韻踏み夫による日本語ラップブログ

日本語ラップについて Twitter @rhyminaiueo

MC漢について

 漢 aka GAMIの「ヒップホップ・ドリーム」を再読し、ツイッターを見ていたら、あゆみBOOKS小石川店のアカウントがこの本を紹介しているツイートに当たり、思わず膝を打ってしまった。

 

 

 

 

 なぜ、このツイートが、ほかのしっかりとした紹介文、書評などとは比にもならないくらい私の目を引いたかといえば、「何食わぬ顔してるならず者」のこの歌詞を引用するセンスというか、感覚に深く共感を覚えるからだ。

 

 それが、どのような感覚であるか。それは日本語ラップのみならず、ヒップホップの最重要概念である「リアル」の一語に対する感覚である。このなんともあいまいな言葉をめぐってさまざまな言説が生まれたのだが、日本語ラップにおける「リアル」を、もっとも明確かつ魅惑的に定義したのがMC漢であるというのが私見である。

 

 だが、その前にまずはMC漢のラップを仔細に見てみよう。

 

 「俺の身勝手なリスナーやファンたちはナンセンスなファンタジーじゃ半勃ちもしねえ」という鮮烈な歌いだしで「何食わぬ顔してるならず者」は始まる。「ナンセンスなファンタジー」を厳しく批判しているこの日本語ラップ屈指のパンチラインは、複雑な押韻が仕掛けられている。一応説明しておくなら、「ファン」「ナン」「ファン」「半」の音が連続的に押韻されながら、「勝手」と「ナンセンス」、「ファンタジー」と「半勃ち」がそれぞれ結び合わされている。ただ、これを「超絶技巧」などと誉めそやしては、ことの本質を見落とすので、この歌いだしが複雑な押韻を行いつつ、「ファンタジー」=虚構を批判していることの二点だけを銘記しておこう。

 

 善と悪の二元論は机上の空論であり、現実世界ではそれらは明確に定義できず、グレイゾーンが支配しているのだというようなことを言う人がよくいる。一見するとこの曲でMC漢はそのような人生訓を歌っているかに思える。現実と虚構、「本音と建前」などの二元論、二項対立を列挙的に語り、グレイゾーンとしてある現実を描写しているかに見える。

 ここで、日本語ラップにまつわる「2」という数字について少し補足しておきたい。ヒップホップの音楽性の最大の特徴は反復である。同じビートの小節が周期的に反復する。それに乗せてラッパーはラップをするが、ラッパーは反復する小節に合わせて言葉を反復させる。ラッパーが行う言葉の反復とは、押韻に他ならない。押韻とは類似音の反復であるからだ。ではここで反復はいかにして成立するのかと問えば、その答えがすなわち「2」という数字に他ならない。たった一つの言葉では押韻ができないということは小学生にでも理解できる。つまり、ヒップホップの基数となるのが「2」なのである。

 「2」とは、規則である。しかし、芸術においては規則は破られなければならない。キングギドラが示した「2」を乗り越えるためにTHE BLUE HERBは、ラップの文法を破壊するように、言葉の洪水の中に押韻を散りばめたのであった。

 

 では、この曲でMC漢は「現実」と「虚構」の「2」に向けて何を企てるのか。

 

 「二十歳になっても葉っぱは吸わねえ」ってほざいてても

 二、三年もたてば立派な売人 ほらね

 

 麻薬に手を出さないなどといった「理想論」=虚構は、ストリート=現実の前に崩れ去る。ただ、注目すべきはむしろ、「二、三年」の月日の経過を歌詞に挿入し、単に「吸わない」どころか、「立派な売人」にまでなってしまったという変化を描いたことである。初めにあった「葉っぱは吸わなねえ」という理想に、「現実」がぶつかることで、「売人」になってしまうという変化。ここで書き表されているのは、「2」が次なる「1」を生成する、あるいは「1」に変化するという過程である。この過程はこのように反復される。

 

 内面 実体験 これで何本目のボールペン 悩んでたって何も始まんねえ 

 絶望感に浸ってひざまづく前に開き直る お前の求めてるリアルが今ここにある

 

 インクが切れたのか、筆圧にペンが折れてしまうのか、何度もボールペンを取り替えながら言葉を書き綴るとき、「内面」と「実体験」が混交する場所が生まれる。「ボールペン」は「実体験」により作られた「内面」を外部へと言葉を媒介にして放出するが、その書くという行為は「実体験」に他ならず、そのときに生まれた言葉は再び誰かの「内面」へと宿る。続く「絶望感」という「内面」が引き起こす「ひざまづく」という行為=「実体験」は、「開き直る」こと、つまり「内面」へと再び送り返される。このような変転のあとにMC漢は、「リアル」は「今ここ」のことであると宣言する。

 

 「内面」「実体験」「言葉」の「3」つの位階=異界が相互に干渉しあい、混交する場所がリアルなのであり、それが「二」元論を相対化する。物語内容の次元においてこのように言えるのだが、それは物語言説の次元とも深く関っている。つまり、押韻において「2」が基数なのであり、小節の「脚」で韻を踏むというもっとも素朴だが強固な形式に対し、「浸る」「ひざまづく」「開き直る」の三度の頭韻によって、「2」を支配する脚韻から逃走することに成功している。

 

 あるいは、この歌詞。「MCバトルだってそう 町の喧嘩だってそう 楽勝で圧勝かクソったれな畜生」。二元論を肯定するのでもなく、それを単に否定するのでもない。二元論を支える第三項の存在への懐疑を差し挟む事によってそれを揺るがそうと試みる。この言葉がが勝ちか負けかの二元論的思考によって書かれたのでないことは明らかである。「楽勝で圧勝かくそったれな敗者」と歌わずに、「くそったれな畜生」と歌うこと。「○○か□□」という二元論的思考の形式をあえて採用しながら、そこに「勝ったとしてもどうせ畜生ではないか」という懐疑を差し挟むという戦略的な相対化。

 このような方法は、漢が般若とともにMCバトルで押韻主義を否定したときにも使ったことがある。「CHECK CHECK ONE,TWO 着々ライム書く なんて簡単な韻は誰にでも踏めるんだ」(BBP2002 決勝)。押韻という形式を借りて、押韻を否定すること。形式と内容性、内容の形式性の一致を崩壊させるようなこの戦略は意図的なものであり、それが何を意図するかといえば押韻(脚韻)の制度からの、「2」からの脱走である。

 「アウト・ロー」、規範の外に出ること。「新宿アウトロー」を自称する彼は、歌詞の面においても規範の外にある。MC漢の「リアル」が他を圧倒して人の心をひきつけるのは、内容においてはそれが複雑な生成変化の過程の描写だからであり、形式においてはその複雑な描写対象と相即した複雑な押韻(頭韻)であり、描写されるのが「新宿アウトロー」であるならば、ラップの規則=脚韻の「外」にいる。

 

 種も仕掛けもある言葉のマジシャン

 

 こうも自称する彼は、さながらマジシャンのように「リアル」を創造する。「リアル」とは現実と虚構が入り混じった「言葉」に他ならない。このことが漢のラップの最大の魅力であると信じて疑わない。