韻踏み夫による日本語ラップブログ

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晋平太について MCバトルという形式と「CHECK YOUR MIC」

 日本におけるMCバトルで特権的な立ち居地にある一人のラッパーは誰であろうか。史上最強であろうR-指定、それともR-指定と同じく日本一に三度輝きその後の活躍も華々しいKREVAか。あるいは、UMBという日本最大のMCバトルを創始し、自らもMCバトルの伝説的な存在であるMC漢か、バトルにカムバックするたび毎に奇跡的な試合を演じてみせる般若か。HIDADDY、鎮座DOPENESSその他いくらでも名前を挙げることができよう。しかし、晋平太というラッパーに比肩しうる者はいないのである。

 なにも晋平太を褒めることが目的ではない。UMB二連覇をはじめ、数々の語り継がれるバトルを繰り広げたことは周知の通りで、ここで改めて言う必要もあるまい。晋平太が特権的であるのは、彼が日本で、もしかすると世界ではじめての「バトルMC」という存在を引き受けたからである。

 

【コラム】「MCバトルはもう終わったのか?これから始まるのか?」 #せんごく松 #UMB松|YOFKASHI

 

 幸いにも、バトルシーンの内部からこのような優れた文章が提示されている。MC松島のこの議論が重要なのは、日本語ラップというカテゴリの中の一要素であったMCバトルが、いつのまにかそれから独立した文化圏を持つようになったという指摘である。そしてそのことを体現しているのが晋平太というラッパーであるというのだ。

 例えば、試合中に試合の外部に言及するとき、その外部が日本語ラップの文化圏を指すのか、MCバトルシーンを指すのかということを比較してみればよい。「ZEEBRAもKREVAも童子ーTも出ねえ」と言った2008年の般若は日本語ラップとMCバトルの包含関係が保持されていることを示している。しかし、「一言目なんて言おうかずっと考えてたでも今分かった おれがただいまだからお帰りで返せ」というとき、試合の外部として想定されているのは、UMBで司会をしていたためバトルへの出場を中断していた、かつてのUMB二連覇チャンピオンである晋平太なのだ。MCバトルと日本語ラップの切断、あるいはMCバトルの自閉である。このことは皮肉にも、晋平太自身が楽曲の中で喜々として証言している通りである。「MCバトルはドラマになった」。

 

 晋平太とそれ以前のラッパーを比較してみたが、どうやら晋平太が歴史を変えたというわけではなさそうである。晋平太はそれ以後のラッパーと比較しても特異なのだ。晋平太の次の代表的なバトルMCであるR-指定を見てみよう。確かに彼は圧倒的な強さを誇っていて、晋平太の二連覇を超えるUMB三連覇を果たしているし、晋平太自身かつて一度勝利しているとはいえ、MCバトルをリードするのはR-指定だと何度も言っている。だが、晋平太の特異さはR-指定の存在によって軽減されはせず、むしろ際立つようなのだ。二人が音源においてMCバトルを主題にするときに、大きな相違があらわれることになる。R-指定の「刹那」も、晋平太の「CHECK YOUR MIC」のそれぞれのフックは確かに類似しているように見える。

 

何もよけるな 何も恐れるな 何もためらうな 何も恥らうな

何者ですらない 何を見て何を思う この刹那

 

CHECK YOUR MIC 利き手で握り締めな CHECK YOUR MIC 唇に近づけな

CHECK YOUR MIC 深く息吸い込みな CHECK YOUR MIC バイブスをぶち込みな

 

それぞれ、バトルMCらしく即興という偶然性の支配する磁場へ向かうときの緊迫した状況を描写している。しかし、第一の重要な相違点は、R-指定がきわめて一人称的に個人の心情を吐露しているのに対して、晋平太の方では三人称的な視点から歌われているということである。R-指定のこのフックにおいて禁止を呼びかけるのは自分自身に対してであるが、晋平太はこれからバトルに立とうとする他者に向けて呼びかけている。「FREESTYLE GOD」と称されることもある晋平太だが、その名にたがわず「神の視点」からMCバトルを見渡しているのである。そうでなければ、「M.B.H」と言ってバトルの歴史を語るということが他の誰に許されるだろうか。

 さて、この「CHECK YOUR MIC」の第一の特徴はバトルリリックの引用の豊富さであることは一聴明らかなことである。「刹那」においても、「ワンハネハネ?」というバトルリリックからの引用が見られるが、それはすぐさま「こちとら3ハネハネ」と歌い手に収斂される。晋平太のこの曲が特異なものであるのは、晋平太自身を含めた複数のラッパーたちのバトルにおけるパンチラインをサンプリングすることで、語り手の立ち位置や声が希薄になっていくからであり、しかしだからといってポリフォニックだとは言えずむしろ自閉的な症候とも見えるものであり、また同時にきわめて苛烈な自負が押し出されているようにも考えられるからである。

 

 そもそも、バトルリリックの引用は、ただの引用とは異なる様相を示す。「二軍だった奴が今じゃ一軍」というサンプリングにおいて聞き手が想起するのはそれをそれを言ったR-指定だけではない。R-指定と熱戦を繰り広げたDOTAMAがこのラインには潜在しているのだし、しかもこのラインはRとDOTAMAという因縁の二人の歴史さえ包含しているのである。このとき、「CHECK YOUR MIC」の歌詞としての言葉は少なくとも三つの声に分裂するのであり、歌い手としての晋平太、引用元のラッパー、さらにそのラッパーが試合をした相手の声がその言葉に宿ることになる。このような引用が何度も繰り返されるのだし、MVにおいてDOTAMAが不意に画面に映り自己引用することからも、やはりポリフォニックな意図があると判断されそうでもある。しかし、それでもやはりこれはきわめて晋平太的な歌なのだ。

 

 MCバトルが日本語ラップという上位構造から独立したことはMC松島の言うとおりである。ならば、音源=日本語ラップシーンにおいてバトルMCのラインを引用するという行為はどのような意義を持つのだろうか。それは、バトルMCという存在の第一人者としての義務か、誇りかは分からない。だが一つ言えるのは、この「CHECK YOUR MIC」という曲が過酷な状況から生まれた評価すべき曲であることは疑いのない事実であるということだ。

 日本語ラップとMCバトルがいまや別物であることがすでに明らかにされている。では、その差異は何であるのか、と問わねばならない。二つを分かつ最大の差異は、即興であるか否かということである。そしてまた、ラッパー同士の対話であるのか独語であるのかということである。

 では、まず即興性の有無によってどのような違いが言葉には表れるのだろうか。即興とは一回性、決定不能性を示す。つまり偶然性の支配する場であるといえるわけだが、そのような場所でラッパーに求められるのは剥き出しの自己といったものである。なぜなら、即興の場においてラッパーは自己を仮構する暇さえ与えられないからだ。それは実際名バトルといわれるものをみてみれば明らかなはずだ。「スタイルウォーズ」といった言葉がもてはやされたりするのも同じことで、つまりMCバトルのリング上ではすべてのラッパーは丸裸にされるのであって、言い換えれば観衆の目に映るラッパーはすべて真の自己として想定されるのだということだ。白熱すればするほどこの磁力のようなものは強大になっていくのであり、それはMCバトルの本質である。反対に音源においては、楽曲、スタイル、ファッションといったものは「表現」としての特性を持っている。つまり、それが本物か偽物かは分からないが、とにかくラッパーは自己を「表現」する、あるいはしなければならない。この対比から見えてくるのは、MCバトルには大きな不自由さがつきまとっているということであり、つまりラッパーたちは真の自己から離れることはできないのだということだ。もちろん、その剥き出しの自己といったものは呂布カルマが良い例であるが、仮構することも可能である。しかし、どんなラッパーでも即興の場において顕現する排除できない身体性から逃れることはできない。身振り、手振り、表情、声音、といったものが身体性であり、それらを隠すことはできない。呂布カルマがUMB2014において盲目のラッパーという偽の自己を仮構しようと、バトルに敗北しても鋭いユーモアで勝者を突き刺す余裕があろうと、R-指定との劇的なバトルの最中の彼の身体に透けて見えるのは真の自己なのだ。呂布カルマとは正反対に般若はその身体性を自ら押し出すことによってバトルで圧倒的な存在感を発揮する。鍛え抜かれた肉体、ラップのボリューム、目つき、それら全てが般若の強さであるのだ。即興の偶然性が反動的に、真の自己という必然性を要請するのだと言えばよいだろうか。

 MCバトルの、即興性に次ぐ第二の特徴は、上記のように対話性である。対話もまた偶然性の一範疇ではある。しかし、即興性が身体によってラッパーの自己を顕現させるのに対して、対話は自己を変動させ続ける。自己というものは他者との関係において成立するものであるが、対話性はそのことをより強く印象付ける。即興が身体的なものであるなら、対話はやはり言葉の問題である。ラッパーの発言は、敵の言葉との関係において判断されるのであり、そこでは身体性は一度捨象される。身体は変わりない自己をあらわしているのだとしても、言葉は常に決定不能性にさらされ、どのように転がっていくのかを知るすべはない。身体の持つ絶対的な安定の反対に、言葉は偶然の支配の下に置かれるのだ。例えば、「MC松島 今からおれの相手はお前じゃねえ お前ら(引用者:観客)だ おれをどこまで疲れさせる気だ」というふぁんくに呼応して、「じゃあふぁんくがそう言うんだったら」と自らの言葉を語り始めること。対話性は自己と密接な関係にあると思われている主張やスタイルといったものを一度白紙に戻し、語り手の人格もそこでは一度無効なものとなる。もちろん、その反対もあり、例えば「じゃあそう言うんだったら」というような柔軟さを拒否して、「ぶれない」二つの人格同士がぶつかり合う場合もあるだろう。例えば、人口に膾炙しかけている焚巻と般若の試合。審査員のLILYはそのとき、バイトをしながらラップをする「チャレンジャー」の闘争心と、音楽だけに打ち込み続ける「ラスボス」の凄絶な覚悟の衝突が感動的であると涙しながら凡庸に語ったが、そのような「スタイルウォーズ」がなぜ成立したのかと問えばよい。それは対話によってである。対話がなければ強固な自己といったものも顕現しえない。つまり順序が逆で、強固な人格同士がぶつかり合うのが感動的なのではなく、人格同士が対話してはじめてそれが強固なものに構築されるのだ。

 

 一度まとめておこう。MCバトルの二つの大きな特徴である即興性と対話性はそれぞれえ以下の現象をもたらす。前者においてラッパーの身体性が前景化され、それは固有のオリジナルなものである。後者においては、つまり他者と対面する場では、個別な、唯一のラッパーというものは一度横に置かれて、対話によってどのように変化してゆくかわからない決定不能性をラッパーの像は受け入れなければならないということだ。

 

 では、「CHECK YOUR MIC」の晋平太はどのような場所に立っているのか。つまり、彼はラッパーであるのかバトルMCであるのか。日本語ラップシーンにいるのか、MCバトルシーンにいるのか。そのどちらでもあるのか。やはり、まず目に入るのはポリフォニックな語りである。前述のようにバトルリリックの引用が、声を二重、三重にするが、例えばさらに次のくだり。

 

平成の奴がこれを見て何を思うか 冷静に見れば『口喧嘩マジしょうもな』 

形成は変わる DJの針が飛んだって平然と乗りこなす まるでハリーポッター

(DOTAMAによる台詞:ヒップホップも好きだけどやっぱり映画もいいよね)

これはディスですか? リスペクトは義務ですよね?

ビジネスも好きじゃなきゃ維持は無理ですよね?

 

 晋平太の真骨頂である短い押韻の連なりのスピード感と迫力の中には、複数人の声が共生している。「口喧嘩」とそれへの「平成の奴」の嘲笑、「DJ」の流すビート、DOTAMAの自己引用。さらに続く疑問形の連続。このバースにおいて見られるのはMCバトルにおける対話性が及ぼす偶然的な語りの分裂である。晋平太がMCバトルについて歌うときにきわめて三人称的に語ることは述べたが、ここでは全てを見渡す唯一者としての「神の視点」ではなく、むしろ多数の声そのものとして語っているように思われる。複数の声がMCバトルにおける対話性と綺麗に対応していることは言うまでもない。どちらも、一人称的な語りを揺るがすものであり、語る主体を希薄化するからである。

 

 しかし、晋平太は対話性のみを表現するのではない。フックにおいて強調されるのは、即興が付与するラッパーの身体性だからだ。もう一度引用しよう。

 

CHECK YOUR MIC 利き手で握り締めな CHECK YOUR MIC 唇に近づけな

CHECK YOUR MIC 深く息吸い込みな CHECK YOUR MIC バイブスをぶち込みな

今日勝つために生まれてきた 今日勝つために立ち上がった

今日勝つために負け続けた 俺が晋平太 それがわかるか

 

 このフックの前半部分がR-指定の「刹那」のフックと類似していると上で書いた。しかしいまやその相違点は明らかである。Rが歌うのがもっぱら内面のことであったが、ここで聞く者の目の前に浮かび上がるのはラッパーの「手」「唇」「息」といった身体的なものであるのだ。そして、「俺が晋平太 それがわかるか」と言うときの疑問形が、先ほどの疑問形とまったく性質の異なるものであることも明らかなはずだ。この部分はむしろ反語的に、「晋平太」という存在の一回性、個別性を、マイクに「バイブスをぶち」込めて主張しているのだ。複数の声を取り込んだ楽曲のフック部分において、その語りの形式に反抗するかのように自己の存在を主張するということ。この二つの特徴の齟齬がどこからやってきているのか。言うまでもなく上記のようなMCバトルの身体性と対話性であるのだ。ここまで来ればなぜ「MIC」を「CHECK」しなければならないのかも理解される。マイクがラッパーの身体と言葉の中間に位置するからであり、それと同様にこの曲はMCバトルの身体性と対話性という本質を組み込んだものであるのだ。

 

 つまり、晋平太はどうしようもなくバトルMCなのだ。「フリースタイルダンジョン抜けて参上」といった楽天的な言葉は、晋平太からは決して口にされるはずはなく、ダンジョンの中から声が響いてくるのだ。

 

 

押韻と比喩 KREVA「音色」を添えて

 日本語ラップを好むヘッズたちにもおそらく共有されているであろう素朴な疑問がある。しかし、その疑問に対する答えを探す前に誰もがみなその問題をたいしたことではないとやり過ごすか、あるいはそこで少し立ち止まったとしても答えに向かおうという気持ちすら見せずにそれ指摘するだけでまたそこを通り過ぎてしまう。だが、誰の胸にも等しく引っかかっているであろうその疑問にはとても重大な問題が含まれているかもしれない。

 

 その疑問とは、ラッパーはなぜ比喩を好むのか、というものだ。直喩、隠喩、換喩など比喩の種類を問わず、とにかくラッパーたちは自分を、あるいは他者を、そこにあるものを、何かに喩えずにはいられない。ZEEBRAなら自分のことを「鼻息荒いシマウマ」と言うのだし、彼の相方K DUB SHINEは「渋谷のドン」と、自らを政治的、暴力団的な語彙を使って表現する。般若であれば「チンカス」、MSCは「拡声器」などそのような例を探せばきりがない。

 あるいは、「まるで」「みたいなもんだ」「LIKE A」「並の」といった言葉がラップの歌詞やMCバトルにおいてたびたび、というよりも驚くべき頻度で登場することは誰もがすぐに思い当たる事実であろう。MCニガリに至っては、第七回高校生ラップ選手権のY-HORNET戦で「首の掻っ切り方ならMCニガリここでレクチャー でも暴力とかの話じゃねえ 比喩表現 言葉で叩きのめすぜ」と、バトルにおける武器は「比喩表現」であるとまで言っている。では、それはなぜなのか。

 

 

 さまざまな答えを日本語ラップリスナーや、ラッパー自身が持っているだろう。レトリックとして歌詞に厚みを出すため、言葉遊び的な感覚が比喩という技術とマッチするため、よりものごとをわかりやすく表現するため。もし、このような答えに満足してしまう人がいるとしたら、その考えは浅いと言わねばならない。比喩はもともとレトリックであり、言葉遊びの一種であり、表現をよりわかりやすくするという性質を持っているものであり、だからこの答えは比喩の特質を列挙しただけの言説であり、つまり、比喩が比喩だからラッパーは比喩を多用するのだ、というトートロジーにしかならない。

 

 ではもう一度、なぜラッパーは比喩を使うのか。その答えはほかでもない。ラッパーが押韻をするからである。

 押韻をするから、比喩をする。これは突飛な考えであるかもしれない。だがしかし、これは押韻と比喩について一度考えてみれば明らかなことなのである。話を進める前に、ここで一度なぜラッパーが押韻をするのか、という点をおさらいしておきたい。何度か書いているが、ヒップホップミュージックの基本は反復であり、反復するビートに乗せてラップは歌われる。反復するビートがあるからラッパーは、類似音の反復である押韻をするのである。ということは、押韻はヒップホップミュージックにおいて形式的な必然であり、もし本当に押韻から比喩が要請されているのだとしたら比喩も形式的な必然としてラップの歌詞に現れているのだと言える。このような視座から、押韻と比喩の関係を考えていきたい。

 

 押韻とは類似音の反復だと言ったが、こう言うこともできる。まず第一に踏まれる言葉Aがここにあり、よそからAを踏む言葉Bが連れ出されてくる、と。このとき、思い出してほしいのは前記事で書いた九鬼周造の「偶然性」の理論である。音の類似(それは主に母音の一致であるが)を媒介として、偶然Aに対してBが呼び寄せられる。この瞬間だけに限って言えば、押韻とはまったく音の次元における技術である。つまり、押韻は下のようになるはずである。

 

踏まれる言葉A--音の類似ーー踏む言葉B

 

 もちろん、Bだけにとどまらず、C,D・・・と続いていく場合もあるが、一度の押韻を示すならばこのようになる。九鬼周造は、このAとBを結ぶ音の類似という概念が必然性を欠いた偶然的なものだと述べ、AとBがたまたま並べられたことによって生まれる意味的な関係こそが「押韻の妙味」であるとしたが、復習はこのくらいにしておこう。覚えておいてもらいたいのは、音の類似が二つの言葉を結びつけるのだ、ということである。

 

 では、比喩とはどのような技術であるのか。フランス・ヌーボーロマンと同時代の文芸批評家ジャン・リカルドゥー及び日本における彼の熱心な読者でテクスト論の批評家渡部直己の説明を借りれば、喩えられる言葉Aがここにあり、(意味の次元における)類似という概念を媒介として喩える言葉Bがよそからやってくる。リカルドゥーはここから「構造的比喩」というテクストにおける画期的な技法を見出し、テクスト論的な読みを先鋭化させるのだが、詳しくは『言葉と小説』及び渡部『本気で作家になりたければ漱石に学べ!』に書いてある。話を戻すと、「美人」がここにいるならば、「花」「雪」などの喩える言葉の所在は不明であり、それが類似していれば恣意的にここに連れてきてよいのである。さらに付け加えておけば、佐藤春夫『レトリック感覚』においては、この「類似」という概念自体がかなりあやふやなものであり、極論類似していなくてもよいのだ、ということまで示されているが、これも詳しくは実際に照覧していただきたい。ここで言いたいのは比喩が、押韻と酷似した構造を持った技術だということであり、上記の表にならえばこのようになる。

 

喩えられる言葉A--(意味における)類似ーー喩える言葉B

 

 つまり、言葉をシニフィアンシニフィエ(音と意味)に二分すると、押韻と比喩はそれぞれ表裏の関係にあり、同じ構造を持つ技術なのだということだ。このように考えればラッパーが押韻をするから比喩を多用するのだ、という命題に幾分かの説得力を付与できたはずである。ラップの後ろで鳴る音に要請された押韻という音の技術は、その裏に存在している意味の次元において比喩を要請するのだ。

 

 では、押韻と比喩の二つの技術が実際に使われるラップの言葉はどのような姿を見せるのか。この二つの技術に共通しているのは、「よそ」にある言葉を自在に、恣意的に引き寄せられるという性質である。九鬼風に言うならばもちろん偶然的な言葉の結びつきによって歌詞が作られていることになる。ラッパーは自在に「よそ」から言葉を持ってくる。少し前に、ラッパーの語彙を比較した記事(The Largest Vocabulary in Hip Hop)があったが、このような膨大な語彙を使うのは今見た二つの技術の性質と関係しているのである。また、押韻主義的なバトルMCの代表格チプルソはインタビュー(http://freestylemcbattle.jimdo.com/sp-interview/vol-4-%E3%83%81%E3%83%97%E3%83%AB%E3%82%BD/)で、フリースタイルの練習をやりすぎたため、「”喫煙禁止”…とか、”唐揚げ”…とか、踏みたくなるんですよ。しかも今言った”踏みたくなる”でももう頭の中で踏んでるんですよ(笑)」と述べ、押韻の持つ言葉の大きな接続性を証言しくれてもいる。

 

 この接続性こそが押韻と比喩が持つもっとも注目すべき特徴であり、ラップが言葉遊び的といわれるのも、ほとんど無限だと言える接続性が「偶然性」を持つものだからである。日本語ラップの言葉の、ある種のずれや不自然さをはらんだ独自性の一因もおそらくはこの問題と絡んでいるだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ここまで、押韻と比喩の関係を見てきたわけだが、そのことに深い自覚から作られた名曲が日本語ラップにはある。その歌を仔細に見てみようと思う。

 

 愛してんぜ音色 はまっちまったよまるで迷路

 

 KREVAの「音色」の歌いだしは、押韻と比喩を二重にした言葉で始まる。「音色」と「迷路」の二つの言葉は押韻されながら、同時に比喩の関係にある。

 

 何をしてみても無駄な抵抗 お前がいつでもおれをKO

 

 続くこの部分にあっては、さらに「KO」という格闘技に使われる用語へと「音色」という愛の対象は接続されている。これらは先に見た押韻と比喩における言葉の開放的、誘致的な性質を示していると言えるだろう。

 

 影響あたえてくれよいつだって 刺激的でいて俺が死ぬまで

 間違いない 間違いない 今すぐに交わりたい MY BABY

 永遠を信じたくなる お前の声聞きゃ心が休まる

 まあ時に揺さぶる激しく 手を伸ばしてもすり抜け投げKISS

 無理でもいいんだ教えて全部 感じていたい耳元で年中

 AND YOU DON’T STOP

 おれだけのモンになんないってのはわかってんだけども

 

 この歌の主題は「音色」への愛である。語り手は「音色」への熱狂的な愛を持ち、すぐにでも接触したいのだと強く願っている。この強い愛情の対象は、受動的な語り手に大きな「影響」を与え続け、時には安堵、時には動揺させるのだが、接触への欲望は裏切られ、彼の手を「すり抜け」ていってしまう。語り手の持つ欲望は全体性へと向けられているのであり、「全部」「年中」といった言葉から明らかなように「音色」の全てを触知し、常に自らの近くに置いておきたいという空間的、時間的、身体的、精神的なそれらすべてにおいて所有したいのだと言っている。だが、それはかなわぬ願いであり、「音色」という愛の対象は常に接触不可能であり、一瞬しか姿を現さず、空間的に把握するのが困難である。

 と、こう馬鹿正直に歌詞の内容を追ってみたがこれでは何も掴めない。みながおそらく知っているようにこの曲は普通の意味でのラブソングではない。「音色」は魅力的だがつかみどころのない女性であるかのように描かれているが、それは文字通り「音色」なのであり、つまりこれは一面では語り手の音楽愛をうたった歌なのである。このことは、サンプリング元の曲名が「SOUNDS LIKE A LOVESONG」というものであることからも明らかであり、この歌詞はまさにあたかも「ラブソングに聞こえる」ように書かれているのである。もちろん、「音色」という名前の女性であると考えることもできるが、これが人物であるのか音楽であるのかを特定することはできない。

 ここで判明したのは、この曲全体が比喩=アレゴリーだということであり、まず大きな枠組みとして音楽と女性が比喩の関係にあり、さらに具体的な歌詞の中にも比喩が頻出しているという二重の構造である。

 

 

 愛してんぜ音色 毎日毎晩お前とデート

 暖かく包むまるで毛糸 次々に湧き出るイメージ映像

 いつでもどんなシチュエーションにもすぐに馴染んでいくでしょ不思議

 お前みたいな奴は全然いない 変幻自在 MY BABY

 

 ここにおいてもまた「まるで毛糸」という比喩が押韻と同時になされている。だが、重要なのは今見たこの曲のアレゴリーとしての構造が「毎日毎晩お前とデート」というような言葉をさえ比喩にしてしまう事態である。つまり、「音色」を女性であるとすればこれは単に事実を述べただけだが、それを文字通りの意味として、つまり音楽としてとるならば、この文章は音楽を聴きながら町を歩いたりドライブすることの比喩としての働きを持つようになる。比喩か比喩でないか、つまり「音色」は女か音楽かを特定することはできない。アレゴリーと比喩という二重の構造によってこの曲を聞く者は、語り手と同様この曲の歌詞に「投げKISS」をくらわされるのだ。

 

 まるで円盤に乗った宇宙人 気がつきゃ夢中になって

 お前にだけは悩み事も硬いことも話しておこう、って思う

 完全にお前に依存症 日本語英語何語でもいい

 聞かせて 愛のメモリー満たして

 

 この「円盤に乗った宇宙人」という歌詞に至ってはかなり意図的にアレゴリカルな面を強調している。宇宙人は円盤に乗ったものであり、語り手にとっての「音色」と同様理解不可能な典型的な他者であるかもしれないが、「円盤」にはさらにレコードの比喩としての働きが同時に込められる可能性がある。しかし「円盤」は単に「音色」を比喩する「宇宙人」の乗り物としての働きしかないかもしれない。 

 このような錯綜はしかし、アレゴリーの下位にあるひとつひとつの比喩の次元においても現れてくる。つまり、「毛糸」「迷路」「KO」といった語彙論的にバラバラな言葉たちが「音色」という同一対象に向かって結び付けられており、このような不整合は普通ならばできの悪い文章とみなされてしまう。先に参照した渡部直己は、二葉亭四迷の『浮雲』のヒロインお勢の描写において野菜や貝類、魚類が当てられるような比喩の乱用を指摘している。簡単に言えば、指が白魚で時にサザエのように態度が小さくなり、大根のように白い女の姿を想像してみよ、ということだ。この歌詞においても同様に比喩の乱用が行われているが、ここにおいてそれはきわめて意図的になされたものであり、正当なものであり、むしろ優れた比喩の用い方をしている。なぜなら「音色」が音楽であれ女性であれ、それは「変幻自在」なのであり、対象が非定立的、非統合的なものであるから、比喩が統一されていないのは当然だからだ。この不整合はもちろんアレゴリーと深く関係しており、音楽か女性かという二者択一の不可能性による揺らぎがこの比喩の乱用=比喩の対象の分裂を規定しているのだといえる。あるいは、音楽でも女性でも「音色」がつかみどころのないものであるのと同じように、この歌詞の意味をひとつに特定しようとすれば言葉の意味はアレゴリカルに逃げてしまう、とも言えるだろう。このような揺らぎは、押韻と結び付けて考えればさらに正当性を持つものとなる。なぜなら、押韻によって結びつく言葉には必然的な関係が皆無だからである。偶然性とはつまり必然性がないことであり、「音色」が音楽でも女性でもあるという構造は非必然的=偶然なのであり、そのような揺らぎが個々の比喩の不整合へと波及しているのだ。

KREVAのこの曲はビートの反復→押韻→比喩、と私が進めてきたような考察を、それとは比較にならぬほど、クレバーな手つきで魅力的に表現しているのだ。例えば、アレゴリーを用いた楽曲の例としてCHEHON「みどり」などがあるが、比喩と押韻をそこに絡め、歌詞の内容においてもそれを反映しているこの曲のほうが深い洞察を見せている点で勝っているだろう。

 

 この記事では押韻と比喩については、構造が酷似しているということを述べたにとどまっており、「なぜラッパーは比喩を好むのか」という問いへの完全な答えとしては不十分であるかもしれない。ここで示せたのは押韻の偶然性を、接続性、誘致性というものに換言することができるということだけであり、「音色」の歌詞を見て分かったことも押韻の偶然性がそこでは比喩の乱用、アレゴリーという技法と、愛の対象に恋焦がれる語り手という主題に結びつけられているという点だけである。今のところこれ以上私は押韻と比喩についての考えを進めるつもりはなく、よろしく読者諸氏の批判、検討、発展を仰ぎたいところである。

ライムタイプ研究への批判 

ネット上に、ライムタイプという研究についての記事(
ライムタイプ—押韻の分類 / the 8 rise | Music Theory Workshop Japan
)が上がっており、それがどうやら重宝がられているようだ。だが、押韻するときの母音と子音の一致する音数によってそれぞれパーフェクトライム、ファミリーライムなど五つの分類を行ったこれは率直に言ってほとんど役に立たないことは明らかである。なぜなら、この研究には決定的な欠陥があるからだ。それは、押韻という技術の本質についての誤解、あるいは認識不足である。
このライムタイプの分類は、押韻が単なる音の類似であることを前提としてなされているが、そこが間違っているのである。押韻は音と意味(ソシュールでいうならばシニフィアンシニフィエ)の両面に渡る技術なのである。この視点が抜け落ちている限り押韻について有益な研究にはなりえない。
例えば、押韻が根付いていない日本においても、押韻のこの本質はすでに明らかにされていた。「日本詩の押韻」を書いた哲学者九鬼周造は、その中で、「種類の少ない品詞相互間」の押韻では偶然性が低く「押韻の妙味」が現れることはないといっている。つまりこれは日本語の文法上、文末に助詞、助動詞が来るため脚韻が困難であるという問題に関係することであるが、例えば「です」「してる」というような「種類の少ない品詞相互間」の押韻より、「熱」「ケツ」といった種類の多い品詞相互間の押韻の方がよりよく聞こえるということをいっているのである。
では、それはなぜであろうか。なぜ助詞、助動詞間の押韻は単調で名詞や形容詞ではそうではないのか。このことは音の観点からだけでは説明がつかない。九鬼は、音と意味の二項の弁証法的な関係から「押韻の妙味」が発することを正しく見抜いていた。九鬼哲学の最大の問題である「偶然性」が押韻のこの謎をとく鍵である。九鬼が哲学者であるのに押韻という詩の技法に執着したのもそれが理由である。つまり、音が「たまたま」似ているというだけで言葉が並置されること。押韻とは偶然の書法であるとも言えるのだが、九鬼によれば「偶然とは必然の否定である」。ここで九鬼の哲学に深く立ち入ることはしないが、押韻において否定された必然とは、論理性である。つまり、「です」「してる」には否定されべき必然性=意味が少ないため偶然性が低いが、「熱」「ケツ」は否定されるべき意味がより多いため偶然性が高いのである。あるいは「熱」「ケツ」よりも「将来へ全力投球」「懲戒免職処分」の方がよい押韻であるのは、音が長いため偶然性が後者では高くなるからである。論理的なものは必然であり、論理的な文章では必然的な言葉が連なって行く。だが、押韻においては、Aのあとに続くBの言葉の出自は、音の類似という偶然性である。そこに必然なものはない。1+1のあとに2が来るのは必然であるが、「ひきわり納豆」の後に「右ラリアット」が来ることにはなんら必然性が無い。
 論理性=意味=必然を否定する音の偶然。しかし、だからといって押韻において意味=必然性がまったく排除されているのかと言えばそうではない。九鬼はこのようにも言っている。「邂逅の瞬間において離接肢の多義性に一義的決定をもたらすのである」。偶然出会った二つの言葉は、たまたまその二つなのであり、「立ち往生」のあとには「末期症状」が来ても、来なくてもいいわけだし、その後に「チャンピオンロード」が続いても、「あっちの方」でもいいのである。なぜなら、続く言葉を規定する必然性が押韻においては否定されているからである。これが「離接肢の多義性」=「偶然性」であるのだが、これに「一義的決定」を与えるのだというのはどういうことだろうか。「詰まっちゃって立ち往生 俺ならマイクロフォンの末期症状 気づけば後ろにチャンピオンロード」というラインが素晴らしい出来であったのは、この言葉が吐かれるすぐ前にMCバトルの相手が本当に言葉に詰まり「立ち往生」しているようであったからであり、その場に「末期症状」という歌をうたったZEEBRAがいたからであり、この言葉を言っているR-指定というラッパーがUMBという日本最大のMCバトルで三連覇をしたという経歴を持っており「チャンピオンロード」をまさに歩いていたからである。つまり、偶然的な関係しか持たない押韻に、そのこととは別の次元において「必然」的な体系が垣間見えたとき、「押韻の妙味」が発揮されるのだ。このことは、日本語ラップの語彙であれば「意味を通しながら韻を踏む」ということになる。
 このような押韻における偶然性と必然性は、押韻する=音の似ている二語の間に何らかの意味的な関係が生まれると言い換えてもよい。それはさまざまな様相を見せる。例えばこのブログでも前に書いたが、「せいぜいスキル磨きなめいめい 覚悟決めんのはお前だKJ」という押韻では、「めいめい」=不特定多数、「KJ」=特定個人という対立の関係であるが、「愛してんぜ音色 はまっちまったよまるで迷路」という押韻に付与されているのは比喩の関係である。偶然並べられた言葉の間に欠けている必然性には、一方で対立や比喩などさまざまな関係が代入されるのだと言えばよいだろうか。
 このような観点から見れば、押韻がファミリーライムであろうが、パーフェクトライムであろうがまったく関係ない。逆にこのことにとらわれ過ぎては、この珠玉の押韻の本質を見失うことになる。NITRO MICROPHONE UNDERGROUNDのクラシック「STILL SHININ'」のDABOのバース。「点検中」「連戦中」「伝染中」「経験中」「厳選中」「連結中」という押韻が続くのだが、見てすぐに分かるように、漢熟語二文字と「中」、という同じ形式の言葉であり、ともすれば単調な押韻である。九鬼の言葉で言えばこれらは偶然性の低い押韻となる。このような単調さに耐えた後のこの押韻は誰の耳にも新鮮なものに聞こえるはずであろう。「まさにCHAIN REACTION PLATINUM MADE やめとけ小僧共 不埒な無礼」。ここまで漢熟語で押韻されていたのに、ここではその流れが断ち切られ、英語と、耳慣れない日本語で押韻されているのである。このバースを聞くときに、「伝染」と「経験」のIとN音の差異などまったく問題にならない。漢熟語と英語、日本語の対照が重要なのである。
 あるいは、「ここは俺の奢りだたらふく食え 高括れ じゃなきゃ高くつくぜ」(漢「I'm a ¥Plnt」)という押韻を聞く上で必要なのは細かな音韻上の分類ではなく、押韻されながら「高」の同じ言葉が対置されているという事実であり、それで十分なのである。「高括る」と「高く付く」というかなり音の上で似た言葉が「じゃなきゃ」という逆接でつながれていることがここに施された詩的な技巧なのである。

 取るに足らない細かな差異をさも重要なものであるかのように見せるこの種の研究は確かに物珍しくはあるかもしれないが、実際に押韻された詩を見るときには無益なものである。もし、反論があるならば実際にこの分類を応用実践した文章を読んでみたいものである。ツイッターファレル・ウィリアムスの「HAPPY」の韻を分類していたようだが、だから何なのか、と聞きたい。togetter.com

 私が批判したいのは、これが押韻の伝統がある欧米の研究であるという下らない権威主義から、日本の押韻の研究が遅れていると言う端的な間違いについてであり、すでに日本語ラップファンならみな、今私が書いたようなことを、言葉として意識せずとも理解して「押韻の妙味」を味わっているのである。日本語ラップにアカデミックな視点が欠けているからといって、このようなつまらない研究をありがたがることがないように願う。それは作家だからといってLilyがフリースタイルダンジョンの審査員を務めていることにも言える。はっきり言ってバトルの寸評を聞く限り彼女が真に言葉と言うものを理解しているとは思えないし、そのことを作家だからというような論理で擁護する正当性はまったくない。彼女の文章の何倍もその場のバトルで吐かれた言葉は文学的である。日本語ラップをさらに全国区的なものへ普及しようとすることには賛成だが、権威にこびることは不必要であるとここに断言しておきたい。

「AREA AREA」について レペゼンとRE=PRESENT 東京と横浜

 日本語ラップは、2000年初頭にほぼ全国区的な人気を博すことになるのだが、そのような兆候が共有され始めていた2001年にOZROZAURUSの『ROLLIN’ 045』が発売された。題名に神奈川県横浜市の市外局番を入れていることから明らかなように、このアルバムは「横浜レペゼン」を大々的に謳った作品である。日本語ラップにおいてレペゼンという行為はいわゆる「78年式」のラッパーたちによって一般的なものとなったことは周知のとおりである(名古屋、大阪、三軒茶屋、新宿)。OZROZAURUSもその例に漏れないわけだが、このアルバムに収録されている「AREA AREA」はその中でも珠玉の出来となっており、日本語ラップのクラシックとして認知されている。

 

 少し遠回りをして「レペゼン」という概念について考えてみよう。レペゼンとは言うまでもなく「REPRESENT」という英語が黒人訛りになったのをカタカナで表記しているものである。代理、表象、代行などといった意味であるが、ヒップホップの文脈では地元を代表する、地元に根ざしている、といった意味になる。有名な例ではN.W.Aのコンプトン、JAY-Zのブルックリン、EMINEMデトロイトなどがあり、日本においてレペゼンの先駆となったのはTHE BLUE HERBの札幌である。では、なぜラッパーはレペゼンをするのか。世話になった地元に恩返しをするため、地元の仲間たちを背負っているからなどといったことが言われる。これらに一理があるとすれば、それはラッパーたちが所属するストリートというコミュニティの都合上、レペゼンをしなければならない、した方がよいという事情は考えられる。そのような見方は、ある程度の説得力を持っていることは確かである。だが、リスナーにはほとんどそのような裏事情はまったく感知せずともよい事柄であるし、レペゼンという行為にはもっと重要な意義がある。

 レペゼンを日本語ラップに持ち込んだのがTBHであるということは述べた。ではなぜ彼らは「北海道札幌」をレペゼンする必要があったのか。それは周知の通り、彼らが東京中心主義への厳しい批判を投げつけたかったからである。彼ら以前には地方をレペゼンすることなど考えられなかった。東京が特別なものであることも、地方が特別であることもなかった。ラップをする場所は東京であり、それはあまりに自明なことで疑いを入れる余地などなかった。例えば、そのようなことを端的に示す例としてTWIGYYOU THE ROCK☆を思い出してみればよい。それぞれ名古屋、長野の出身だが両者ともに地元をレペゼンなどせず、上京してラップをしたのである。もちろん、地方出身者が上京したという経歴は彼ら自身にとっても大きな出来事であったかもしれないが、78年組のラッパーたちがレペゼンするような意味での地元ではなかったのである。だから「証言の続きが聞きたい 東京への用件はわずかそれぐらい」というBOSSの批判は地方出身である二人にも妥当するものだったのである。TBHが東京を批判したことが大きな転換点となりえたのは、そこで初めて「東京」が特別なものになったのであり、さらにそこから「地元」というトポスが発見されたからである。つまり、「こっち」と「あっち」という二分法が成立したのである。「東京」にとっての他者が始めて現れたのだ、と言い換えることも出来るだろう。

 TBHのファーストアルバムが出たのが1999年であるから、OZROZASURUSは言うまでもなくその系譜にあたる。このような歴史の流れから見ると、クラシック「AREA AREA」はレペゼンという行為を新たな次元へ引き上げたのだといえる。

 

 

 

 約何年経ったろう 東京よりやや西

潮の吹く港から おれもやったろう

 

 この、有名な歌いだしで注意すべきなのは、時間と空間に対する微妙な感覚である。〈あの頃〉から何年経ったのかではなく「約何年」の時間的な距離があるのかを知りたがっているのであるし、彼はまた「東京」の西側ではなく、「やや西」にいるのである。ここで提起されているのは、「約何年」か前の時点と今の距離、「東京」とそこから「やや」離れた西のある場所との距離の問題である。

 

 ただマイク握りたいばっかの14,5,6,7

 今に至ってもおれは変わらずやってる

 ただしでも状況は前に進んでる 確かだ

 

 「おれもやったろう」と決意した<あの日>から、「おれ」は「14,5,6,7 今」と年齢を重ねた。前の引用部では今述べたように「約」「やや」とおおまかな感覚で距離は計られていたが、ここでは具体的に、より正確に、彼の加齢の過程をわざわざ列挙している。そして、「今」へと至る。この二つの感覚の間の齟齬は、時間の計り方の基点の違いと結びつけて考えることが出来る。つまり、歌いだしにおいて、彼は想起しているのであり、基点は「今」にあり、そこから過去へ遡って時間を計ろうとしていた。だが、ここでは、遡った過去から「今」へと時間を追っているのである。ラッパーとしての誕生の時まで遡り、そこから現在へと再帰してみてわかったこと、それは「変わらず」にいるということである。彼は今も昔も「マイク」を「握りたい」だけなのだということである。これを初期衝動を忘れずに熱い気持ちでラップに打ち込む姿、などに還元してはいけない。重要なのはそのような歌い手の姿が、奇妙な時間への感覚によって初めて見出されたという過程なのである。

 今も昔も変わらないが、しかし「状況は前へ進んでる」というとき、明らかにされるのは、歌い手主体の中の時間と、その外部にある「状況」という二つの異なる時間である。歌い手は「変わらず」にいるのに、外部は「進んでる」のである。

 

 PMXのバックトラックに乗せて初めてしたRAP

 変わってるものそういえば建ってるビルやら時代の背景

 

 ここでも先ほどと同様に、「おれ」の変わりなさと、周囲の変わりやすさが対置されている。だが、ここで一つ示唆的なのは「バックトラック」と「時代の背景」という二つの言葉である。「バック」で鳴るビートに乗せるラップと、個人の「背景」にある「時代」という二つのものが似たものとして描かれているのである。

 

 俺の中の自分分かってる 再現するため戦ってる

 前へ毎日毎月毎年 錆びた方位磁石など使えねえ

 

 ここできちんと聞き拾うべきは、「俺の中の自分」を「再現する」ということである。再現を英語にすれば言うまでもなくRepresentになるが、この「再現」は「前へ」進んでいく動的な過程で実現されるものなのであり、「毎日毎月毎年」という表現が「14、5、6,7」という計数的な表現と地続きになっていることも重要なポイントであろう。ここで謳われている錯綜した時間を一度まとめておくと、まず現在から「約何年」か前のラップを始めた時点にまで遡行し、そこから重ねてきた年月を計数的に追って、現在の「俺」に戻ってくると、「俺」はさらに「俺の中の自分」と二重化され、その統一のために「前へ」進んでいくのである。だが、この時間の移動は「方位磁石」という道具が登場したこの瞬間に空間的なものと結び付けられることになる。

 

 時間が過ぎてくこと確か 俺なりの言葉しか

 本物なやつは認めねえだろ だって宇宙で俺は俺だけだしな

 視点上げりゃ日本アジア東洋西洋 元は一つの島

 昔からのことを詰めた歌詞が 今じゃ内も外も踊らした

 

 自己の中の自己を「再現」するために必要な「俺なりの言葉」。ここでも注意を喚起しておく必要があるかと思うが、これは単にアイデンティティの話をしているのではない。それが、奇妙に歪んだ時間と空間への感覚とともに語られていることこそ重要なのだ。「時間が過ぎてく」こと、つまり時間のとりとめのなさが「確か」なものであるならば、自己というものもそのような不安定であることの「確か」さへ向かうのである。そして今度は空間の不確かさに言及するのだ。「日本アジア東洋西洋」というこの表現がすでに指摘した計数的な言述と似通っていることに気がつくべきである。つまり、時間を計数的に把握するときに、現在から過去、未来へと時間は伸びていった。空間への感覚はこの時間へのそれとほぼ同じものであり、〈いま〉の代わりに〈ここ〉から、まず「宇宙」へと「視点」をおおまかに上昇させ、再び「日本」に戻りさらに徐々に範囲を拡大しているのだ。このような時間と空間への一貫した把握の仕方が、時間と空間を統合して見るという姿勢へつながることはむしろ自然なことだろう。つまり、「東洋」=ここも「西洋」=他所も、時間を遡れば同じ一つの空間であったと歌うことは、時間を巻き戻すことで、空間も大移動するという事態を描いているのである。だから、「俺なりの言葉」という命題は「昔からのことを詰めた歌詞」だと換言されるのであり、それは「内も外も」関係なく響くのである。

 

 力のある者が強いなら 俺はビートに舌転がした

 KOOLな風が吹く HOTな風が吹く 不思議な風が吹く

 

 「力のある者」を横目に見ながら「ビート」の上でラップをするという行為は、「建ってるビルやら時代の背景」が変わっていく中での「俺」の変わりなさを変奏したものであるが、そのときにさまざまな「風が吹く」と言う。この歌詞が美しいものだとするならば、この「風」が現実的な時間も、空間をも越えて吹き抜けていくからであろう。

 

 ここからそこAREAからAREA

 そこからここAREAからAREA

 内から外AREAからAREA

 外から内AREAからAREA

 

 「ここ」も「そこ」も、「内」も「外」も、自在に越境する「俺なりの言葉」。

 もちろんこれは冒頭で論じた「レペゼン」の問題と密接な関係にある。ここでMACCHOが試みているのは、単に地元を「レペゼン」することではない。むしろ決定的に他のラッパーと違っているのは、「レペゼン」というヒップホップスラングを「RE=PRESENT」(再=現在、現前)という時間的な原義に立ち戻らせ、そこに自己というものをぶつけてきたことにある。だからこのように時間と空間と自己という主題について歌っているのである。

 

 〈いま・ここ〉から主体がずれたとき、そのずれは際限なく広がっていく。このズレを引き起こしたのがTBHならば、「東京よりやや西」からこのような言葉が歌われることは歴史的な必然であったのかもしれない。「レペゼン」ということを考えるときに、このクラシックは中心的な問題を取り扱っているのであり、誰もが一度はこのことについて考えるべきだろう。

KREVAの特異さについて

 KREVAがかつてKICK THE CAN CREWのメンバーとして活動し、紅白歌合戦にも出演するほどの商業的成功を収めたということ、解散後ソロとしても目覚しい活躍を見せ続けていることは、日本語ラップファンでなくてもよく知られていることかもしれない。日本語ラップを追いかけてきた者であれば、KICK以前に彼がB-BOY PARKのMCバトルで三連覇を果たしたということも、そしてKICKでの活動が般若、MACCHOらの強烈な拒否反応をもたらしたこともあらためて紹介するまでもない。彼らにディスられたことで、KREVA日本語ラップのシーンにおいてほとんど村八分のような状態になった向きもあったが、少し前のKEN THE 390、SKY-HI、AKLO、SALUらが台頭してきたとき、KREVAは再びシーンにとって重要な存在であることを思い出させた。

 これらの履歴は、DABOがかつて「喧嘩強い/弱い系」の二分法でシーンを語ったとき、KREVAが「弱い系」の筆頭であるといったこととぴったり重なっているように見える。しかし、KREVAは、SEEDAのメジャーデビュー作『街風』の「TECHNIC」に客演している。その異様さは、このアルバムに他に参加したラッパーが、THE BOSS、D.O、漢、BES、四街道ネイチャーらいわゆる「強い系」であったことと比較すればよくわかるだろう。あるいは、KREVAをディスした「78年組み」のラッパーの中で唯一韻踏合組合のHIDADDYはKREVAに好意的であったらしく、「マッハGOGO」という曲を、HIDA、遊戯、CUEZERO、KREVAの四人で発表している。あるいは、妄走族の兄貴分と言うべきNITRO MICROPHONE UNDERGROUNDのDABOもKREVAと客演しており、高い評価を与えている。さらに現在般若の昭和レコードに所属しているSHINGO☆西成をおそらくシーンでもっとも早くフックアップしたのも彼で、「アグレッシ部 REMIX」に参加させている。

 単に顔が広い、というわけではないだろう。現在ではKREVA日本語ラップの距離が再び乖離しているように見えるが(唯一高校生ラップ選手権のライブは行ったが、普通なら彼はフリースタイルの第一人者と目されるのが道理である)、それははじめからそうなのではない。かつて、BY PHER THE DOPESTのメンバーとして、KICK結成以前に活動していたとき、彼はアングラのラッパーだったのであり、そのときの音源を聴けばわかるが、当時としてはかなり技巧的、先鋭的なラップをしていたのである。

 

 

 KREVAがシーンに認められたのはBBP三連覇と続くKICKでの活動であるが、同時期にシーンに登場してきていたのは前述の「78年組」であった。東京の般若、漢、D.Oに加えて、大阪のHIDA、横浜のMACCHO、名古屋のTOKONA-Xなど、錚々たる顔ぶれである。彼らの特徴は、「レペゼン」という概念を持っていたことだった。キングギドラは間違っても東京レペゼンなど言わなかった。TWIGYも、YOU THE ROCKもそれぞれ名古屋、長野をレペゼンしていなかった。レペゼンが可能になったのは、それまで自明なものとしてあった東京に対して、「札幌」の地名がぶつけられたからであった。THE BLUE HERBが登場して、初めて東京と地方の二分法が成立したのであり、その下の世代である「78年組」が揃いもそろって地元の地名を口にしたのはTBHの影響下にあることを示しており、それはつまりキングギドラへの反抗の意を示すことであった。般若はZEEBRAとくっついたり離れたりしていたし、『ヒップホップ・ドリーム』で漢はZEEBRAとの初遭遇を語るときに、微妙な距離感があったことを示している。彼らはZEEBRAの影響をぬぐおうと努力していた。

 では、ZEEBRAの影響とは何か。いうまでもなく彼が完成させたと言われる脚韻である。脚韻は当然、ループする小節に対してもっとも形式的に整ったスタイルである。だが、それは制度としてラッパーたちを捕らえていた。そこから抜け出そうとする必要があった。

 その方法はおそらく二つであった。押韻主義をさらに推し進めるか、それを放棄するか。つまり、量的な拡大か、質的な変化である。そのようなときに、KICKの三人のラッパーは押韻の量的な拡大を、これみよがしに行った。その中でKREVAはもっとも脚韻的であった。LITTLEは脚韻にとらわれていないし、MCUは押韻の質がKREVAよりも劣っていた。例えば「イツナロウバ」は、ZEEBRA「真っ昼間」と歌われている風景が夏のある日という点で酷似しているが、押韻の量を見てみればその進化は歴然としている。「太陽と地面正面衝突 気温も上がり当然今日も 抑えきれない冒険衝動 誰もが戻る少年少女」という押韻の長さと論理的な一貫性は言うまでもなく褒め称えられるべきであるし、ZEEBRAも完敗を認めてよいはずであるが、事実はそうはならなかった。彼らはディスの対象となったのであるし、漢、MACCHO、般若らの方がシーンにおいて重要度を増していった。

 おそらく、文字数、回数の拡大した押韻は、商業的な拡大、センチメンタルな主題を巻き込んだので、KREVAに対してよく言われるセルアウトなスタイル、無内容、フェイクといった言説が生まれたのである。ただ、それは押韻の歴史的な過程の中で生まれた言説なのである。実際のKREVAへのディスを聞いてみればよい。「KREVA?アーイ アバズレちゃん キモいんだけどありゃケツからあれか?」という般若のディスは単に嫌悪感の表明にしかなっていないし、MACCHOに至ってはKREVAの学歴を批判の根拠の一つにしている。普通に考えれば、KREVA慶應大学を卒業していることなどまったくどうでもよい話だ。それでもKREVAをディスしなければならなかったのは、彼らの押韻の姿勢の違いが根本的な問題としてある。ディスの内容でなく、彼が集団的な嫌悪の対象となった事実が重要である。

 漢については、以前の記事に書いたが、他の「78年組」のラッパーたちはそれぞれ押韻の質的な変化を目論み、しかもそれに成功したのだといえる。そのような押韻の質的な改良はKREVAには見当たらないが、ただ、彼のラップの有無を言わさぬ上手さやこれまでの経歴を見るに、シーンにおいて無視することはできないはずである。KREVA自身がどう思っているかは別として、日本語ラップにおけるKREVAという問題は深く考えて見なければならないだろう。もちろんそれは彼の実際の楽曲を仔細にみることを通して。

MC漢について

 漢 aka GAMIの「ヒップホップ・ドリーム」を再読し、ツイッターを見ていたら、あゆみBOOKS小石川店のアカウントがこの本を紹介しているツイートに当たり、思わず膝を打ってしまった。

 

 

 

 

 なぜ、このツイートが、ほかのしっかりとした紹介文、書評などとは比にもならないくらい私の目を引いたかといえば、「何食わぬ顔してるならず者」のこの歌詞を引用するセンスというか、感覚に深く共感を覚えるからだ。

 

 それが、どのような感覚であるか。それは日本語ラップのみならず、ヒップホップの最重要概念である「リアル」の一語に対する感覚である。このなんともあいまいな言葉をめぐってさまざまな言説が生まれたのだが、日本語ラップにおける「リアル」を、もっとも明確かつ魅惑的に定義したのがMC漢であるというのが私見である。

 

 だが、その前にまずはMC漢のラップを仔細に見てみよう。

 

 「俺の身勝手なリスナーやファンたちはナンセンスなファンタジーじゃ半勃ちもしねえ」という鮮烈な歌いだしで「何食わぬ顔してるならず者」は始まる。「ナンセンスなファンタジー」を厳しく批判しているこの日本語ラップ屈指のパンチラインは、複雑な押韻が仕掛けられている。一応説明しておくなら、「ファン」「ナン」「ファン」「半」の音が連続的に押韻されながら、「勝手」と「ナンセンス」、「ファンタジー」と「半勃ち」がそれぞれ結び合わされている。ただ、これを「超絶技巧」などと誉めそやしては、ことの本質を見落とすので、この歌いだしが複雑な押韻を行いつつ、「ファンタジー」=虚構を批判していることの二点だけを銘記しておこう。

 

 善と悪の二元論は机上の空論であり、現実世界ではそれらは明確に定義できず、グレイゾーンが支配しているのだというようなことを言う人がよくいる。一見するとこの曲でMC漢はそのような人生訓を歌っているかに思える。現実と虚構、「本音と建前」などの二元論、二項対立を列挙的に語り、グレイゾーンとしてある現実を描写しているかに見える。

 ここで、日本語ラップにまつわる「2」という数字について少し補足しておきたい。ヒップホップの音楽性の最大の特徴は反復である。同じビートの小節が周期的に反復する。それに乗せてラッパーはラップをするが、ラッパーは反復する小節に合わせて言葉を反復させる。ラッパーが行う言葉の反復とは、押韻に他ならない。押韻とは類似音の反復であるからだ。ではここで反復はいかにして成立するのかと問えば、その答えがすなわち「2」という数字に他ならない。たった一つの言葉では押韻ができないということは小学生にでも理解できる。つまり、ヒップホップの基数となるのが「2」なのである。

 「2」とは、規則である。しかし、芸術においては規則は破られなければならない。キングギドラが示した「2」を乗り越えるためにTHE BLUE HERBは、ラップの文法を破壊するように、言葉の洪水の中に押韻を散りばめたのであった。

 

 では、この曲でMC漢は「現実」と「虚構」の「2」に向けて何を企てるのか。

 

 「二十歳になっても葉っぱは吸わねえ」ってほざいてても

 二、三年もたてば立派な売人 ほらね

 

 麻薬に手を出さないなどといった「理想論」=虚構は、ストリート=現実の前に崩れ去る。ただ、注目すべきはむしろ、「二、三年」の月日の経過を歌詞に挿入し、単に「吸わない」どころか、「立派な売人」にまでなってしまったという変化を描いたことである。初めにあった「葉っぱは吸わなねえ」という理想に、「現実」がぶつかることで、「売人」になってしまうという変化。ここで書き表されているのは、「2」が次なる「1」を生成する、あるいは「1」に変化するという過程である。この過程はこのように反復される。

 

 内面 実体験 これで何本目のボールペン 悩んでたって何も始まんねえ 

 絶望感に浸ってひざまづく前に開き直る お前の求めてるリアルが今ここにある

 

 インクが切れたのか、筆圧にペンが折れてしまうのか、何度もボールペンを取り替えながら言葉を書き綴るとき、「内面」と「実体験」が混交する場所が生まれる。「ボールペン」は「実体験」により作られた「内面」を外部へと言葉を媒介にして放出するが、その書くという行為は「実体験」に他ならず、そのときに生まれた言葉は再び誰かの「内面」へと宿る。続く「絶望感」という「内面」が引き起こす「ひざまづく」という行為=「実体験」は、「開き直る」こと、つまり「内面」へと再び送り返される。このような変転のあとにMC漢は、「リアル」は「今ここ」のことであると宣言する。

 

 「内面」「実体験」「言葉」の「3」つの位階=異界が相互に干渉しあい、混交する場所がリアルなのであり、それが「二」元論を相対化する。物語内容の次元においてこのように言えるのだが、それは物語言説の次元とも深く関っている。つまり、押韻において「2」が基数なのであり、小節の「脚」で韻を踏むというもっとも素朴だが強固な形式に対し、「浸る」「ひざまづく」「開き直る」の三度の頭韻によって、「2」を支配する脚韻から逃走することに成功している。

 

 あるいは、この歌詞。「MCバトルだってそう 町の喧嘩だってそう 楽勝で圧勝かクソったれな畜生」。二元論を肯定するのでもなく、それを単に否定するのでもない。二元論を支える第三項の存在への懐疑を差し挟む事によってそれを揺るがそうと試みる。この言葉がが勝ちか負けかの二元論的思考によって書かれたのでないことは明らかである。「楽勝で圧勝かくそったれな敗者」と歌わずに、「くそったれな畜生」と歌うこと。「○○か□□」という二元論的思考の形式をあえて採用しながら、そこに「勝ったとしてもどうせ畜生ではないか」という懐疑を差し挟むという戦略的な相対化。

 このような方法は、漢が般若とともにMCバトルで押韻主義を否定したときにも使ったことがある。「CHECK CHECK ONE,TWO 着々ライム書く なんて簡単な韻は誰にでも踏めるんだ」(BBP2002 決勝)。押韻という形式を借りて、押韻を否定すること。形式と内容性、内容の形式性の一致を崩壊させるようなこの戦略は意図的なものであり、それが何を意図するかといえば押韻(脚韻)の制度からの、「2」からの脱走である。

 「アウト・ロー」、規範の外に出ること。「新宿アウトロー」を自称する彼は、歌詞の面においても規範の外にある。MC漢の「リアル」が他を圧倒して人の心をひきつけるのは、内容においてはそれが複雑な生成変化の過程の描写だからであり、形式においてはその複雑な描写対象と相即した複雑な押韻(頭韻)であり、描写されるのが「新宿アウトロー」であるならば、ラップの規則=脚韻の「外」にいる。

 

 種も仕掛けもある言葉のマジシャン

 

 こうも自称する彼は、さながらマジシャンのように「リアル」を創造する。「リアル」とは現実と虚構が入り混じった「言葉」に他ならない。このことが漢のラップの最大の魅力であると信じて疑わない。

あいうえおキング

 日本語ラップを鑑賞する際に、人々から失われた視点の最たるものとして、言葉を形式的に受け取ることである。日本語ラップに限らずとも、小説などにおいてもそうであるが、メッセージ、心情、主題などといったものにばかり注目することの愚には拍車がかかってきている。ラップの言葉でも、小説でも映画でも、それらを構成する内容と形式の両面において見なければならないのに内容にばかりその比重が置かれている。

 では、言葉の形式を見るとはどういうことか。四人のフリースタイルバトルMCがマイクリレーを行う「DEVIL'S TONGUE」における晋平太の歌詞は、MCバトルが主題化されてはいるが、形式的な面に注目して聞けば押韻がもたらす形式的な構成が見事になされている。

 

 おまちかね I'm Great King ひらめきのあいうえおキング

 

 AIUEOINUの音で四度押韻されるこの歌いだしは、単に押韻の長さと回数において優れているわけではない。押韻する言葉たちが連動している様に目を向けてみよう。まず第一句において、「GREAT KING」であると自己紹介するわけだが、二句でそれは「あいうえおキング」と換言される。これは晋平太の経歴を参照して、UMB二連覇を押韻主義的なスタイルで成し遂げたことを示しているが、重要なのはそこではない。「I'm GREAT KING」と「あいうえおキング」の二語の間に成立している関係が、まず第一に押韻の関係であり、さらに指示対象が同一(晋平太)であるが別の言葉であるという同義異音の関係であることだ。つまり、「GREAT KING」と「あいうえおキング」の意味内容は同一であるが、二つの言葉は異なっている。「晋平太」という指示内容をまず一点、そこから二つの異なる表象形式「GREAT KING」「あいうえおキング」がそれぞれ一点ずつを担い、正三角形が形作られる。このことは誰の目にも明らかなことだが、これに押韻という技術の本質が密接に関ることが重要なのだ。

 今、引用部の第一行を換言という言葉の動きが、正三角形を作り出すことを示した。押韻においても同様の図形が形作られているのだとすれば、きわめて構造的な作詞が行われていると言えないか。まず、押韻する二語が押韻たりえている同一の母音AIUEOINUを一つの点とし、そこから別々の子音をまとった二つの言葉「I'm GREAT KING」「あいうえおキング」がそれぞれ二点をなす。先ほどと同じ正三角形が成立することは明らかだろう。

 押韻と換言という二つの言葉の運動が連関しているこの歌詞において、「あいうえおキング」という一語はきわめて重要である。言うまでもなく押韻を成立させるのは母音であり、「あいうえおキング」とは押韻のキングを指すことは自明である。日本語での押韻が困難であるという議論は昔からあるが、それは文法体系が理由であり、一転、われわれが子供のころに日本語を習得するときに誰もが目にする、あいうえお表は日本語が押韻にきわめて適している音声体系を持った言語であることを知らせる。つまり、縦に五つ並んだ言葉たちがそれぞれ横に移動し、それがたまたまある意味を持つ単語となればそれは押韻であるのだ。あいうえお表を横滑りする言葉たち。それが押韻の形象化である。

 

 

 滑ったならアイスケートリンク 罵りたいなら上がれよリング

 

 押韻という形式がリンクで滑っているアイスケートの運動と視覚化され、その平面の地形は二者が格闘する「リング」へと変奏される。横滑りが押韻を、子音の横滑りを示すとすれば、二者が格闘する衝突の運動は押韻する言葉たちが同一の母音を共有しているという事態を示しているだろう。つまり、ここでも正三角形が、「押韻」という形式、押韻における子音の横滑り、押韻における母音の共有を三点として形作られる。

 

 押韻における縦横の二つの運動。この左右上下の運動が、実際に押韻されながら歌われることで、つまり虚構と叙述の、内容と形式の二つの次元においてきわめて構造的な言葉が歌われていることになる。

 

 烈火のごとく赤く燃えるラップ レンガの如く高く積んだキャッシュ

 変化を残す後ろ向きのキャップ 伝家の宝刀ぶつかり合えばクラッシュ

 

 この部分の一行目で見られるのは上下運動である。炎も、積まれたレンガも上を目指して運動する。それに対し、二行目では左右の水平運動が形象化されている。だが、上下、左右の運動の方向が異なるとはいえ、第三句までは単一の運動であり、一つのものが一つの方向に運動している。しかし、第四句では左右からそれぞれ水平に運動してきた「伝家の宝刀」が衝突する様が描写される。ここから歌詞は、複数と単数の主題が前景化する。

 

 交差する本音と本音 できなきゃお家で本でも読んで

 全国どこでもウォンテッドコンテスト この俺を今月も本命と呼んで

 

 一行目も、二行目も、それぞれ複数→単数のパターンを踏襲している。この複数、単数の衝突=「クラッシュ」、水平運動と垂直運動の「クラッシュ」。母音と子音をめぐるこの構造的な運動を歌う晋平太が「あいうえおキング」であると自称することは興味深い。

 

 言葉を内容、形式の両面から見なければならない、と冒頭で述べ、それはどのようなジャンルにおいてもそうなのだが、日本語ラップにおいてそれは徹底されなければならない。なぜなら押韻が、言葉を音と意味、母音と子音、同一と差異に分解するものだからだ。