韻踏み夫による日本語ラップブログ

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般若論に向けて ZEEBRA「真っ昼間」について

 この記事はZEEBRAの「真っ昼間」というクラシック曲についてのものになるのですが、その目的は端的に言って般若を語るため、というものです。般若についていつか、誰かがしっかりと語らなければなりません。般若がもっとも日本語ラップ的なラッパーだからです。日本語ラップ的といってもよく分かりませんが、押韻が中枢にある音楽のことだと言っていいでしょう。ZEEBRAと般若には明らかな影響関係を認めることができますが、それと同時にその間には修復不可能な断絶があるようにも思われます。しかし、その般若のあとに誰が続いているのかと問われると答えに困ってしまいます。誰も般若という現象について考えていないのです。そのような意味で般若について今一度語ることが不可欠であるはずです。そして何より、私は誰よりも般若に魅了されているのです。

 そのためにはまずZEEBRAについて、ここでは「真っ昼間」という曲を聞かなければなりません。その理由は、この曲及びZEEBRAのソロデビューアルバム『THE RHYME ANIMAL』が日本語ラップの「教科書」「お手本」になることを目的として作られたという作者自身からの証言通り、きわめて形式的に整理されたものであるからです。そしてある一貫した物語を語りながら押韻をするという日本語ラップの基準となる形を作ったのです。

 確かに、この曲以前にキングギドラの(というよりはK DUB SHINEの、ですが)「スタア誕生」は一人の少女の一生ライミングとともに語るというものでしたが、押韻の形式を見ると「真っ昼間」ほど整ってはいません。「真っ昼間」の最大の特徴は、二小節毎に一度の押韻を行うという形式です。つまりこれは脚韻の最小単位であるということで、安定しています。では物語内容はどうでしょうか。こちらは説明不要な気もしますが、B-BOYの平凡な一日を描いています。つまり、押韻も、物語もとても退屈で禁欲的な作品であるということです。内容も形式も、思いっきりシンプルなものになっている、という風に見えます。しかし、内容と形式を極小にまでそぎ落とすことで反対に押韻とラップというものの限界を暴いているということが明らかになっていくようなのです。

 

 ということでこの曲をじっくり見て行きたいと思います。

 「午前十時部屋の中はすでにサウナ この暑さじゃ目が覚めちまうな 冷房ならあるが喉に悪いし 朝起きたとき気分だりいし」という歌い始めですが、一日の初めから丁寧に語りだしています。そして暑さに疲れたこの男が「復活のシャワー」を「ボブの歌かなんか」を口ずさみながら浴びるという場面はよく知られていると思います。さぞ気持ちのよかったことと思いますが、残念ながらそのリラックスタイムは「うなる電話」によって中断させられてしまいます。彼は「ハードワーク」を予感して電話に「焦って出て」みるのですが、なんのことはない、「ただのイタ電」でした。夏のよく晴れた日につまらないイタズラをするなんてと「呆れ」ながら、再び洗面所に戻って「歯磨」きを済ませ、「街に出る支度」をします。「Tシャツに短パン」を身にまとい、「葉巻と冷えたシャンパン」を持っていきます。

 これが第一バースの物語内容です。いくら物語が単調な一日であるからといって、この男の言動に何の意味もないと決め付けるのはリスナーの怠慢です。私はこの男の行動から何かを探り当てたいのです。そのときにヒントになるのが一度ずつの押韻という厳しい形式です。当たり前の話ですが、一度の押韻で並べられる言葉は二つです。あるいは、一つの母音のセットが二度繰り返されるとも言えます。つまり、この曲のリズムは1・1という律格に支配されているのです。その二つで一つという押韻の形は、この第一バースの細部とどうやら深い関係があるようです。実際この歌に出てくる男は朝シャンをして「ゴシッゴシッ」と頭を洗いますが、この擬音が押韻の1・1の形と同じであることは言うに及ばないでしょう。また、シャンプーを終えて電話に出てわざわざ再び洗面所に戻るという反復運動もきちんと歌に描かれているのですし、「開くタンス」から出すのは「Tシャツに短パン」の二つ、さらに数ある持ち物の中からとくに描かれるのも「葉巻と冷えたシャンパン」という二つの物なのです。やはり二つで一つという形式がこの第一バースの物語内容を支配しているのかもしれません。

 しかし、この1・1の押韻には別の側面があります。それはきわめて禁欲的であるという点です。押韻は類似音の反復です。反復が一度で終わるべきだなんて誰が決めたのでしょう。同じ音で何度も押韻してもいいじゃないか、というささやきにこの歌は耳を貸そうともせず、ひたすら一度の押韻にこだわり続けます。おそらく、それは物語をきちんと語るために最低限の押韻で済ませているのだ、という反論が聞こえてきそうです。本当にそうでしょうか。この歌に出てくる男の一日はなんとも退屈すぎると思いませんか。押韻を控えめにしているのだからもっと壮大な物語を歌ってもいいのに。せっかく何か波乱万丈な事件が起こりそうになったのに、わざわざそれを流産させているのではないかという疑いを持ってしまうというのは歪んだ見方でしょうか。思い出してみてください。せっかく「うなる電話に予感されるハードワーク」と男は少し高揚気味に言っていたのに「ただのイタ電」だったではありませんか。物語が起伏を持ったより面白いものになりそうだったのに何でもなかった。それはこう見ることも出来るはずです。わざわざ物語の予感を作品に取り込みながら、物語が消滅するところを故意に描いたのだ、と。これについては後でまた話すことになるでしょう。

 第二バースに移りましょう。すでに「街に出る支度」は完了していますから男は「車に乗りキーを」挿入し、「同時に窓開けて疾走」します。行き先は「いつもと同じ ヘッズ共」が「たむろする街」です。「ミックステープ」を鳴らし「クソ渋いベース」に「チル」しながら運転します。上を見上げると「セスナ」が飛んでいて、そこから「常夏の島」を夢想していると、再び携帯電話が鳴ります。今度の相手は「昨日の夜知り合った娘」で、次に会う約束を取り付けますが、道行く「他の娘に目が」移ってしまいます。

 さて、第一バースでこの男が見せた運動の形は1・1という押韻の形と奇妙に一致していました。二つセットの洋服と嗜好品、シャンプーの音、そして洗面所への二度の往復。これらは、一つの音につき一度の押韻という形式的な特徴が物語世界へと反映したものであるかように思われてなりません。では、この第二バースはどうでしょうか。1・1という対立の形象など消え去ってしまっているではないか、と言う批判を少しこらえてください。確かに、第一バースで何度も見られたような押韻の形と歌詞の細部の照応は見つけることができません。しかし、この1・1という形、あるいは押韻という技術そのものについてもう少し深く考えて見ましょう。読者を馬鹿にしているのか、と怒られそうですが、二つのものが1・1の形に並置されるということは元は1であったところにもう一つ似た物がくっつけられた、ということです。それなら、こう言い換えることは出来ないでしょうか。任意の1がひとたび出てくると、もう一つの1が必ずついて回るのだ、と。押韻を例に取ればよりそのことが明瞭です。常にラッパーは何かある母音の並びに対して、子音の異なる別の単語をくっつけたがっているではありませんか。押韻とは言葉に対して常に、何か別の似ている言葉を探すという行為です。しかし、一つの疑問が沸いて来ます。押韻において、踏まれる言葉A(例えば「イグニッション」という言葉)と踏む言葉B(「疾走」という言葉)の二つの言葉はどちらが優先されているのか、というものです。説明しましょう。押韻と一口に言うとき、それはAB二つで一セットの言葉の関係を言います、当たり前ですね。しかし、はじめに出てきたAはその後にBが続かなければAであることはできません。「イグニッション」のあとに続くのが「疾走」という言葉ではなくて、ほぼ同じ意味の「快速で運転」という言葉が続いたのでは押韻=AーBという関係は成立しませんので「イグニッション」はAという特権的な単語ではなくなります。つまり、Aはその後に続くBを予感し、Bが後に続くのだという確信の元にAであるというわけです。しかし、反対の立場から見てみるとどうなるでしょうか。BはAの後に付いてきたのではなく、Bが現れたことによって任意の言葉がAとなるのだ、と言う見方も出来るはずです。ややこしい話になりました。俗に言う「鶏が先か卵が先か」問題ですね。この問いの答えは出すことは不可能でしょうし、別にそれが分かったからといって何の得もありません。この問題が示しているのは、押韻する二語ABは、共通する母音を媒介にほぼ同時的に繋がると言うことです。ほぼ同時というのは、Aの時点でBは予感されており、しかしBがまだ現れていないときにはAのAとしての資格を完全には持っていないということで、先ほど確認した通りです。Aは半分BでありBは半分Aだとも言えます。

 少し長くて複雑な話になりましたが、押韻する二つの言葉はこのような関係を結びます。では、「真っ昼間」に出てくるこの一人の男の言動をもう一度観察して見ましょう。「車に乗り込んでキーをイグニッション 挿すと同時窓開けて疾走」という第二バースの冒頭に、他ならない「同時」という言葉が使われていることに注意してください。しかも、この「同時」という言葉は「イグニッション」「疾走」という押韻する二語ABの間に置かれています。それが何だ、という人もいるでしょう。確かにこれでは押韻という形式と、物語内容の連関について証拠が不十分であるかもしれません。なのでここは一度慎重に、男は鍵を挿すのとアクセルを踏むという二つの動作を「同時」に行ったというにとどめておきます。街で車を走らせるこの男は「カーステ」で「ミックステープ」を鳴らしていますが、「首でリズム」を取りながら「ハンドル」を「切る」のです。ここでも二つの動作が同時になされています。でもこのくらいならまだ可愛いほうです。空を見上げると「セスナ」が飛んでいます。運転中に上空を見るなんて危なっかしいと心配したくなりますが、セスナに「夢」を「あお」られて、「常夏の島」のことを空想し始めるのです。「思い浮かべながら」という言葉が示しているように、ここでもやはり二つの動作が同時に、というわけです。押韻する言葉同士の時間的な関係性と、男の身体はどうにも似すぎていると思います。こんなにいろんなことを同時に行うのは不可思議です。

 このように、男の身体は二重に運動を重ねられているのですが、これだけにとどまりはしません。車内に置いている「ココナツ」の香りの芳香剤と、どこかへ旅人を乗せている「セスナ」の二つの物が、男の脳内で「常夏の島」の空想へと向かわせているのですが、幾分か移り気すぎはしないでしょうか。続く歌詞はこうです。「鳴り出した携帯電話に出る」。現在法律上禁止されていることから明らかですが、運転中の通話は集中力を分散させるため危険ですね。別に安全運転を心がけなさいと言うつもりではなく、意識の分散について強調したいのです。ここでも「ながら運転」なのです。しかも、電話の相手は「昨日の夜知り合った娘」ですが、電話を切ったとたんに「そこの道歩く他の娘に目が」行ってしまうという「移り気」加減なのです。移り気に次ぐ移り気。これはやはり押韻の形態と結びつけずにはいられません。なぜなら、すでに言った通り、この曲は禁欲的なまでに一音につき一度の押韻にとどめられているのですが、それは一度押韻すればその母音の並びにはもう興味をなくして、別の音で押韻をしたいという移り気なものだとも言えるからです。この曲の二小節に一度の脚韻という最も安定し、整理された形式は二つの特性を持っているということです。まず一つは、押韻について移り気であると言う点、そしてもう一つはきわめて規則的であるという点です。さらにもう一つが仮に「移り気」と呼べる分散性です。後者についてはすでに指摘しましたが、前者についてはどうでしょうか。この男は本当に規則的であるのでしょうか。確かに第一バースに顕著な1・1の形象化の数々はそのことを示しているかもしれません。しかしそれだけの話ではありません。思い出してみてください。この男が上空を見上げたり、空想したり、電話したり、脇見をしている間にも、車は常に動いていてエンジン音が鳴っていたでしょうし、その響きと呼応するかのように「クソ渋いベース」の重低音が、規則的な間隔で打たれていたではありませんか。しかも、男が向かう先は「いつもと同じ」場所なのです。

 夏の「昼下がり」の街には「カラフルな人だかり」が出来ていましたが、その中に「仲間」を「発見」し、「何してんだとか言って蹴り一発」をくらわせ合って連れ立ちます。しかし、次の予定があり「昼間から公園でバーベキュー」をはじめます。「ノリノリのパーティチューン」を流して、「モエ」なんかを飲んでいると、いつの間にか夕方になり、「夜の部はこれからだ」と盛り上がってこの曲は終わります。

 この男が見せる注目すべき行動は、「仲間」と街で会ったときに、「まじで偶然 いわゆる腐れ縁」と驚いている点でしょう。彼はそもそも「ヘッズ共多くたむろする街」に向かって車を走らせていたのに、何を驚くことがあるのでしょうか。とはいっても、その「仲間」が久々に会った友人だったのかもしれないので、その点はとりあえず置いておくことにしましょう。しかし、やはりここで象徴的なのは「蹴り一発 軽く入れ合って」という友情の確認作業です。蹴りを入れるというのがB-BOY流儀の挨拶であるかどうかは関係のない話です。重要なのは、ここでも律儀に「一発」ずつ互いに蹴りを入れ合う二人のB-BOYの戯れがどうしても1・1律格の押韻と似て見えることで、しかもこの邂逅の瞬間に漏れる感想が「マジで偶然」というものであり、その偶然性も、二人が「腐れ縁」だからという必然性に回収される一連の流れです。すでに私が九鬼周造を参照してブログに書いたことがありますが、押韻によって並べられる二つの言葉ABの間には偶然の類似関係しかありませんが、それが必然性に解体されたとき、「押韻の妙味」は発揮されるのです。なのでこの、男と友人の再会はまさに押韻の自己言及的な形象化だと見ることができます。

 この二人の次の行動は、すでに観察して得られた移り気な性格によって規定されているようです。蹴りを入れあったあと、「すぐに出発」してしまうのですから。さらに、出発したかと思えば「徐々に」時間を気にし始め(おそらく何度も腕時計に目をやったのでしょう)、「一時過ぎ」であることをみとめると「次の予定」に向けて移動し始めます。移り気でありながら、予定には敏感であるこの男はやはり同時に規則性を大事にしているようです。思い返して見れば、朝起きてシャワーを浴びているときも、「なんて余裕かましてる間もなく」と時間に追い立てられていましたし、今彼がいる町も「いつもと同じ」場所です。また、「次の予定」である「バーベキュー」のメンバーも「気の知れた奴ら」だけですし、そのときの印象もなんら目新しいことはなく「やっぱ最高」と夏にバーベキューをするときの楽しみを再確認するにとどまるのです。

 さて、夏の一日を過ごすB-BOYの行動を観察してみましたが、押韻との深い関係があるように思われます。しかし、ここでもう一つ、先に示唆しておいた押韻と物語についての問題がまだ残っています。きわめて印象的な「焦って出てみればただのイタ電 呆れるぜこんな空の下で」というラインが、単に夏の一日の平凡さを描くための消極的な媒介としての役割ではなく、物語の破綻の瞬間を積極的に作品内に取り込むという意図的なものなのではないか、というものです。すでに抽出しておいた情報を参照することにしましょう。押韻の本質的な特性と連関して、男は規則的でありながらまた同時に移り気だということが分かっています。物語との関係において、規則的であるという性格は、朝目覚めて夕方に至り「夜の部はこれからだ」と最後に言うまで、時間軸に沿ったきわめて律儀な語りと深い関係があるように見えます。そもそも、この曲の物語内容である男の一日は、表面上描かれていない「前日」によってすでに規定されていたのです。朝、「部屋の中はすでにサウナ」かと思われるほどの暑さに目覚めるのですが、「冷房ならあるが喉に悪いし」と、意図的にクーラーの電源を落としているのです。まさにその前日の夜の行動によってこの物語の始まりである目覚めの瞬間が導かれていると言うことです。また、運転中に電話を掛けてくるのは「昨日の夜知り合った娘」でしたし、車内のBGMは「ゲットしたばっかのミックステープ」です。「バーベキュー」もすでに決まっていた「予定」として登場します。また、朝家を出るときに持った「冷えたシャンパン」もおおよそ5,6時間の経過をきちんと反映して「ぬるくなったモエ」と言い換えられます。このように、因果律、規則性が物語の動力となっているのです。律儀で禁欲的な物語であると言う事ができるかもしれません。

 しかし、同時に移り気な男=押韻の性格も、物語を動かす片輪を担ってもいます。「セスナ」によって空想を始めること、「そこの道歩く他の娘に目が」移ること、たまたま友人と再会を果たすことなどが物語のもう一方の側面である規則性に対して綾を付けることとなります。しかし、これらは分散的で、持続性がなく、新たな物語を孕んではすぐにそれを捨て去るという絶え間ない運動、という色合いの方が強いようです。「ボブの歌」をうたってリラックスしていたのを遮断したのは「うなる電話」でしたし、「常夏の島」の空想も「鳴り出した携帯電話」によって中断せざるをえません。しかも、電話相手の女の子に「今度会おうと約束」したはいいのですが(「約束」という単語も見落としてはなりませんが)、別の娘に目移りしてしまうのです。「セスナ」「電話」、道行く女の子といったものは男にとっては偶然に出会うものです。そのことによって物語はさまざまな方向に触手を伸ばすことになります。しかし、まさにそのことによって物語は停滞、規則性の様態をあらわにしているのです。なぜなら、多くのものに偶然出会いながらも、その出会いの多さによって一つ一つの物語の萌芽は摘み取られてしまうからです。

 これらはやはり、二小節毎に一度の押韻という日本語ラップ初期の一つの技術的、形式的な達成と軌を一にしているようです。というより、その形式的な完成によって押韻というものの本質を、暴き出したのだと言ってよいかもしれません。この曲によって押韻は一つの臨界点を示しているようです。ラップは反復する小節との関係性においてその場所を持ちます。反復に対して、言葉の反復である押韻が使われます。それを極限まで推し進めたのがこの曲です。そのような記念碑的作品の中に見える物語と細部が、押韻という形式の限界や展望を映し出しているとは言えないでしょうか。

 この「真っ昼間」が一つの到達点であるとしたら、ここから次の段階へ行くのはどのような場合でしょうか。つまり、押韻の形式的な規則性の縛り、1・1のリズムや論理性の破壊、移り気が逆説的にもたらす停滞と、物語の規則性、論理性の退屈さといったものから抜け出すことがどのようにして可能になるのでしょうか。

 

 押韻と物語というものについて、一つ付記しておきたいことがあります。それは「偶然性」についてです。押韻と「偶然性」について考えたのは九鬼周造でしたが、物語と偶然について考えた人もいます。新感覚派の小説家横光利一です(ちなみに二人とも1930年代くらいに活躍した同時代人です)。『純粋小説論』という論考は、「第四人称」という問題の多い概念を提出したことで有名ですが、同時に物語と偶然性について指摘しています。「純粋小説」とは、純文学と大衆文学をミックスしたもので、それこそが文学の未来に必要だと説きながら、大衆文学が物語に偶然性を積極的に導入することを見習うべきだと言います。例えば、テレビドラマなんかで朝遅刻しそうになり、トーストを加えて走っていたら曲がり角で素敵な異性とぶつかり、恋に発展するなんていうベタな場面がありますが、もしこれに感動するとしたら、それは「偶然性」によるものです。偶然とは必然の否定ですから、異性同士が街角でたまたま衝突することに、何の理由もありません。つまり、偶然とは不可知なものなのです。不可知なものに魅力を感じるのは人間の性でしょう。偶然=不可知=感傷というわけで、テレビドラマの甘ったるいラブストーリーが感動を引き起こすわけです。もちろん、テレビドラマ程度の偶然なら、すぐに作り手の意図という必然性が垣間見えて興醒めすることがほとんどですが。

 このように考えると、押韻をしながら物語を語るというこの「真っ昼間」という曲は、「偶然性」に支配されているように思われますが、すでに見てきたように規則性=必然性も共存しています。物語と押韻という問題はこのようにいくつかまだ語りきれない問題点を持っているようです。ここでは問題提起だけにとどめておきます。

 

 さて、はじめに書いたとおりこのZEEBRA「真っ昼間」の読解は、般若を語るためのものです。この「日本語ラップの教科書」とされている曲が示した形式的な安定と、物語内容の揺れが、その後どのように乗り越えられたのでしょうか。その答えは般若という一人のラッパーに託されています。まさにラディカルでクリティカルな存在として、このような限界を打ち破ったのは彼以外に見つけることはできません。それについては、次の記事に書くつもりです。よってこの文章は般若論への序説として読まれたいと思います。そして、最後にZEEBRAと般若の間で交わされた印象的な言葉を引いて終わりたいと思います。

 

 ガタガタ抜かすな 道空けろ雑魚   「GOLDEN MIC REMIX」