韻踏み夫による日本語ラップブログ

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「GOLDEN MIC(REMIX)」について あるいは押韻と二元論

 Zeebraと般若の二人の関係は奇妙です。あるいは、奇妙なのは般若だけかもしれませんが。Zeebraは、出会ったときから現在に至るまで、彼のことを尊敬し、愛し続けています。最近では、「般若がバトルしたんだぞ」と、テレビ画面の中でその場にいる誰より早く感涙を流したほどです。それに比べて、般若はZeebraに対して愛憎入り混じる感情を抱いていました。

 二人の出会いを仲介したのは一つの伝説的なデモテープです。RUMIという少女の手からZeebraの手に渡ったそのテープは、彼がYOU THE ROCK☆と共にパーソナリティを務めるラジオ「HIPHOP NIGHT FLIGHT」のデモテープ紹介のコーナーで流れることとなります。「とりあえず聞いてくれ」と高揚した声で紹介されたこのテープに吹き込まれたラップの内容がなんと、このパーソナリティ二人を含む当時の数少ない日本のラッパーたちに宛てられた過激な批判であったことはよく知られている通りです。「真の末期症状はここ東京 ってそれしか言えねーてめーらほっとこー」「大して偉くも凄くも上手くもねーのに『ああじゃなきゃダメ』『こうじゃなきゃダメ』ってああ?テメーがラップ作ったんか」といった幼さと稚拙さを留めたラップでのディスを受けて二人のラッパーは意外にも、この「挑戦状スタイル」を評価し、「こういう、すげえ、アティチュードが必要だと思う」と絶賛しています。後に般若と名乗ることになる青年YOSHIが、簡単な自己紹介やフリースタイルを済ませた後に両者の間で電話越しに交わされた「気合入れとけ」の一語は、後に般若の「神輿」の冒頭で再び聞かれることとなります。その後、般若は三軒茶屋を拠点に妄走族を結成し、アングラな活気に満ちたラップでシーンに再び衝撃を与えます。

 さて、般若がソロデビューを翌年に控えた2003年、あのラジオの放送から7年後、般若とZEEBRAは曲の中で再会します。Zeebraの『TOKYO'S FINEST』に収録された「GOLDEN MIC(REMIX)」です。この曲は、ZeebraKASHI DA HANDSOME、AI、童子ーT、般若の「ヤバメ5MCs」によるマイクリレー曲で、それぞれが握る「ゴールデンマイク」に懸ける想いが歌われます。KASHIならば若き日のラップに打ち込む姿を、AIならば時代の閉塞と個人の自発的な行動による打破の呼びかけを、童子ーTならば日本でヒップホップシーンを作り上げた男の一人としての覚悟を歌います。Zeebraは何を歌うのでしょうか。「オーバーグラウンドじゃ唯一のリアルSHIT BAD BOYたちの願望満たすDREAM」というラインに集約されるように、シーンを統率するリーダー的な姿勢を打ち出します。ここでのZeebraがオーバーグラウンド/アンダーグラウンドの対立を念頭に置いていることは明らかです。成功の、ヒップホップ的な証として、「車」「LADIES」「ペントハウス」といったものを列挙しながら、「だが未だ渋谷の街をクルーズアラウンド」「未だ夜のクラブでおふざけ 若手と朝までトップ・オブ・ザ・ヘッド」といった「ストリート」や「現場」という日本語ラップ的なアングラの符牒を付け足すことも忘れていないからです。オーバー/アンダーという二分法を超越し、統括する存在として彼の「ゴールデンマイク」は輝くのだということでしょうか。

 このような四人の先行するラッパーたちに向けて、般若は第一声、このように叫びます。「ガタガタ抜かすな 道空けろ雑魚」。荒々しいエネルギーが炸裂した素晴らしいバースです。この曲には実は後日談があり、有名なディス曲であるDABO「おそうしき」の般若のバースで「俺をハメたつもりかおっさん 丸々全曲含めごっそーさん イー年こいて先輩面 TV画面じゃ小さ過ぎてでかいっすわ」と歌われます。般若のここでの意図は、彼を客演に呼んだのは若手のフックアップのためではなく、Zeebra自らのアングラな側面を強調しようとするためだと看破しているという脅迫と、その企みも空しく失敗に終わり、般若は自らの実力で他の四人のラッパーたちを飲み込んだのだという嘲笑です。しかし、やはりこのような反抗はどうにもZeebraからの影響の大きさの裏返しではないかと思ってしまいます。実際の、「全曲丸々」般若が食ったというバースでもZeebraへの過剰な意識が顕わになっています。

 「例えばカチコミ 例えばフリースタイル 例えばディスるな はあ?そりゃ無理っすわ」のラインがZeebraの同曲内の「例えばLADIES 例えば車 例えばクラブでの大盤振る舞い」への過敏で過剰な反応であることは言うまでもありません。しかし、さらに注目すべきなのは「例えば核心突くぜZeebra」という一節です。Zeebraという固有名が出てきたことが重要なのではありません。「例えば核心突くぜ」という一文が、無残なまでに支離滅裂だということが問題なのです。Zeebraの「例えば」という接頭辞による列挙法への執着が、文法破綻を引き起こしているのです。般若のことを内容主義のラッパーであると思っている人が多いようなのですが、それは端的な間違いであることをここに断言しておきたいと思います。ここでも見られるようにむしろ般若は形式主義者なのです。そのことについてはまた詳しく語る機会があろうかと思います。それは置いて、今般若によって突かれる「核心」とはどういったものでしょうか。

 「アンダーグラウンドが一番タフ」だと言います。もちろんこれはZeebraの「オーバーグラウンドじゃ唯一のリアルSHIT」に対する反発として歌われていますが、実はこの命題は問題の多いものです。なぜなら、多くのラッパーやヘッズたちがこれを振り回すことで自らの不遇から目をそらし、精神的な慰めに悪用されることとなったからです。これは言うまでもなく二元論的な思考法です。般若のこのバースにおいて、それは徹底されています。「ディスるな はあ?そりゃ無理っすわ」「芸能界知らねーな え?兄弟 引かねーわ」「渋谷の街を生き抜く奴 おー?取ってみこのマイクカス瞬殺」といったラインはそれぞれアングラ的なものの優位を執拗なまでに、過激さとともに説いています。その執拗さは、アングラ的なものを顕揚する際に全て対話という形式を取るという点にも及んでいます。つまり、疑問形と応答に、二項対立のそれぞれの項が割り振られ、疑問に否定で答えることでもう片方の優位がより強調されるということです。「芸能界」はオーバー的なものとしてテクスト内に呼び込まれますが、それを否定することでアングラ的なものがより強固なものになるという、つまりオーバーなものはここで「否定的媒介」として機能しているということです。

 言うまでもなく、このような般若のやり口は偏狭な二元論的思考法であるとして批判にさらされてもおかしくありません。しかし、重要なのは、純正の「アンダーグラウンド」としての立場を保持しようとするときの並外れた強度と過剰さです。対話形式を用いてわざわざアンダー/オーバーの衝突の場面を何度も描くという怨念の深さです。般若は、何を意図しているのでしょうか。一言で言えば、Zeebraを徹底的に批判しようとしています。そもそも、Zeebraはシーンの頭領として、アンダー/オーバーに関わりなく全てを統括したのだと説きます。その態度を、すでに見たように般若は「おそうしき」において皮肉交じりにディスしています。では、Zeebraの何が問題なのか。Zeebraのこの二元論を前にしたときの思考法は、弁証法的であると言えます。「オーバーグラウンド」にいながら、ストリートに足を着け、「リアルシット」を歌うことが出来る存在であるのです。この弁証法的な思考法の浮薄さを般若は暴き出します。なぜなら、弁証法的にアウフヘーベンされたラップに、真の批評性など宿るはずもないからです。二元論の最大の問題点は何でしょうか。例えば、男/女の対立に関する言説は、残念ながら現在でも見かけることがあります。男がこのような点で優れている、いや女は云々といったものです。この議論の最大の問題は、単に解決が不可能だということではありません。議論がされればされるほど、男/女という二分法を支える隠れた第三項を保存、強化してしまうのが問題なのです。つまり、男女の対立についての言説が生まれるたびに、人間は男と女のどちらかであるという第三項は批評から逃れ、性的マイノリティの抑圧に手を貸すことになるのです。

 Zeebraは、アンダー/オーバーという二元論弁証法によって乗り越えました。しかし、それでは隠れた第三項である「日本語ラップ」自体は、批評を退けたままに安穏としたままです。若き般若が覚えた強い苛立ちの内実はおそらくこのようなものであるはずです。しかし、これは事態の半面をしか捉えていません。

 

 より重大なことは、押韻二元論の深い関係です。おそらく、Zeebraと般若が私たちの知るよりも密接で複雑な感情を互いに抱いているのも、二人だけがこの問題についての自覚があったからです。日本語ラップの「核心」もここにあるに違いありません。

 「まあせいぜいスキル磨きなめいめい 覚悟決めるのはお前だKJ」「俺がNO.1 HIPHOP DREAM 不可能を可能にした日本人」「そんなみみっちい人生生きてえか ダイナミックにビッグに死にてえか」。どれもあえて曲名を言う必要のないZEEBRAの代表曲に見られるこれらの歌詞が、二項対立と押韻への自覚が歌い手にはっきりとあったことを証拠だてています。しかし、なぜZeebraにこれが可能であったのでしょうか。それは彼が「真っ昼間」という技術論的な記念碑となる作品を作り上げたからです。すでに前回みたように、この曲の最大の形式的な特徴は、1・1という整備された脚韻です。この1・1が、二項対立ときわめて近くにあるものだということは自明であるかと思われます。ところで、二項対立を押韻する二語として並置する、というこの技法は多くの場合パンチラインとして強い印象を与えます。「俺も明日するぜジャイアントキリング そのため地元でサイファーの日々」というMCニガリが即興で吐き出した奇跡的な一文や、「ディスされた分内面を見つめ ディスり合った分マイメンを見つける」という晋平太の最近の曲でも、押韻する二語がそれぞれ対照的であるとき、なぜ私たちはひどく感動を覚えてしまうのでしょうか。

 二項対立と押韻。実はこの問題意識は、時代を明治まで遡って、誰もが教科書やらでよく知っている夏目漱石のあの近代への苦悩と繋げることが可能です。蓮實重彦の『反=日本語論』に収録された「倫敦塔訪問」という有名な小文があります。「二個のものがsame spaceヲoccupyスル訳には行かぬ。甲が乙を追い払うか、乙が甲をはき除けるか二法あるのみじゃ」という『我輩は猫である』に見える一文から、漱石が直面した西洋、近代といったものの真実を暴いていきます。この猫の呟きは、まず第一に政治における選挙による民主主義の「代表」という概念の本質だと言います。つまり、国会議員は選挙で選ばれたのだから公平で、民主的な手続きを担保として政治を執り行っていると思われていますが、「代表」とは都合のいい言い換えで、実際は「勝てば官軍」という前近代的で野蛮なものと同じではないか、ということです。負けた側を排除したことを隠すために「代表」という制度があるのだ、と。民主主義を「排除と選別の体系」であると言われるとぞっとしつつもその繊細で鋭い批評眼に思わず唸ってしまいます。しかしさらに重要なのはこの続きです。「政治と言語という現象が親しく通底しあっているという事態を直視すべきだということである。言うまでもなく、言語的思考にあっては、代表の概念は表象のそれにとってかわられる」。つまり、筆者がソシュールを参照しながら説くところによれば、センテンスの任意の位置に、例えば「我輩は・・・である」の空白に「猫」の一語が場所を持つということは、その「猫」という選別された一語の裏に「犬」や「ライオン」や「夏目漱石」といった排除された言葉たちが存在するのだということです。

 さて、蓮實はソシュールを引きましたが、ここではそれ以後の重要な言語学者であるヤコブソンの理論を参照してみたいと思います。「言語の二つの面と失語症の二つのタイプ」という論文があります。ソシュールが「統合」と「配列」、あるいは「連辞」と「連合」と呼んだ二つの言語の軸を、ヤコブソンはそれぞれ「結合」と「選択」と言い換えます。例えば、前者においては「こ」「ん」「に」「ち」「は」というバラバラの音の記号が「結合」されて挨拶を意味する記号として働くということですし、「こんにちわ。」「調子はどうですか。」という二つの文章が「結合」されて、相手の体調や気分を気遣う発話として機能するということです。後者の「選択」は、上で述べたような、「排除と選別の体系」における表象作用のことを指します。ヤコブソンの面白いところは、この二つの言語の様式が失語症患者の二つのタイプの元になっているとし、ある患者は言葉の「近接」への感覚が欠落しており、もう一方のタイプの患者では「類似」の感覚がないといいます。そこからさらに、「結合」→「近接」→「換喩」、「選択」→「類似」→「隠喩」と論を進めることとなりますが、言語学の勉強はこのくらいにしておきましょう。私たちが注目したいのは言うまでもなく、後者についてです。

 ヤコブソンは言語における「選択」の様式が成立するのは、「ある点では等価であり他の点では異なる別の交代要素」の間であると言っています。それはつまり、ある言語の大まかなカテゴリーにおいては「類似」しているが、その範囲を狭めたところでは異なる記号であると言い換えられます。もちろん、これは今言語の意味的な側面の話をしていますが、音の次元においてそれは押韻の規定としても読むことができます。つまり押韻とは、(おもに)母音においては「等価」であるが子音においては異なる記号同士の関係であるからです。「GOLDEN MIC」「当然ハイ」「この世界」「頂点ライム」といった記号群は、順不同でどの組み合わせでも代置=選択可能だということです。

 しかし、押韻は言葉のシニフィエと切り離して考えることができないというのは、九鬼周造がすでに指摘しています。「偶然性」という言葉でそれを何とか定義しようとしましたが、「偶然性」とはつまり、「犬」や「夏目漱石」という記号ではなく「猫」が選別されたことに必然性がない、ということですし、「GOLDEN MIC」と韻を踏むのが「当然ハイ」であっても「この世界」であってもよいということです。偶然性が高ければ高いほどより「押韻の妙味」は発揮されると、説いています。その偶然性は、押韻する二語の音の類似の度合いと意味の差異の度合いによって規定されます。しかし、これが書かれたのは百年近く昔のことです。日本語で押韻を行うことが珍しく、困難であったときのものだということです。九鬼が意図したのは、日本語の文法上押韻が困難だという押韻否定派への反論でした。いまや誰でも簡単に日本語で韻を踏める時代にあっては、助詞助動詞で踏むよりも名詞や動詞で踏むほうがより良いと言われても、あまり役には立たないでしょう。では、十分に偶然性を備えた押韻の中で、それよりも数段「押韻の妙味」が発揮されるのはどのような場合なのか、と現代の私たちは問わねばならないでしょう。

 その答えが二項対立と押韻です。ヤコブソンの言う言語の「選択」の理論を次はこのように言い換えたいと思います。「選択」が可能な記号群は、ある次元においては類似を押し出し、別の次元においては差異の方が前景化される、と。つまり、「犬」「猫」「ライオン」といった記号は、大きな視野のもとに眺めれば動物であるという点で類似していますが、もう少し微視的に見ると、「猫」と「ライオン」は同じネコ科であるから「犬」という記号は類似よりも差異として見られる、という風なことです。では、二項対立とはどのようなものでしょうか。黒/白という対立は可能で、なぜ黒/光では不可能なのでしょうか。言うまでもなく、黒白二つの記号は「色」という「ある点では等価」な記号であるにもかかわらず、「色」の記号群の中では対照的な二つであるから対立可能なわけです。二項対立に潜む第三項とは、巨視的に見たときの「等価性」「類似性」に他なりません。

 整理してみましょう。普通、言語の「選択」はある点で共通部分を持つ記号同士の間で行われます。押韻とは、音の次元における「選択」可能な記号群から任意に選ばれた言葉同士です。二項対立とは、「選択」可能な記号群において、対照性を持つゆえに特権的な二つの記号です。対照的な二つの記号がなぜ特権的なのかと言えば、二つの記号が関係を結ぶからです。その関係は類似と差異の互換関係です。「大きく見れば類似しているのに、小さく見れば差異が最大なもの」こそが二項対立です。つまり、類似による引力と、対照的であるがゆえの反発力がせめぎあうのであり、磁石の同じ極を近づけると反発するというような場面を思い浮かべてみてもよいかもしれません。

 二項対立を押韻によって並置するときの、詩的効果の理論的な根拠はこのようなものとなるでしょう。二項対立における記号の等価性に加えて、母音の一致という音の等価性が重ねられ、それが押韻によって並置=接近させられるや、カテゴリー内における最大の差異が強烈な反発力とともに噴出するということです。もちろんこれを九鬼周造流に、次のように言い換えることも可能です。押韻と二項対立が共存するとき、音の類似と、記号のある次元における等価性により邂逅=並置された言葉は、邂逅の瞬間において二項対立という必然性=意味論的な関係に解体され、絶大な「妙味」を発揮するのだ、と。

 般若がZeebraから受けた拭い去ることの出来ない影響は、この二項対立と押韻という技術論的なものです。このことにかけては他を圧倒するほどラッパーとしての嗅覚が鋭かったのがZeebraです。K DUB SHINEが政治的な問題に関心を向ける間に、RHYMESTER押韻と論理性の段階で足踏みを続けている間に、誰よりも早く押韻の本質を先取りしていたのです。般若がZeebraをリスペクトするのは、彼のラップの最大の動力となっているこの問題の先駆者であるからにほかなりません。般若のラップにおける二項対立と押韻については、後に語ることになりますが、現段階では「こびり付くひでえ事 でもなぜか残らねえ綺麗事」「ブタの安心 狼の不安 面倒くせえまとめてクラッシュ」「母ちゃんはすげえ綺麗 父ちゃんはブレーキねえ」「三年前の今日は分かんねえ 三年後の自分は変わんねえ」といった歌詞の引用をするに留めておきます。

 

 いまだ私たちは、般若と言う存在の周囲を旋回するだけで「核心」へと接近するには及んでいません。般若は「履歴書」という曲でも、「GOLDEN MIC(REMIX)」について歌っています。「そうだあん時ZeebraのLIVE いつかの渋谷でGOLDEN MIC 本刀背負って横付けバイク プンプン臭うぜアウェイなバイブ 知り合い?一人もいねえよ絶対 何故だか客席から出る設定 女子便前にて本刀片手 『怪しい者ではないです おれは』」。自嘲的に語られるかつての般若自身ですが、このライブで彼は発売間近のソロデビューアルバム『おはよう日本』についてこう語りました。「この曲より百万倍、かっけえからよ」。そのアルバムには、やはり支離滅裂でゲリラ的に暴発しては煌めく言葉たちが蠢くこととなります。そして、これまでに提起されているいくつかの問題、つまりはZeebraという存在を乗り越えて、前人未踏の場所(韻)へと足を進め然るべき始まりを始めるために、徐々に前進しています。その歩みの進行に従って私たちも般若へと接近していくことになるでしょう。般若からの誘いの声はすでに聞こえてきています。

 

なー馬鹿になろうぜ 「ソレならイイ」

 

 

 

付記

この押韻二元論にまつわる二人のラッパーの対立は、さらに大きな問題へと繋がっていることは明らかです。押韻が、言語のシニフィアンの面における「選択」の過程を経ているならば、蓮實が指摘した言語と近代政治システムが通底するという事態から示唆されるように、押韻はきわめて近代的な言葉の技術であるとも言えます。そのような観点に立ってみれば、先日、佐々木敦東浩紀が主催する批評再生塾の最終課題として提出された吉田雅史「漏出するリアル ~KOHHのオントロジー~」に描かれたKOHHと志人と、これから私たちが見ていこうとする押韻についての最大の思想家である般若は共闘関係にあると言えます。なぜなら「漏出するリアル」は、「『昭和90年代』をテーマ」にすることを課題として書かれたからです。KOHHは、「韻を『省みない』」ラッパーで、そのリリックのセンテンスはぶつ切りにされていて「林立」していると言います。それに対して志人のラップの特徴は「途切れることのない流れ/フロウを重んじつつも、小刻みに、そして執拗なまでに韻を踏みながら、言葉を千切っては投げ、千切っては投げる、流れと切断のハイブリッド」だとされます。反復する小節と軌を一にした脚韻、あるいは小節を偶数的に捉えるという態度、つまりはZeebraの「真っ昼間」的なものが、おそらく「昭和」的な仮想敵とされ、そこから逃走した二人のラッパーであると言う風に描かれています。ならば、「昭和の残党」を自称する般若はどのような立ち位置にあるのでしょうか。般若において、逃走と闘争をイコールでつなげることはありえません。「昭和の残党」として、昭和的なもの、つまりここでのZeebraから逃走することはなく、徹底的に闘争することでしょう。