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韻踏み夫による日本語ラップブログ

日本語ラップについて Twitter @rhyminaiueo

晋平太について MCバトルという形式と「CHECK YOUR MIC」

 日本におけるMCバトルで特権的な立ち居地にある一人のラッパーは誰であろうか。史上最強であろうR-指定、それともR-指定と同じく日本一に三度輝きその後の活躍も華々しいKREVAか。あるいは、UMBという日本最大のMCバトルを創始し、自らもMCバトルの伝説的な存在であるMC漢か、バトルにカムバックするたび毎に奇跡的な試合を演じてみせる般若か。HIDADDY、鎮座DOPENESSその他いくらでも名前を挙げることができよう。しかし、晋平太というラッパーに比肩しうる者はいないのである。

 なにも晋平太を褒めることが目的ではない。UMB二連覇をはじめ、数々の語り継がれるバトルを繰り広げたことは周知の通りで、ここで改めて言う必要もあるまい。晋平太が特権的であるのは、彼が日本で、もしかすると世界ではじめての「バトルMC」という存在を引き受けたからである。

 

【コラム】「MCバトルはもう終わったのか?これから始まるのか?」 #せんごく松 #UMB松|YOFKASHI

 

 幸いにも、バトルシーンの内部からこのような優れた文章が提示されている。MC松島のこの議論が重要なのは、日本語ラップというカテゴリの中の一要素であったMCバトルが、いつのまにかそれから独立した文化圏を持つようになったという指摘である。そしてそのことを体現しているのが晋平太というラッパーであるというのだ。

 例えば、試合中に試合の外部に言及するとき、その外部が日本語ラップの文化圏を指すのか、MCバトルシーンを指すのかということを比較してみればよい。「ZEEBRAもKREVAも童子ーTも出ねえ」と言った2008年の般若は日本語ラップとMCバトルの包含関係が保持されていることを示している。しかし、「一言目なんて言おうかずっと考えてたでも今分かった おれがただいまだからお帰りで返せ」というとき、試合の外部として想定されているのは、UMBで司会をしていたためバトルへの出場を中断していた、かつてのUMB二連覇チャンピオンである晋平太なのだ。MCバトルと日本語ラップの切断、あるいはMCバトルの自閉である。このことは皮肉にも、晋平太自身が楽曲の中で喜々として証言している通りである。「MCバトルはドラマになった」。

 

 晋平太とそれ以前のラッパーを比較してみたが、どうやら晋平太が歴史を変えたというわけではなさそうである。晋平太はそれ以後のラッパーと比較しても特異なのだ。晋平太の次の代表的なバトルMCであるR-指定を見てみよう。確かに彼は圧倒的な強さを誇っていて、晋平太の二連覇を超えるUMB三連覇を果たしているし、晋平太自身かつて一度勝利しているとはいえ、MCバトルをリードするのはR-指定だと何度も言っている。だが、晋平太の特異さはR-指定の存在によって軽減されはせず、むしろ際立つようなのだ。二人が音源においてMCバトルを主題にするときに、大きな相違があらわれることになる。R-指定の「刹那」も、晋平太の「CHECK YOUR MIC」のそれぞれのフックは確かに類似しているように見える。

 

何もよけるな 何も恐れるな 何もためらうな 何も恥らうな

何者ですらない 何を見て何を思う この刹那

 

CHECK YOUR MIC 利き手で握り締めな CHECK YOUR MIC 唇に近づけな

CHECK YOUR MIC 深く息吸い込みな CHECK YOUR MIC バイブスをぶち込みな

 

それぞれ、バトルMCらしく即興という偶然性の支配する磁場へ向かうときの緊迫した状況を描写している。しかし、第一の重要な相違点は、R-指定がきわめて一人称的に個人の心情を吐露しているのに対して、晋平太の方では三人称的な視点から歌われているということである。R-指定のこのフックにおいて禁止を呼びかけるのは自分自身に対してであるが、晋平太はこれからバトルに立とうとする他者に向けて呼びかけている。「FREESTYLE GOD」と称されることもある晋平太だが、その名にたがわず「神の視点」からMCバトルを見渡しているのである。そうでなければ、「M.B.H」と言ってバトルの歴史を語るということが他の誰に許されるだろうか。

 さて、この「CHECK YOUR MIC」の第一の特徴はバトルリリックの引用の豊富さであることは一聴明らかなことである。「刹那」においても、「ワンハネハネ?」というバトルリリックからの引用が見られるが、それはすぐさま「こちとら3ハネハネ」と歌い手に収斂される。晋平太のこの曲が特異なものであるのは、晋平太自身を含めた複数のラッパーたちのバトルにおけるパンチラインをサンプリングすることで、語り手の立ち位置や声が希薄になっていくからであり、しかしだからといってポリフォニックだとは言えずむしろ自閉的な症候とも見えるものであり、また同時にきわめて苛烈な自負が押し出されているようにも考えられるからである。

 

 そもそも、バトルリリックの引用は、ただの引用とは異なる様相を示す。「二軍だった奴が今じゃ一軍」というサンプリングにおいて聞き手が想起するのはそれをそれを言ったR-指定だけではない。R-指定と熱戦を繰り広げたDOTAMAがこのラインには潜在しているのだし、しかもこのラインはRとDOTAMAという因縁の二人の歴史さえ包含しているのである。このとき、「CHECK YOUR MIC」の歌詞としての言葉は少なくとも三つの声に分裂するのであり、歌い手としての晋平太、引用元のラッパー、さらにそのラッパーが試合をした相手の声がその言葉に宿ることになる。このような引用が何度も繰り返されるのだし、MVにおいてDOTAMAが不意に画面に映り自己引用することからも、やはりポリフォニックな意図があると判断されそうでもある。しかし、それでもやはりこれはきわめて晋平太的な歌なのだ。

 

 MCバトルが日本語ラップという上位構造から独立したことはMC松島の言うとおりである。ならば、音源=日本語ラップシーンにおいてバトルMCのラインを引用するという行為はどのような意義を持つのだろうか。それは、バトルMCという存在の第一人者としての義務か、誇りかは分からない。だが一つ言えるのは、この「CHECK YOUR MIC」という曲が過酷な状況から生まれた評価すべき曲であることは疑いのない事実であるということだ。

 日本語ラップとMCバトルがいまや別物であることがすでに明らかにされている。では、その差異は何であるのか、と問わねばならない。二つを分かつ最大の差異は、即興であるか否かということである。そしてまた、ラッパー同士の対話であるのか独語であるのかということである。

 では、まず即興性の有無によってどのような違いが言葉には表れるのだろうか。即興とは一回性、決定不能性を示す。つまり偶然性の支配する場であるといえるわけだが、そのような場所でラッパーに求められるのは剥き出しの自己といったものである。なぜなら、即興の場においてラッパーは自己を仮構する暇さえ与えられないからだ。それは実際名バトルといわれるものをみてみれば明らかなはずだ。「スタイルウォーズ」といった言葉がもてはやされたりするのも同じことで、つまりMCバトルのリング上ではすべてのラッパーは丸裸にされるのであって、言い換えれば観衆の目に映るラッパーはすべて真の自己として想定されるのだということだ。白熱すればするほどこの磁力のようなものは強大になっていくのであり、それはMCバトルの本質である。反対に音源においては、楽曲、スタイル、ファッションといったものは「表現」としての特性を持っている。つまり、それが本物か偽物かは分からないが、とにかくラッパーは自己を「表現」する、あるいはしなければならない。この対比から見えてくるのは、MCバトルには大きな不自由さがつきまとっているということであり、つまりラッパーたちは真の自己から離れることはできないのだということだ。もちろん、その剥き出しの自己といったものは呂布カルマが良い例であるが、仮構することも可能である。しかし、どんなラッパーでも即興の場において顕現する排除できない身体性から逃れることはできない。身振り、手振り、表情、声音、といったものが身体性であり、それらを隠すことはできない。呂布カルマがUMB2014において盲目のラッパーという偽の自己を仮構しようと、バトルに敗北しても鋭いユーモアで勝者を突き刺す余裕があろうと、R-指定との劇的なバトルの最中の彼の身体に透けて見えるのは真の自己なのだ。呂布カルマとは正反対に般若はその身体性を自ら押し出すことによってバトルで圧倒的な存在感を発揮する。鍛え抜かれた肉体、ラップのボリューム、目つき、それら全てが般若の強さであるのだ。即興の偶然性が反動的に、真の自己という必然性を要請するのだと言えばよいだろうか。

 MCバトルの、即興性に次ぐ第二の特徴は、上記のように対話性である。対話もまた偶然性の一範疇ではある。しかし、即興性が身体によってラッパーの自己を顕現させるのに対して、対話は自己を変動させ続ける。自己というものは他者との関係において成立するものであるが、対話性はそのことをより強く印象付ける。即興が身体的なものであるなら、対話はやはり言葉の問題である。ラッパーの発言は、敵の言葉との関係において判断されるのであり、そこでは身体性は一度捨象される。身体は変わりない自己をあらわしているのだとしても、言葉は常に決定不能性にさらされ、どのように転がっていくのかを知るすべはない。身体の持つ絶対的な安定の反対に、言葉は偶然の支配の下に置かれるのだ。例えば、「MC松島 今からおれの相手はお前じゃねえ お前ら(引用者:観客)だ おれをどこまで疲れさせる気だ」というふぁんくに呼応して、「じゃあふぁんくがそう言うんだったら」と自らの言葉を語り始めること。対話性は自己と密接な関係にあると思われている主張やスタイルといったものを一度白紙に戻し、語り手の人格もそこでは一度無効なものとなる。もちろん、その反対もあり、例えば「じゃあそう言うんだったら」というような柔軟さを拒否して、「ぶれない」二つの人格同士がぶつかり合う場合もあるだろう。例えば、人口に膾炙しかけている焚巻と般若の試合。審査員のLILYはそのとき、バイトをしながらラップをする「チャレンジャー」の闘争心と、音楽だけに打ち込み続ける「ラスボス」の凄絶な覚悟の衝突が感動的であると涙しながら凡庸に語ったが、そのような「スタイルウォーズ」がなぜ成立したのかと問えばよい。それは対話によってである。対話がなければ強固な自己といったものも顕現しえない。つまり順序が逆で、強固な人格同士がぶつかり合うのが感動的なのではなく、人格同士が対話してはじめてそれが強固なものに構築されるのだ。

 

 一度まとめておこう。MCバトルの二つの大きな特徴である即興性と対話性はそれぞれえ以下の現象をもたらす。前者においてラッパーの身体性が前景化され、それは固有のオリジナルなものである。後者においては、つまり他者と対面する場では、個別な、唯一のラッパーというものは一度横に置かれて、対話によってどのように変化してゆくかわからない決定不能性をラッパーの像は受け入れなければならないということだ。

 

 では、「CHECK YOUR MIC」の晋平太はどのような場所に立っているのか。つまり、彼はラッパーであるのかバトルMCであるのか。日本語ラップシーンにいるのか、MCバトルシーンにいるのか。そのどちらでもあるのか。やはり、まず目に入るのはポリフォニックな語りである。前述のようにバトルリリックの引用が、声を二重、三重にするが、例えばさらに次のくだり。

 

平成の奴がこれを見て何を思うか 冷静に見れば『口喧嘩マジしょうもな』 

形成は変わる DJの針が飛んだって平然と乗りこなす まるでハリーポッター

(DOTAMAによる台詞:ヒップホップも好きだけどやっぱり映画もいいよね)

これはディスですか? リスペクトは義務ですよね?

ビジネスも好きじゃなきゃ維持は無理ですよね?

 

 晋平太の真骨頂である短い押韻の連なりのスピード感と迫力の中には、複数人の声が共生している。「口喧嘩」とそれへの「平成の奴」の嘲笑、「DJ」の流すビート、DOTAMAの自己引用。さらに続く疑問形の連続。このバースにおいて見られるのはMCバトルにおける対話性が及ぼす偶然的な語りの分裂である。晋平太がMCバトルについて歌うときにきわめて三人称的に語ることは述べたが、ここでは全てを見渡す唯一者としての「神の視点」ではなく、むしろ多数の声そのものとして語っているように思われる。複数の声がMCバトルにおける対話性と綺麗に対応していることは言うまでもない。どちらも、一人称的な語りを揺るがすものであり、語る主体を希薄化するからである。

 

 しかし、晋平太は対話性のみを表現するのではない。フックにおいて強調されるのは、即興が付与するラッパーの身体性だからだ。もう一度引用しよう。

 

CHECK YOUR MIC 利き手で握り締めな CHECK YOUR MIC 唇に近づけな

CHECK YOUR MIC 深く息吸い込みな CHECK YOUR MIC バイブスをぶち込みな

今日勝つために生まれてきた 今日勝つために立ち上がった

今日勝つために負け続けた 俺が晋平太 それがわかるか

 

 このフックの前半部分がR-指定の「刹那」のフックと類似していると上で書いた。しかしいまやその相違点は明らかである。Rが歌うのがもっぱら内面のことであったが、ここで聞く者の目の前に浮かび上がるのはラッパーの「手」「唇」「息」といった身体的なものであるのだ。そして、「俺が晋平太 それがわかるか」と言うときの疑問形が、先ほどの疑問形とまったく性質の異なるものであることも明らかなはずだ。この部分はむしろ反語的に、「晋平太」という存在の一回性、個別性を、マイクに「バイブスをぶち」込めて主張しているのだ。複数の声を取り込んだ楽曲のフック部分において、その語りの形式に反抗するかのように自己の存在を主張するということ。この二つの特徴の齟齬がどこからやってきているのか。言うまでもなく上記のようなMCバトルの身体性と対話性であるのだ。ここまで来ればなぜ「MIC」を「CHECK」しなければならないのかも理解される。マイクがラッパーの身体と言葉の中間に位置するからであり、それと同様にこの曲はMCバトルの身体性と対話性という本質を組み込んだものであるのだ。

 

 つまり、晋平太はどうしようもなくバトルMCなのだ。「フリースタイルダンジョン抜けて参上」といった楽天的な言葉は、晋平太からは決して口にされるはずはなく、ダンジョンの中から声が響いてくるのだ。