韻踏み夫による日本語ラップブログ

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押韻と比喩 KREVA「音色」を添えて

 日本語ラップを好むヘッズたちにもおそらく共有されているであろう素朴な疑問がある。しかし、その疑問に対する答えを探す前に誰もがみなその問題をたいしたことではないとやり過ごすか、あるいはそこで少し立ち止まったとしても答えに向かおうという気持ちすら見せずにそれ指摘するだけでまたそこを通り過ぎてしまう。だが、誰の胸にも等しく引っかかっているであろうその疑問にはとても重大な問題が含まれているかもしれない。

 

 その疑問とは、ラッパーはなぜ比喩を好むのか、というものだ。直喩、隠喩、換喩など比喩の種類を問わず、とにかくラッパーたちは自分を、あるいは他者を、そこにあるものを、何かに喩えずにはいられない。ZEEBRAなら自分のことを「鼻息荒いシマウマ」と言うのだし、彼の相方K DUB SHINEは「渋谷のドン」と、自らを政治的、暴力団的な語彙を使って表現する。般若であれば「チンカス」、MSCは「拡声器」などそのような例を探せばきりがない。

 あるいは、「まるで」「みたいなもんだ」「LIKE A」「並の」といった言葉がラップの歌詞やMCバトルにおいてたびたび、というよりも驚くべき頻度で登場することは誰もがすぐに思い当たる事実であろう。MCニガリに至っては、第七回高校生ラップ選手権のY-HORNET戦で「首の掻っ切り方ならMCニガリここでレクチャー でも暴力とかの話じゃねえ 比喩表現 言葉で叩きのめすぜ」と、バトルにおける武器は「比喩表現」であるとまで言っている。では、それはなぜなのか。

 

 

 さまざまな答えを日本語ラップリスナーや、ラッパー自身が持っているだろう。レトリックとして歌詞に厚みを出すため、言葉遊び的な感覚が比喩という技術とマッチするため、よりものごとをわかりやすく表現するため。もし、このような答えに満足してしまう人がいるとしたら、その考えは浅いと言わねばならない。比喩はもともとレトリックであり、言葉遊びの一種であり、表現をよりわかりやすくするという性質を持っているものであり、だからこの答えは比喩の特質を列挙しただけの言説であり、つまり、比喩が比喩だからラッパーは比喩を多用するのだ、というトートロジーにしかならない。

 

 ではもう一度、なぜラッパーは比喩を使うのか。その答えはほかでもない。ラッパーが押韻をするからである。

 押韻をするから、比喩をする。これは突飛な考えであるかもしれない。だがしかし、これは押韻と比喩について一度考えてみれば明らかなことなのである。話を進める前に、ここで一度なぜラッパーが押韻をするのか、という点をおさらいしておきたい。何度か書いているが、ヒップホップミュージックの基本は反復であり、反復するビートに乗せてラップは歌われる。反復するビートがあるからラッパーは、類似音の反復である押韻をするのである。ということは、押韻はヒップホップミュージックにおいて形式的な必然であり、もし本当に押韻から比喩が要請されているのだとしたら比喩も形式的な必然としてラップの歌詞に現れているのだと言える。このような視座から、押韻と比喩の関係を考えていきたい。

 

 押韻とは類似音の反復だと言ったが、こう言うこともできる。まず第一に踏まれる言葉Aがここにあり、よそからAを踏む言葉Bが連れ出されてくる、と。このとき、思い出してほしいのは前記事で書いた九鬼周造の「偶然性」の理論である。音の類似(それは主に母音の一致であるが)を媒介として、偶然Aに対してBが呼び寄せられる。この瞬間だけに限って言えば、押韻とはまったく音の次元における技術である。つまり、押韻は下のようになるはずである。

 

踏まれる言葉A--音の類似ーー踏む言葉B

 

 もちろん、Bだけにとどまらず、C,D・・・と続いていく場合もあるが、一度の押韻を示すならばこのようになる。九鬼周造は、このAとBを結ぶ音の類似という概念が必然性を欠いた偶然的なものだと述べ、AとBがたまたま並べられたことによって生まれる意味的な関係こそが「押韻の妙味」であるとしたが、復習はこのくらいにしておこう。覚えておいてもらいたいのは、音の類似が二つの言葉を結びつけるのだ、ということである。

 

 では、比喩とはどのような技術であるのか。フランス・ヌーボーロマンと同時代の文芸批評家ジャン・リカルドゥー及び日本における彼の熱心な読者でテクスト論の批評家渡部直己の説明を借りれば、喩えられる言葉Aがここにあり、(意味の次元における)類似という概念を媒介として喩える言葉Bがよそからやってくる。リカルドゥーはここから「構造的比喩」というテクストにおける画期的な技法を見出し、テクスト論的な読みを先鋭化させるのだが、詳しくは『言葉と小説』及び渡部『本気で作家になりたければ漱石に学べ!』に書いてある。話を戻すと、「美人」がここにいるならば、「花」「雪」などの喩える言葉の所在は不明であり、それが類似していれば恣意的にここに連れてきてよいのである。さらに付け加えておけば、佐藤春夫『レトリック感覚』においては、この「類似」という概念自体がかなりあやふやなものであり、極論類似していなくてもよいのだ、ということまで示されているが、これも詳しくは実際に照覧していただきたい。ここで言いたいのは比喩が、押韻と酷似した構造を持った技術だということであり、上記の表にならえばこのようになる。

 

喩えられる言葉A--(意味における)類似ーー喩える言葉B

 

 つまり、言葉をシニフィアンシニフィエ(音と意味)に二分すると、押韻と比喩はそれぞれ表裏の関係にあり、同じ構造を持つ技術なのだということだ。このように考えればラッパーが押韻をするから比喩を多用するのだ、という命題に幾分かの説得力を付与できたはずである。ラップの後ろで鳴る音に要請された押韻という音の技術は、その裏に存在している意味の次元において比喩を要請するのだ。

 

 では、押韻と比喩の二つの技術が実際に使われるラップの言葉はどのような姿を見せるのか。この二つの技術に共通しているのは、「よそ」にある言葉を自在に、恣意的に引き寄せられるという性質である。九鬼風に言うならばもちろん偶然的な言葉の結びつきによって歌詞が作られていることになる。ラッパーは自在に「よそ」から言葉を持ってくる。少し前に、ラッパーの語彙を比較した記事(The Largest Vocabulary in Hip Hop)があったが、このような膨大な語彙を使うのは今見た二つの技術の性質と関係しているのである。また、押韻主義的なバトルMCの代表格チプルソはインタビュー(http://freestylemcbattle.jimdo.com/sp-interview/vol-4-%E3%83%81%E3%83%97%E3%83%AB%E3%82%BD/)で、フリースタイルの練習をやりすぎたため、「”喫煙禁止”…とか、”唐揚げ”…とか、踏みたくなるんですよ。しかも今言った”踏みたくなる”でももう頭の中で踏んでるんですよ(笑)」と述べ、押韻の持つ言葉の大きな接続性を証言しくれてもいる。

 

 この接続性こそが押韻と比喩が持つもっとも注目すべき特徴であり、ラップが言葉遊び的といわれるのも、ほとんど無限だと言える接続性が「偶然性」を持つものだからである。日本語ラップの言葉の、ある種のずれや不自然さをはらんだ独自性の一因もおそらくはこの問題と絡んでいるだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ここまで、押韻と比喩の関係を見てきたわけだが、そのことに深い自覚から作られた名曲が日本語ラップにはある。その歌を仔細に見てみようと思う。

 

 愛してんぜ音色 はまっちまったよまるで迷路

 

 KREVAの「音色」の歌いだしは、押韻と比喩を二重にした言葉で始まる。「音色」と「迷路」の二つの言葉は押韻されながら、同時に比喩の関係にある。

 

 何をしてみても無駄な抵抗 お前がいつでもおれをKO

 

 続くこの部分にあっては、さらに「KO」という格闘技に使われる用語へと「音色」という愛の対象は接続されている。これらは先に見た押韻と比喩における言葉の開放的、誘致的な性質を示していると言えるだろう。

 

 影響あたえてくれよいつだって 刺激的でいて俺が死ぬまで

 間違いない 間違いない 今すぐに交わりたい MY BABY

 永遠を信じたくなる お前の声聞きゃ心が休まる

 まあ時に揺さぶる激しく 手を伸ばしてもすり抜け投げKISS

 無理でもいいんだ教えて全部 感じていたい耳元で年中

 AND YOU DON’T STOP

 おれだけのモンになんないってのはわかってんだけども

 

 この歌の主題は「音色」への愛である。語り手は「音色」への熱狂的な愛を持ち、すぐにでも接触したいのだと強く願っている。この強い愛情の対象は、受動的な語り手に大きな「影響」を与え続け、時には安堵、時には動揺させるのだが、接触への欲望は裏切られ、彼の手を「すり抜け」ていってしまう。語り手の持つ欲望は全体性へと向けられているのであり、「全部」「年中」といった言葉から明らかなように「音色」の全てを触知し、常に自らの近くに置いておきたいという空間的、時間的、身体的、精神的なそれらすべてにおいて所有したいのだと言っている。だが、それはかなわぬ願いであり、「音色」という愛の対象は常に接触不可能であり、一瞬しか姿を現さず、空間的に把握するのが困難である。

 と、こう馬鹿正直に歌詞の内容を追ってみたがこれでは何も掴めない。みながおそらく知っているようにこの曲は普通の意味でのラブソングではない。「音色」は魅力的だがつかみどころのない女性であるかのように描かれているが、それは文字通り「音色」なのであり、つまりこれは一面では語り手の音楽愛をうたった歌なのである。このことは、サンプリング元の曲名が「SOUNDS LIKE A LOVESONG」というものであることからも明らかであり、この歌詞はまさにあたかも「ラブソングに聞こえる」ように書かれているのである。もちろん、「音色」という名前の女性であると考えることもできるが、これが人物であるのか音楽であるのかを特定することはできない。

 ここで判明したのは、この曲全体が比喩=アレゴリーだということであり、まず大きな枠組みとして音楽と女性が比喩の関係にあり、さらに具体的な歌詞の中にも比喩が頻出しているという二重の構造である。

 

 

 愛してんぜ音色 毎日毎晩お前とデート

 暖かく包むまるで毛糸 次々に湧き出るイメージ映像

 いつでもどんなシチュエーションにもすぐに馴染んでいくでしょ不思議

 お前みたいな奴は全然いない 変幻自在 MY BABY

 

 ここにおいてもまた「まるで毛糸」という比喩が押韻と同時になされている。だが、重要なのは今見たこの曲のアレゴリーとしての構造が「毎日毎晩お前とデート」というような言葉をさえ比喩にしてしまう事態である。つまり、「音色」を女性であるとすればこれは単に事実を述べただけだが、それを文字通りの意味として、つまり音楽としてとるならば、この文章は音楽を聴きながら町を歩いたりドライブすることの比喩としての働きを持つようになる。比喩か比喩でないか、つまり「音色」は女か音楽かを特定することはできない。アレゴリーと比喩という二重の構造によってこの曲を聞く者は、語り手と同様この曲の歌詞に「投げKISS」をくらわされるのだ。

 

 まるで円盤に乗った宇宙人 気がつきゃ夢中になって

 お前にだけは悩み事も硬いことも話しておこう、って思う

 完全にお前に依存症 日本語英語何語でもいい

 聞かせて 愛のメモリー満たして

 

 この「円盤に乗った宇宙人」という歌詞に至ってはかなり意図的にアレゴリカルな面を強調している。宇宙人は円盤に乗ったものであり、語り手にとっての「音色」と同様理解不可能な典型的な他者であるかもしれないが、「円盤」にはさらにレコードの比喩としての働きが同時に込められる可能性がある。しかし「円盤」は単に「音色」を比喩する「宇宙人」の乗り物としての働きしかないかもしれない。 

 このような錯綜はしかし、アレゴリーの下位にあるひとつひとつの比喩の次元においても現れてくる。つまり、「毛糸」「迷路」「KO」といった語彙論的にバラバラな言葉たちが「音色」という同一対象に向かって結び付けられており、このような不整合は普通ならばできの悪い文章とみなされてしまう。先に参照した渡部直己は、二葉亭四迷の『浮雲』のヒロインお勢の描写において野菜や貝類、魚類が当てられるような比喩の乱用を指摘している。簡単に言えば、指が白魚で時にサザエのように態度が小さくなり、大根のように白い女の姿を想像してみよ、ということだ。この歌詞においても同様に比喩の乱用が行われているが、ここにおいてそれはきわめて意図的になされたものであり、正当なものであり、むしろ優れた比喩の用い方をしている。なぜなら「音色」が音楽であれ女性であれ、それは「変幻自在」なのであり、対象が非定立的、非統合的なものであるから、比喩が統一されていないのは当然だからだ。この不整合はもちろんアレゴリーと深く関係しており、音楽か女性かという二者択一の不可能性による揺らぎがこの比喩の乱用=比喩の対象の分裂を規定しているのだといえる。あるいは、音楽でも女性でも「音色」がつかみどころのないものであるのと同じように、この歌詞の意味をひとつに特定しようとすれば言葉の意味はアレゴリカルに逃げてしまう、とも言えるだろう。このような揺らぎは、押韻と結び付けて考えればさらに正当性を持つものとなる。なぜなら、押韻によって結びつく言葉には必然的な関係が皆無だからである。偶然性とはつまり必然性がないことであり、「音色」が音楽でも女性でもあるという構造は非必然的=偶然なのであり、そのような揺らぎが個々の比喩の不整合へと波及しているのだ。

KREVAのこの曲はビートの反復→押韻→比喩、と私が進めてきたような考察を、それとは比較にならぬほど、クレバーな手つきで魅力的に表現しているのだ。例えば、アレゴリーを用いた楽曲の例としてCHEHON「みどり」などがあるが、比喩と押韻をそこに絡め、歌詞の内容においてもそれを反映しているこの曲のほうが深い洞察を見せている点で勝っているだろう。

 

 この記事では押韻と比喩については、構造が酷似しているということを述べたにとどまっており、「なぜラッパーは比喩を好むのか」という問いへの完全な答えとしては不十分であるかもしれない。ここで示せたのは押韻の偶然性を、接続性、誘致性というものに換言することができるということだけであり、「音色」の歌詞を見て分かったことも押韻の偶然性がそこでは比喩の乱用、アレゴリーという技法と、愛の対象に恋焦がれる語り手という主題に結びつけられているという点だけである。今のところこれ以上私は押韻と比喩についての考えを進めるつもりはなく、よろしく読者諸氏の批判、検討、発展を仰ぎたいところである。