韻踏み夫による日本語ラップブログ

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ライムタイプ研究への批判 

ネット上に、ライムタイプという研究についての記事(
ライムタイプ—押韻の分類 / the 8 rise | Music Theory Workshop Japan
)が上がっており、それがどうやら重宝がられているようだ。だが、押韻するときの母音と子音の一致する音数によってそれぞれパーフェクトライム、ファミリーライムなど五つの分類を行ったこれは率直に言ってほとんど役に立たないことは明らかである。なぜなら、この研究には決定的な欠陥があるからだ。それは、押韻という技術の本質についての誤解、あるいは認識不足である。
このライムタイプの分類は、押韻が単なる音の類似であることを前提としてなされているが、そこが間違っているのである。押韻は音と意味(ソシュールでいうならばシニフィアンシニフィエ)の両面に渡る技術なのである。この視点が抜け落ちている限り押韻について有益な研究にはなりえない。
例えば、押韻が根付いていない日本においても、押韻のこの本質はすでに明らかにされていた。「日本詩の押韻」を書いた哲学者九鬼周造は、その中で、「種類の少ない品詞相互間」の押韻では偶然性が低く「押韻の妙味」が現れることはないといっている。つまりこれは日本語の文法上、文末に助詞、助動詞が来るため脚韻が困難であるという問題に関係することであるが、例えば「です」「してる」というような「種類の少ない品詞相互間」の押韻より、「熱」「ケツ」といった種類の多い品詞相互間の押韻の方がよりよく聞こえるということをいっているのである。
では、それはなぜであろうか。なぜ助詞、助動詞間の押韻は単調で名詞や形容詞ではそうではないのか。このことは音の観点からだけでは説明がつかない。九鬼は、音と意味の二項の弁証法的な関係から「押韻の妙味」が発することを正しく見抜いていた。九鬼哲学の最大の問題である「偶然性」が押韻のこの謎をとく鍵である。九鬼が哲学者であるのに押韻という詩の技法に執着したのもそれが理由である。つまり、音が「たまたま」似ているというだけで言葉が並置されること。押韻とは偶然の書法であるとも言えるのだが、九鬼によれば「偶然とは必然の否定である」。ここで九鬼の哲学に深く立ち入ることはしないが、押韻において否定された必然とは、論理性である。つまり、「です」「してる」には否定されべき必然性=意味が少ないため偶然性が低いが、「熱」「ケツ」は否定されるべき意味がより多いため偶然性が高いのである。あるいは「熱」「ケツ」よりも「将来へ全力投球」「懲戒免職処分」の方がよい押韻であるのは、音が長いため偶然性が後者では高くなるからである。論理的なものは必然であり、論理的な文章では必然的な言葉が連なって行く。だが、押韻においては、Aのあとに続くBの言葉の出自は、音の類似という偶然性である。そこに必然なものはない。1+1のあとに2が来るのは必然であるが、「ひきわり納豆」の後に「右ラリアット」が来ることにはなんら必然性が無い。
 論理性=意味=必然を否定する音の偶然。しかし、だからといって押韻において意味=必然性がまったく排除されているのかと言えばそうではない。九鬼はこのようにも言っている。「邂逅の瞬間において離接肢の多義性に一義的決定をもたらすのである」。偶然出会った二つの言葉は、たまたまその二つなのであり、「立ち往生」のあとには「末期症状」が来ても、来なくてもいいわけだし、その後に「チャンピオンロード」が続いても、「あっちの方」でもいいのである。なぜなら、続く言葉を規定する必然性が押韻においては否定されているからである。これが「離接肢の多義性」=「偶然性」であるのだが、これに「一義的決定」を与えるのだというのはどういうことだろうか。「詰まっちゃって立ち往生 俺ならマイクロフォンの末期症状 気づけば後ろにチャンピオンロード」というラインが素晴らしい出来であったのは、この言葉が吐かれるすぐ前にMCバトルの相手が本当に言葉に詰まり「立ち往生」しているようであったからであり、その場に「末期症状」という歌をうたったZEEBRAがいたからであり、この言葉を言っているR-指定というラッパーがUMBという日本最大のMCバトルで三連覇をしたという経歴を持っており「チャンピオンロード」をまさに歩いていたからである。つまり、偶然的な関係しか持たない押韻に、そのこととは別の次元において「必然」的な体系が垣間見えたとき、「押韻の妙味」が発揮されるのだ。このことは、日本語ラップの語彙であれば「意味を通しながら韻を踏む」ということになる。
 このような押韻における偶然性と必然性は、押韻する=音の似ている二語の間に何らかの意味的な関係が生まれると言い換えてもよい。それはさまざまな様相を見せる。例えばこのブログでも前に書いたが、「せいぜいスキル磨きなめいめい 覚悟決めんのはお前だKJ」という押韻では、「めいめい」=不特定多数、「KJ」=特定個人という対立の関係であるが、「愛してんぜ音色 はまっちまったよまるで迷路」という押韻に付与されているのは比喩の関係である。偶然並べられた言葉の間に欠けている必然性には、一方で対立や比喩などさまざまな関係が代入されるのだと言えばよいだろうか。
 このような観点から見れば、押韻がファミリーライムであろうが、パーフェクトライムであろうがまったく関係ない。逆にこのことにとらわれ過ぎては、この珠玉の押韻の本質を見失うことになる。NITRO MICROPHONE UNDERGROUNDのクラシック「STILL SHININ'」のDABOのバース。「点検中」「連戦中」「伝染中」「経験中」「厳選中」「連結中」という押韻が続くのだが、見てすぐに分かるように、漢熟語二文字と「中」、という同じ形式の言葉であり、ともすれば単調な押韻である。九鬼の言葉で言えばこれらは偶然性の低い押韻となる。このような単調さに耐えた後のこの押韻は誰の耳にも新鮮なものに聞こえるはずであろう。「まさにCHAIN REACTION PLATINUM MADE やめとけ小僧共 不埒な無礼」。ここまで漢熟語で押韻されていたのに、ここではその流れが断ち切られ、英語と、耳慣れない日本語で押韻されているのである。このバースを聞くときに、「伝染」と「経験」のIとN音の差異などまったく問題にならない。漢熟語と英語、日本語の対照が重要なのである。
 あるいは、「ここは俺の奢りだたらふく食え 高括れ じゃなきゃ高くつくぜ」(漢「I'm a ¥Plnt」)という押韻を聞く上で必要なのは細かな音韻上の分類ではなく、押韻されながら「高」の同じ言葉が対置されているという事実であり、それで十分なのである。「高括る」と「高く付く」というかなり音の上で似た言葉が「じゃなきゃ」という逆接でつながれていることがここに施された詩的な技巧なのである。

 取るに足らない細かな差異をさも重要なものであるかのように見せるこの種の研究は確かに物珍しくはあるかもしれないが、実際に押韻された詩を見るときには無益なものである。もし、反論があるならば実際にこの分類を応用実践した文章を読んでみたいものである。ツイッターファレル・ウィリアムスの「HAPPY」の韻を分類していたようだが、だから何なのか、と聞きたい。togetter.com

 私が批判したいのは、これが押韻の伝統がある欧米の研究であるという下らない権威主義から、日本の押韻の研究が遅れていると言う端的な間違いについてであり、すでに日本語ラップファンならみな、今私が書いたようなことを、言葉として意識せずとも理解して「押韻の妙味」を味わっているのである。日本語ラップにアカデミックな視点が欠けているからといって、このようなつまらない研究をありがたがることがないように願う。それは作家だからといってLilyがフリースタイルダンジョンの審査員を務めていることにも言える。はっきり言ってバトルの寸評を聞く限り彼女が真に言葉と言うものを理解しているとは思えないし、そのことを作家だからというような論理で擁護する正当性はまったくない。彼女の文章の何倍もその場のバトルで吐かれた言葉は文学的である。日本語ラップをさらに全国区的なものへ普及しようとすることには賛成だが、権威にこびることは不必要であるとここに断言しておきたい。