過去へと遡行を始め、「追いし追われ」という注目すべき表現とともに内省のうちに沈潜していきます。ここで一度私たちはある響きに耳を奪われます。男の容態の異変を案じずにはいられなくなります。ここで今踏まれようとしている韻が、これまでの対句的表現とともになされていたような1・1格律の安定したものから踏み外されるようにして、三度、四度と繰り返され始めているからです。意識が内省へと加速度的に下降してゆくのと共鳴するかのように類似音がより多く反復されるからです。しかし、やはり今目の前で語られる言葉たちは愚行として演じられているわけで、そのような意識の直線的な流れは寸断されます。それも外部から。不意に男の身体を「噛む」女。男の追想はここで途絶し、意識は〈いま・ここ〉へと引き戻されます。この「今は噛むんじゃねえ」という怒声が、省略的に女をテクスト上に再産出し、同時に男の内と外を両射します。あまりに見事な言葉の呼吸にはっとさせられてしまいます。しかし、おそらくそんなことよりも、この男にとってより重大な事実は、「分かってるから喋らねー」と自ら宣言した沈黙を、ここで思わず破ってしまったことです。この時はじめて男自身の手によって取り外されていた「安全装置」は再起不能に陥り、男は錯乱の様相をより強めていきます。

 

押しては引き返す波 最初と今の違いは何

突き放してくれ思い切り ソレならイイ

 

 男の脳裏に映し出されるのは、波が打ち寄せる浜辺です。言うまでもなく、「押しては引き返す」反復運動が、1・1の形象としてここに現れています。 その1・1の運動を見つめて、男が問うのは女との関係における「最初と今」の差異です。おそらく、男が今聞いている波の音は、反復される類似音としての押韻と共鳴した響きです。あるいは、品のない深読みであると笑ってもらってもいいのですが、今しがた彼が行った性交のときの反復運動とも無関係でないかもしれません。

 反復を前にして、「最初と今」の差異を問うこの男は、『差異と反復』を書いたドゥルーズめいても見えてきます。しかし、重要なのは「突き放してくれ」という小さな叫びの方です。なぜなら、ここでは反復運動(押韻あるいは男女の恋愛関係)に辟易してしまったのか、その終わりを示す形象として直線的な運動をこそ希求しているからです。男は、つまり反復の向こう側へと行きたがっているのです。しかし、そんなことが可能でしょうか。おそらくその願いは叶わず、規則的な反復運動は失調し不規則性を示し始めますし、それだからと言ってテクストに直線を引こうにもその始点がどこであるべきかを見定めることさえ困難なほど、男の錯乱は一層悪化してしまいます。

 

俺たち会ったのはいつだっけ? 別にンなこたあ覚えちゃねえ

暑い日も寒い日も 苦じゃねーなとか思えたぜ

 

 男は、ベッド上で内省に沈潜していくも、女の一噛みで一挙に現実へと引き戻されましたが、その折に、沈黙を破ってしまいました。ここで示されている男の徴候的な仕草は、言うまでもなく先ほどまでと対照的な、饒舌な自問自答や感慨の独語です。女に向かって出会いの瞬間について尋ねているのかと思えば、先回りして自らその答えは不明だと言いますが、重要なのは、この物語の始原がすでに失われてしまったということです。再び、あの移り気でありながらも規則的であったB-BOYのことを想起してみると、彼の行動の半分が、「前日」に規定されていたことが示唆的です。物語=因果律は直線的ですが、今この物語は始点が曖昧なものとなり、両端が徐々に空白と溶けていくような線分として宙吊りにされてしまっているのです。

 

ほどけたね 変な縛り 言いたかねえけどあそこにゃもういない

笑えるぜ歩いてっから たまにゃ夜空眺める 馬鹿だから

 

 「変な縛り」から解放されたということ。彼を今まで拘束していたのは、1・1の形象や、物語、因果律といったものでした。今歌われる言葉は、それらからの逸脱を多いに物語っています。押韻は、1・1という形をとどめることができすに崩壊し始め、「返り韻」、AA音の連続する押韻といった形式的な症候が一層顕著なものになっていいますし、「歩いてっから」「馬鹿だから」に見られる因果律の破綻もやはり男の錯乱状態を示しています。その中でもっとも注目すべきは「あそこにゃもういない」という呟きです。女の不在を惜しむのに、なぜ〈ここ〉ではなく「あそこ」にいないことが問題となるのでしょうか。それはまず第一に男が今深い内省世界に没入しているため、ベッドで隣にいるはずの女の存在を完全に忘れ去っているのだということがあるでしょう。だからこの男はどこか一点に留まっているわけではないのです。意識を追想に任せて流動しながら、〈ここ〉でない「あそこ」というきわめて不確かな一点を探りつつ、不在を問うているのです。この時間論的な錯乱は、追想の果てに始原を見失うという物語機能の失調とも密接で、つまり何重にも不確かな磁場をこの男は生きています。

 

タガが外れた時が裸? お前とアイツで笑った「ハハハ」

流れ流れ今が大事 場所はないけど今帰り

押しては引き返す波 全部変わったかよ 知らぬ間に

 

 「タガが外れた」という一語が示すように、すでにこの男は、1・1律格の押韻から逸脱しながら、正気からもどんどん離れて行きます。それはもう自明なことで、むしろ見ていくべきは、どのような狂気の只中にあるのか、ということです。あの冒頭での語りの失調が「裸の・・・」という形で示されたことと呼応して、ここでは因果律の破綻した語りの中に「裸」の一語が共有されているということ。「アソコにゃもういない」という不在の感触が、この文章では「アイツ」の存在と、空虚な指示代名詞を両端に置いて対角線を結ぶこと。「アソコ」という不安定な空間への感覚、物語の線性への不信を前提にして、「場所はないけど今帰り」にあるという、つまりは目的のない帰途という錯乱した主題を呼び込むこと。やはりここに繰り広げられている光景は全ての「タガが外れた」、異様な(非)時空間であるようです。

 しかし、押韻との関係において見れば、あの「真っ昼間」の規則的な1・1との血みどろの戦いが展開されています。「押しては引き返す波 全部変わったかよ 知らぬ間に」というラインは、フック部分の反復、変奏としてあります。「波」が1・1という反復運動の形象であるのはすでに述べた通りですが、その反復自体がラインごと反復されているというのは何を示しているのでしょうか。「全部変わったかよ 知らぬ間に」という懐疑は、他でもなく、始原と〈今〉の間(フックにおけるこの文章と、今歌われる文章の間)での差異を問うという、やはりドゥルーズじみた問題提起なのです(同一性への懐疑)。しかし、そのことに深く立ち入るよりも、続く「流れ流れ今が大事」という声に耳を傾けたいと思います。なぜなら、「突き放してくれ」と歌われることで引かれたあの直線が、「流れ」という曲線に変化しており、さらに「流れ流れ」とその形式においては、1・1の形象を体現しているからです。どうしようもなく錯乱している、と言う他ありません。それでは、このような徹底した幻惑の中で男が行き着く果てはどのようなものなのか。

 

期待はしてないけれどなんとか いつものことだけれどもなんのさ

 

 おそらく、この言葉を聞いた人は、「できればせずに済ませたいのですが(I prefer not to)」というあの書記バートルビーメルヴィル『書記バートルビー』)の決まり文句を思い浮かべてしまうはずです。語りながらにして語ることを拒否する、この言葉の不思議な魅力に多くの偉大な思想家が夢中になったことは周知の通りですが、例えばすでに名前が挙がっているドゥルーズは、この決まり文句を「非文法的な表現」の一つに数え、「一種の限界作用」を見て取ります。(『批評と臨床』「バートルビー または決まり文句」)

 男の韻を踏んだこの言葉もそうした「非文法的な表現」であり、その文から派生する複数の可能性を一文のうちに含んでいます。「期待はしてない」ならば失望できようはずもありませんが、それでも「なんとか」ならなかったのか、「なんとか」出来ないものか、「なんとか」したいものだといった表現の「限界」を示しており、また「いつものこと」だからといって慣れていて平気であるわけではなく、だからといって怒りが沸いてくるわけでも、悲しみに打ちひしがれているわけでもありません。この種の語りは、このテクストにおいては結部での一度きりしか見つけることができません。「裸の・・・」と口を閉ざすことと、内容が何であれ語ってはいるこの表現はやはり異質ですし、「タガが外れた時が裸」という支離滅裂なナンセンスな語りとも異なります。この文の意味内容は曖昧なものであるにせよ空虚だとは言えないからです。その意味内容が「〈言語に絶するもの〉または〈不意に襲ってくるもの〉」といった限りなく空虚に近いものであるにせよ、空虚とは明らかに異質です。つまり「虚無の意思」ではなく「意思の虚無」であり、「存在として在り、それ以上のものは何もない」というわけです。忘れてはならないのは、バートルビーはこの手の言葉を決まり文句としてはじめから持っていたのに対して、この男は沈黙宣言、それの破棄、因果律の破綻した語りという語りの転身を繰り返した最後にこのような表現にたどり着いたということです。なので私たちは「非文法的な表現」の言語における意義について考えるのでなく、この男にとって、あるいは般若にとってこの引用部の言葉がどういった意義を持つのかという点を明らかにしなければなりません。

 語りの形態とともに、押韻についてもこれまで観察してきました。1・1律格→その増殖→連続的で散在する押韻。ここでは「なんとか」「なんのさ」という言葉で韻が踏まれています。一見、1・1というはじめの形に戻ったかのように見えますが、そこまで単純な話ではありません。なぜなら、「なんとか」「なんのさ」という言葉の意味内容はほぼ空虚であって、ここで思い出されるのが、九鬼周造押韻と「偶然性」の話で、そこで下策だとされていた意味内容の空虚な言葉同士での押韻が、ここでなされているからです。では、九鬼の言うようにこれは「押韻の妙味」のない質の劣った押韻であるのでしょうか。二項対立と押韻についてもすでに私たちは多少知見を持っています。押韻と二項対立が同時に行われると、類似と差異が反発しあう詩的効果が生まれるというものです。そしてそのときには「偶然性」と「必然性」がより激しく衝突するということも分かっています。しかし前回の記事では、対立は意味論的な対立でした。だから、今見ている意味の希薄な言葉同士での押韻にはそのような詩的効果が表れないと考えてもおかしくありません。「なんとか」と「なんのさ」は、きわめて音の上で類似しており、どちらも類似と差異を見分けられるほど意味論的に独立しているわけでもありませんが、確かに異なる言葉です。その相違点は、形式的なものです。「なんとか」は、バートルビーの"not to"同様、その後に言葉を接続することが可能ですが、「なんのさ」という耳慣れない言葉が持っているのは絶唱の響きのみで、別の言葉を接続することは不可能です。つまり、形式面においては押韻と緩やかな対立が共存しているのです。

 ドゥルーズは「限界作用」が「破壊的」であると言いますが、それはバートルビーが言語における関係性の「二重の体系」を崩壊させるからです。「二重の体系」とは、「一つの単語は、それと置き換えられたり、それを補ったり、その代わりに選ばれたりする語をつねに想起させる」ことと、その置き換えの可能を支える、言語を構成する諸相、つまりは「言語行為」のそれぞれの位相(コンテクスト、テクスト、文法など)のことです。これはおそらく前回私たちも参照したヤコブソンの「選択」と「結合」の理論を下敷きにしていますが、コードの内部(「選択」の体系)においても、またコード自体(「結合」の体系)も同時に擾乱することは、完全な、言語の「蕩尽」です。つまり、あらゆる可能性を食い尽くしてしまうということ。

 あらゆる押韻の可能性の「蕩尽」こそがこの場で行われています。九鬼の言う「偶然性」の高い言葉同士での押韻も、二項対立と押韻も、「なんとか」「なんのさ」という押韻の「限界」のうちにあり、押韻という概念、あるいはこういって差し支えなければイデオロギーを崩壊させうる「破壊的」な表現であるのです。「偶然性」を支えていた意味論的な距離の測定は失調し、それでもなお形式的な対立は残っていますが、押韻におけるシニフィアンシニフィエの結合部は脱臼させられています。

 

 最後に疑問が残ります。般若が遠くドゥルーズと並走していたということは、彼がスキゾ・キッズであるということを示しているのでしょうか。つまり、あらゆる権威や制度から逃走する者であるのか。それはありえないと断言できます。バートルビーの「決まり文句は行く先々を荒らし、蹂躙し、通ったあとには草木一本残らない」のですが、確かに般若も今そのような荒地に立っていることは間違いのないことです。しかし、バートルビーのテクストを読み「最初に気がつくのは、その伝染性の性格」であるのに対し、幸であるのか不幸であるのかは分かりませんが、匿名の男の呟きが他の誰にも、般若自身にも決して「伝染」しなかったことが大きな問題であるように思われます。つまり、錯乱の中で押韻の「限界」を見たとき、その錯乱のままに生き続けることは許されなかったということです。

したがって、般若が次に直面する問題は、錯乱からの回復の過程として立ち現れてきます。全ての可能性=ルートを見てしまったとき、それでも再び走り始めなければならないとき、「GOサイン」が出たとしても、スタートラインを見つけることから始めなければなりません。つまりは、逃走をやめて闘争するために、始まりを始めること。「ソレならイイ」という否定であるのか肯定であるのか判然としない言葉を乗り越えたあと、何か示唆的にすら思える「イイ」の一語を共有しながら般若は高らかに宣言します。

 

生まれ変わるぜ 真新しい羽でも生えてれば尚更イイ  「サイン」