韻踏み夫による日本語ラップブログ

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「AREA AREA」について レペゼンとRE=PRESENT 東京と横浜

 日本語ラップは、2000年初頭にほぼ全国区的な人気を博すことになるのだが、そのような兆候が共有され始めていた2001年にOZROZAURUSの『ROLLIN’ 045』が発売された。題名に神奈川県横浜市の市外局番を入れていることから明らかなように、このアルバムは「横浜レペゼン」を大々的に謳った作品である。日本語ラップにおいてレペゼンという行為はいわゆる「78年式」のラッパーたちによって一般的なものとなったことは周知のとおりである(名古屋、大阪、三軒茶屋、新宿)。OZROZAURUSもその例に漏れないわけだが、このアルバムに収録されている「AREA AREA」はその中でも珠玉の出来となっており、日本語ラップのクラシックとして認知されている。

 

 少し遠回りをして「レペゼン」という概念について考えてみよう。レペゼンとは言うまでもなく「REPRESENT」という英語が黒人訛りになったのをカタカナで表記しているものである。代理、表象、代行などといった意味であるが、ヒップホップの文脈では地元を代表する、地元に根ざしている、といった意味になる。有名な例ではN.W.Aのコンプトン、JAY-Zのブルックリン、EMINEMデトロイトなどがあり、日本においてレペゼンの先駆となったのはTHE BLUE HERBの札幌である。では、なぜラッパーはレペゼンをするのか。世話になった地元に恩返しをするため、地元の仲間たちを背負っているからなどといったことが言われる。これらに一理があるとすれば、それはラッパーたちが所属するストリートというコミュニティの都合上、レペゼンをしなければならない、した方がよいという事情は考えられる。そのような見方は、ある程度の説得力を持っていることは確かである。だが、リスナーにはほとんどそのような裏事情はまったく感知せずともよい事柄であるし、レペゼンという行為にはもっと重要な意義がある。

 レペゼンを日本語ラップに持ち込んだのがTBHであるということは述べた。ではなぜ彼らは「北海道札幌」をレペゼンする必要があったのか。それは周知の通り、彼らが東京中心主義への厳しい批判を投げつけたかったからである。彼ら以前には地方をレペゼンすることなど考えられなかった。東京が特別なものであることも、地方が特別であることもなかった。ラップをする場所は東京であり、それはあまりに自明なことで疑いを入れる余地などなかった。例えば、そのようなことを端的に示す例としてTWIGYYOU THE ROCK☆を思い出してみればよい。それぞれ名古屋、長野の出身だが両者ともに地元をレペゼンなどせず、上京してラップをしたのである。もちろん、地方出身者が上京したという経歴は彼ら自身にとっても大きな出来事であったかもしれないが、78年組のラッパーたちがレペゼンするような意味での地元ではなかったのである。だから「証言の続きが聞きたい 東京への用件はわずかそれぐらい」というBOSSの批判は地方出身である二人にも妥当するものだったのである。TBHが東京を批判したことが大きな転換点となりえたのは、そこで初めて「東京」が特別なものになったのであり、さらにそこから「地元」というトポスが発見されたからである。つまり、「こっち」と「あっち」という二分法が成立したのである。「東京」にとっての他者が始めて現れたのだ、と言い換えることも出来るだろう。

 TBHのファーストアルバムが出たのが1999年であるから、OZROZASURUSは言うまでもなくその系譜にあたる。このような歴史の流れから見ると、クラシック「AREA AREA」はレペゼンという行為を新たな次元へ引き上げたのだといえる。

 

 

 

 約何年経ったろう 東京よりやや西

潮の吹く港から おれもやったろう

 

 この、有名な歌いだしで注意すべきなのは、時間と空間に対する微妙な感覚である。〈あの頃〉から何年経ったのかではなく「約何年」の時間的な距離があるのかを知りたがっているのであるし、彼はまた「東京」の西側ではなく、「やや西」にいるのである。ここで提起されているのは、「約何年」か前の時点と今の距離、「東京」とそこから「やや」離れた西のある場所との距離の問題である。

 

 ただマイク握りたいばっかの14,5,6,7

 今に至ってもおれは変わらずやってる

 ただしでも状況は前に進んでる 確かだ

 

 「おれもやったろう」と決意した<あの日>から、「おれ」は「14,5,6,7 今」と年齢を重ねた。前の引用部では今述べたように「約」「やや」とおおまかな感覚で距離は計られていたが、ここでは具体的に、より正確に、彼の加齢の過程をわざわざ列挙している。そして、「今」へと至る。この二つの感覚の間の齟齬は、時間の計り方の基点の違いと結びつけて考えることが出来る。つまり、歌いだしにおいて、彼は想起しているのであり、基点は「今」にあり、そこから過去へ遡って時間を計ろうとしていた。だが、ここでは、遡った過去から「今」へと時間を追っているのである。ラッパーとしての誕生の時まで遡り、そこから現在へと再帰してみてわかったこと、それは「変わらず」にいるということである。彼は今も昔も「マイク」を「握りたい」だけなのだということである。これを初期衝動を忘れずに熱い気持ちでラップに打ち込む姿、などに還元してはいけない。重要なのはそのような歌い手の姿が、奇妙な時間への感覚によって初めて見出されたという過程なのである。

 今も昔も変わらないが、しかし「状況は前へ進んでる」というとき、明らかにされるのは、歌い手主体の中の時間と、その外部にある「状況」という二つの異なる時間である。歌い手は「変わらず」にいるのに、外部は「進んでる」のである。

 

 PMXのバックトラックに乗せて初めてしたRAP

 変わってるものそういえば建ってるビルやら時代の背景

 

 ここでも先ほどと同様に、「おれ」の変わりなさと、周囲の変わりやすさが対置されている。だが、ここで一つ示唆的なのは「バックトラック」と「時代の背景」という二つの言葉である。「バック」で鳴るビートに乗せるラップと、個人の「背景」にある「時代」という二つのものが似たものとして描かれているのである。

 

 俺の中の自分分かってる 再現するため戦ってる

 前へ毎日毎月毎年 錆びた方位磁石など使えねえ

 

 ここできちんと聞き拾うべきは、「俺の中の自分」を「再現する」ということである。再現を英語にすれば言うまでもなくRepresentになるが、この「再現」は「前へ」進んでいく動的な過程で実現されるものなのであり、「毎日毎月毎年」という表現が「14、5、6,7」という計数的な表現と地続きになっていることも重要なポイントであろう。ここで謳われている錯綜した時間を一度まとめておくと、まず現在から「約何年」か前のラップを始めた時点にまで遡行し、そこから重ねてきた年月を計数的に追って、現在の「俺」に戻ってくると、「俺」はさらに「俺の中の自分」と二重化され、その統一のために「前へ」進んでいくのである。だが、この時間の移動は「方位磁石」という道具が登場したこの瞬間に空間的なものと結び付けられることになる。

 

 時間が過ぎてくこと確か 俺なりの言葉しか

 本物なやつは認めねえだろ だって宇宙で俺は俺だけだしな

 視点上げりゃ日本アジア東洋西洋 元は一つの島

 昔からのことを詰めた歌詞が 今じゃ内も外も踊らした

 

 自己の中の自己を「再現」するために必要な「俺なりの言葉」。ここでも注意を喚起しておく必要があるかと思うが、これは単にアイデンティティの話をしているのではない。それが、奇妙に歪んだ時間と空間への感覚とともに語られていることこそ重要なのだ。「時間が過ぎてく」こと、つまり時間のとりとめのなさが「確か」なものであるならば、自己というものもそのような不安定であることの「確か」さへ向かうのである。そして今度は空間の不確かさに言及するのだ。「日本アジア東洋西洋」というこの表現がすでに指摘した計数的な言述と似通っていることに気がつくべきである。つまり、時間を計数的に把握するときに、現在から過去、未来へと時間は伸びていった。空間への感覚はこの時間へのそれとほぼ同じものであり、〈いま〉の代わりに〈ここ〉から、まず「宇宙」へと「視点」をおおまかに上昇させ、再び「日本」に戻りさらに徐々に範囲を拡大しているのだ。このような時間と空間への一貫した把握の仕方が、時間と空間を統合して見るという姿勢へつながることはむしろ自然なことだろう。つまり、「東洋」=ここも「西洋」=他所も、時間を遡れば同じ一つの空間であったと歌うことは、時間を巻き戻すことで、空間も大移動するという事態を描いているのである。だから、「俺なりの言葉」という命題は「昔からのことを詰めた歌詞」だと換言されるのであり、それは「内も外も」関係なく響くのである。

 

 力のある者が強いなら 俺はビートに舌転がした

 KOOLな風が吹く HOTな風が吹く 不思議な風が吹く

 

 「力のある者」を横目に見ながら「ビート」の上でラップをするという行為は、「建ってるビルやら時代の背景」が変わっていく中での「俺」の変わりなさを変奏したものであるが、そのときにさまざまな「風が吹く」と言う。この歌詞が美しいものだとするならば、この「風」が現実的な時間も、空間をも越えて吹き抜けていくからであろう。

 

 ここからそこAREAからAREA

 そこからここAREAからAREA

 内から外AREAからAREA

 外から内AREAからAREA

 

 「ここ」も「そこ」も、「内」も「外」も、自在に越境する「俺なりの言葉」。

 もちろんこれは冒頭で論じた「レペゼン」の問題と密接な関係にある。ここでMACCHOが試みているのは、単に地元を「レペゼン」することではない。むしろ決定的に他のラッパーと違っているのは、「レペゼン」というヒップホップスラングを「RE=PRESENT」(再=現在、現前)という時間的な原義に立ち戻らせ、そこに自己というものをぶつけてきたことにある。だからこのように時間と空間と自己という主題について歌っているのである。

 

 〈いま・ここ〉から主体がずれたとき、そのずれは際限なく広がっていく。このズレを引き起こしたのがTBHならば、「東京よりやや西」からこのような言葉が歌われることは歴史的な必然であったのかもしれない。「レペゼン」ということを考えるときに、このクラシックは中心的な問題を取り扱っているのであり、誰もが一度はこのことについて考えるべきだろう。