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韻踏み夫による日本語ラップブログ

日本語ラップについて Twitter @rhyminaiueo

「スキル」について ラップを聞くということ

 いつもブログを書く時はいつでも、一応しかるべき理由があって書いているつもりだ。それはまったく個人的なことかもしれないが、ライムタイプ研究への批判の記事をはじめ、反抗しなければならない言説や風潮といったものをひっくり返したいと常に思っている。しかし、九鬼周造の詩に関する著書を哲学的な思想から洗いなおしたり、比喩と押韻の構造の類似を指摘したり、MCバトルの形式的な特徴を考察するといったことは実はあまり好きではなく、実際のラップから離れることは本意ではない。ラップを聴くことが好きなのだ。ブログなのでたまには愚痴を言ってもいいだろう。別に誰に頼まれて書いているわけではないのだ。だから今回は、好きな曲について書いて見ようと思う。もちろんこれまでこのブログで取り上げた曲はすべて傑作であると信じているから取り上げたのだが、今回はもっとラップの魅力を伝えるということを第一に考えて書こうとした。やはり、ラップの言葉自体を離れたところにラップの魅力はない。作者の想いにも、経歴にもなければ、聞き手の個人的な趣味にも、心情にもない。ラップを聴くという体験。それ以外にはないのだ。

  なので今回の記事では、ラッパーたちの「スキル」に注目してみたい。五つの楽曲を取り上げることにした。

 

 KEN THE 390 「二階建ての家を買おう」

 日本語ラップが生まれた当時からシーンを支配しているのはメインストリームとアンダーグラウンドの対立で、「マス対コア」を想起するまでもない。しかし、カウンターカルチャーとしての側面が色濃い日本語ラップが、日本の音楽業界への有効な逆襲とはなりえず、シーンが閉鎖し自家中毒的な症候が見え隠れするとき、「二階建ての家を買おう」と歌うことはある程度のインパクトを持ちえた。

 KENの論点をさらってみると、つまり「例えばLADIES 例えば車 例えばクラブでの大盤振る舞い」といったセルフボーストの虚勢とは裏腹に、日本語ラップの現状は、中流家庭クラスの「二階建て」すらも買えないといったありさまではないか、というものがまず一つである。しかし、KENが抜きん出てクレバーなのは、「二階建て」の家で営まれる平和で幸福な日常というメインストリームカルチャー(ポップソングでもテレビドラマでもよい)が作り出した神話に対しても批評的である点である。つまり、何気ない日常がありがたいという言説に対して「狙うぜダントツ」「ガンガン行く」「勝つべくして勝つ」といった言葉を歌詞に差し込むことで、「幸福」はもはや自明のものではなく勝ち取らなければならないのだという日本の経済的現状を暴くことになる。日本語ラップシーン(アングラ)に対してはメインストリームを、メインストリームに対してはアングラなスタンスを取るという複雑な戦略が仕掛けられている。さらに例えば、「真っ白いスニーカー 熟練のスキル だけじゃ飽き足らず男も磨く 決して譲れないぜこの美学 いつか庭一面敷き詰める芝生」という歌詞。「毎日磨くスニーカーとスキル」と言ったTWIGYにおいて、「スニーカー」はヒップホップという文化の象徴であったのに対して、ここでは綺麗に磨かれたスニーカーは二階建ての家の玄関に並んでいて清潔なイメージへと転用されている。「譲れない美学」も引用元ではヒップホップのことを指していたが、ここでは「芝生」を丁寧に「敷き詰め」たり刈りそろえたりするときの「美学」へと変換される。内容においては日常を重視しているが、言葉の連関はサンプリング、押韻といったきわめてヒップホップ的な手法を押し出す。この二重構造が示しているのはKENの卓越した批評性である。もちろん、「マス対コア」の両方を批判するKEN自身の立場がどこかに見つけられたのかというのは疑問として残っている。「カス代表」と二項対立を踏み潰した般若にはまだ及んでいないか?

 

 D.O「悪党の詩」

 日本語の韻にはターミノロジーが必要 - 踏む.韻 fumu.in

 唐突だが、この記事。韻に「ターミノロジー」があったらあったで困りはしないが別に何の得もない、ということは前にライムタイプ研究の批判の記事で書いたことだが、「レディオ」「えるよ」「てれお」といった言葉が「韻かって言われると、もうわかん」なくて、「たとえば、『広義の韻』が母音1文字だけあってれば」よく、「『狭義の韻』なら3文字以上」ということにし、さらに「一般的に『韻』と言えば通常は狭義の韻を指すってことにしたい」と勝手に定義されてしまえば、D.Oは韻を踏んでいないことになってしまう。

 D.Oの曲のほとんどは「広義の韻」しかなされていない。末尾の一音節分だけが統一されているだけである。「悪党の詩」もその例に漏れない。ライミングという観点から見れば単調なものに見えるのだ。さらに、ストリートのリアルを歌うので、歌い手自身のインタビューでの言葉を借りれば「ドキュメンタリー」でも「映画」(D.Oは自身の企画で映画を取ってもいる)でもいいが、目新しさのない語り口なのだ。「悪党が奏でるこの歌が全土にばらまかれる頃には 山積みのままのプロブレムは少しでも片付いているだろうか」という歌いだしの回想形式など、百年単位の昔からあるような形式である。つまり、ここでも素材論的な過激さは置いておいて、単調さばかりが目に付くといった有様なのだ。

 しかし、D.Oの曲は間違いなく単調さとは程遠い。もし、単調であるという人がいるならば、ライムタイプ研究や、上記引用のブログ筆者のように、テクストの豊潤さではなくライムが好きな人で、概念にとらわれている人だと言える。

 この曲が「全土にばら撒かれる」現在時から、「転がったチャンスの隣には落とし穴が掘ってあるもんさ 危ないことが怖いなら鍵をかけて部屋にいりゃいいだけだ」という警句風の文言、「また誰かがきっとこう言うさ あいつは昔からいかれてた ぶっ殺されたか 飛んだんだ」という他者の証言を経由して徐々に核心となる「リアル」な出来事へ接近しながら、不意にその道程を切断して「ライブハウスはすでに囲まれてた」と過去形で語るときの迫力。この、語りにおける古典的だが効果的な手法を、一音節分の押韻の単調さが引き立てていることも重要な技術論的な仕掛けである。この曲では、A音の押韻であるが、「は」「が」「た」「か」など助詞、助動詞がその大半を占めており、つまり自然な日本語の文法を改正する必要がない。このことは押韻を単調なものにするとともに、一見小学生の作文風の素朴な文章を作っている。しかし、実際には単調さが反対に作品の主題である出来事を刺激的なものに映しているのだ。だから例外的に倒置法が使われている箇所で歌われるのはまさに歌詞の中心点なのだ。「今夜どっちを握るかマイクORガン」。このような仕掛けはラップ自体においても施されている。聞いてみれば分かるが、ビートの小節に綺麗に歌詞を収めたり、あえてラップを小節からはみださせたりすることで単調さを間一髪で逃れている。

 あえて注文するなら、この曲を聴くだけでは「事件」が何であるのかが理解できず、「リアル」が天皇制的に神秘化されることへの配慮が欠けているかもしれない。もちろん、コンプライアンスの問題で、そのことを赤裸々に歌えばCDを発売することはできないであろうが。しかし、D.Oが「リアル」をラップに落とし込む際に、技術的な工夫を忘れていないことが重要で、素材が何であれスキルのないラップなど聞くに堪えないのだということを教えてくれる作品である。

 

 SKY-HI「トリックスター

 すでに彼をアイドルだからという理由でディスる人はいないだろう。例えば「TYRANT ISLAND」のファストラップ、ビートアプローチ、ハードライムなどは大半のラッパーのスキルを大きく上回っていると言える。しかし、リリックの練度において、「トリックスター」は出色である。

 見ていた夢の「イイとこではっと」目覚めたときから、外では雨が降っていて憂鬱になるが、それも仕方がなく、何かをやりたいと思うが「努力」の「やり方」までは教科書に載っておらず、「誰かのくれたヒントですら」信じられる保障もないという徹底した虚構の蔓延が語り手の身の回りの現状だからである。二日目の朝も同様に快活さとは無縁で「嫌な夢」から目覚めたはいいが「現実もまあ変わり」はなく、彼は「コメンテーター」「総理」「ヒーロー」にうんざりしながらも「愚痴る暇も」なく「出勤時刻」を迎えてしまう。このような内容だが、どこにでもありそうな不満を吐露しただけに見える。しかしやはり重要なのは形式との関係である。

 まず、夢から目覚めるところから歌い始められること。夢と現実の境界が壊される瞬間から歌詞が始められるが、だからといって夢を肯定も否定もせず、反対に現実を肯定も否定もしない。夢も現実も似たようなものだと言い切る点がまず他と大きく異なる。「まあ現実も変わりねえか」。それは単に現実が悪夢のような様相を見せていると言う凡庸な比喩ではない。「データからデータ」と歌われるように、ポストモダン的な現代社会(「記号の浮遊」)のことを指しているのだ。その証拠にこの語り手の気分が鬱屈としている原因は、すべて彼の生身には一切触れない他人の言葉の浮薄さや、テレビやネットを通して見る社会なのであるから。つまり、ポストモダンな社会に信じるべき「大きな物語」が失われているのだとしたら、それはまず夢と類似するというのが一点、ということだ。そのような中では、社会に対する不満をぶつけるだけでは効果は望めそうもない。「コメンテーター」や「誰かのくれたヒント」に誰より辟易しているのは語り手自身だからだ。内実のない記号だけが流れる現実に対して、どうするか。その答えが比喩的なシニフィアンの横滑りである。キングギドラ「大掃除」や、般若「内部告発」などの用法に顕著なこの技術の要点は、単語の持つイメージを織り込むことができると言う点で、そのときに厳密に規定された意味から用法をずらすことが必須である。「内部告発」は、本来企業や団体に所属している者がその非を告発するということを意味するが、この歌では自己の内面をさらけ出すという意味に変換されている。「トリックスター」においては、例えば、「ホンネとタテマエは別コーデ」という歌詞において、批判の対象となっている現代社会の症候としての「ヒント」の信じられなさであるが、同時にその「ホンネとタテマエ」を比喩する「別コーデ」という言葉自体がきわめて現代的であるということ。続く「既読してスルーされるS.O.S」に関しても同様で、助けを求めても無視されるという救いなさを語る時に使われる「既読」「スルー」という現代的な語彙。まとめるなら、現代的な語彙を使って現代的な症候を批判するという戦略が使われていることになる。

 「トリックスター」にならなければいけないのは、現代がきわめて「トリック」的であるからで、だからこの歌詞も「トリック」に溢れている。SKY-HIの聡明さ、批評性に驚くきわめてクレバーな一曲。

 

 DOGMA「杉並区」

 9SARIグループの中でもとりわけ異彩を放つDOGMAの魅力は、過激で黒くて妖しい主題にのみ限定されるものではない。彼がボスと慕うMC漢のクラシック「漢流の極論」的な、「ストリートのリアル」の描写と言葉遊びのユーモアの間に差し挟まれる魅力的な体言止めが、2005年の新宿から2015年の杉並区へと受け継がれるとき、どのような類似、あるいは差異を見せるのだろうか。

 例えば漢の「極論」において頻出するのは、「根も葉もない」「棚から牡丹餅」「三度の飯より」「持ちつ持たれつ」といった慣用句、常套句の意図的な使用だが、「杉並区」の歌いだし「蛇の道は蛇じゃあヘビー」との技術的な呼応関係を認めることはできるだろう。また、「取り乱してすみません すでに取り返しつきません」という漢のパンチラインと、「首に紐引っ掛けちまう死ねば他人」というDOGMAのこの歌詞におけるシリアスな内容から少し距離をとってユーモラスに語る姿勢の類似。など、言うまでもなく二人の間に影響関係を見つけることは容易なのだが、重要なのはむしろ相違点の方である。

 一聴明らかなのは、ラップ自体である。DOGMAの最大の魅力は、ビートに対して大胆で絶妙な抑揚を付けながら、言葉の独特な使用法を体言止めの迫力と共にラップする点である。そのとき、押韻という技術とどのように絡んでくるかが一つの見所で、例えば次のくだり。「麻取 急接近マニュアル通り こっちもマジだ 準備いいか? いくぜマイノリティ」。ビートに対してまさに破綻寸前の語調でラップしながら、麻薬捜査官の接近への対処を逡巡しながら「マイノリティ」への呼びかけを不意に叫ぶというこの歌詞の切断的な色合いが、「麻取」「マニュアル通り」「マイノリティ」というこれまた破綻寸前の押韻の大胆さに裏付けられているという点。つまり、ビートアプローチが文法破綻とともにそのアウトローな生活スタイルの描写に呼応しながら、幻覚症状のような大胆な語のイメージの飛躍を押韻という技術を媒介として行われているわけだ。「ターボライターガス切れるまでパーティナイトじきに光るパトランプ」といった歌詞も同様で、重要なのは意味内容の一貫性ではなく、単語同士のイメージの飛躍の仕方である。言うまでもないが、一応「ターボライター」と「パトランプ」の視覚的類似と、麻薬摂取の違法性と警察の対立、「パーティナイト」「パトランプ」の押韻関係=音の類似、部屋の中での喧騒と町に響くサイレンという類似と、意味における違法性と警察の対立がこめられている。

 前にMC漢について記事を書いたとき、彼のラップは主題においても形式においても規範の外にあると言ったが、それを引き継いでいるのがDOGMAであると思う。言葉への鋭敏な感覚を重視する「新宿スタイル」の継承者としてDOGMAは見逃せない。

 

 ANARCHY「FATE

 ANARCHYについて回る符牒といえば、「暴走族」「団地」「下流」といったもので、経済的苦悩を描いた点においてシーンにとって新鮮であり、そのように受け入れられたような印象がある。出世作といってよい「FATE」もまさに「団地」をヒップホップ的なトポスとして発見したことが評価され、例えばKREVAの「江戸川ロックオン」も団地を描いた日本語ラップ作品として先駆的であるが、そこで描かれている場所はノスタルジックな色合いを帯びていて、「以下省略で現在になる」という一句がその過去性、現在との切断を証明している。反対にANARCHYは団地の惨状を現在形として歌うことが大きな相違として現れている。

 しかし、ラップはルポタージュではない。そこにSEEDAの卓言通り、ラッパーとリスナーの間を「スキルが介す」ことが重要なのだ。そこを見つめてみるとむしろルポ、ドキュメンタリーというよりも小説的な構造があらわになることに驚きを隠せない。

 「下駄箱に置き去りのハイヒール 写真の中笑顔ではいチーズ」の冒頭。「置き去りのハイヒール」が何か不吉さを暗示しながら、続く「笑顔」さえ不吉な表情に見えてくるのは、「置き去り」「写真」の二語が過去性を表現しているからである。しかし、それよりもさらに重要なのは、この曲の言葉の大部分を覆っている体言止めが「写真」のように描写の対象を静止した時間の中に置き、象徴化するからであり、その点やはりルポ的な特徴を保持しているかに見える。例えば「置き去りのハイヒール」が、父子家庭であった作者の経歴を示しているのだと言う意見もあるだろう。今の引用部の「写真」もかつて母親と一緒に撮ったものだと見ることもできよう。しかしそれなら、「耳塞ぎたくなるようなニュース 例の現場並んだままのシューズ」と、ここでも放置された靴が歌詞の中で反復され、フックにおいて「夜中の公園に裸足で」と歌われる連関についてどう説明すればよいのだろうか。あるいは、第一バースで「隣の女の子泣き声響く 上じゃ酒飲みの怒鳴り声」と団地の上の部屋からの音に苛まれたあと、「屋上からジャンプ」と団地の建物の最上階からの落下を歌詞に差し挟む上下運動。さらに、この団地の喧騒が第二バースで増大しながら「泣き止まない子供 野良猫にサイレン」と変奏されること、第一バースで「上じゃ酒飲みの怒鳴り声 白い悪魔博打が手招きパンク」という一連の描写の対象であったギャンブラーの「酒飲み」と同一人物であるかは分からないが、第二バースで「給料日に博打もうNO MONEY 聞き飽きたセリフもう飲まねえ」と博打と酒が反復されること。テマティックな連鎖が支配しているといえるが、それだけでなく、論理的な堂々巡りが金にまつわって展開されもする。「みんな釣られる 積まれたMANEY」という金の恐ろしさと「この町を抜け出す方法金」という金の手段としてのポジティブな側面。つまり、歌詞の形態として言葉同士が密接に連環しながら、直線的な物語を寸断し続けるのだ。「クモの巣」「チェーン」といった単語は、テクストの形態を自己言及的に示しているのであり、そのような救いなさは「向こうが出すまでは手出すなよ って教えられたけど正解はどう」という答えへの不審を歌い手がつぶやく動作にも端的に現れている。これら言葉の形態としての結びつきが、体言止めの連続による「写真化」の生動と相まって団地からの脱出の困難を生々しく描き出すのである。

 団地からヒップホップで成功する、という物語をANARCHYが体現していることは確かにそうであるかもしれない。しかし、この曲においてANARCHYが描くのは線的な物語が機能しない惨状なのだ。軽々しく「ヒップホップドリーム」などと言わないように。