韻踏み夫による日本語ラップブログ

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SEEDAについて誰もが知っている二、三の事柄 あるいは語り草の束

※この文章は「SEEDA入門」といったものとしても、ましてや「SEEDA論」としても、「SEEDAを通して見る日本語ラップの歴史」としても、「日本語ラップ入門」としても読まれることを望まない。また、このような文章の書き手が私である必然性が皆無であり、むしろ日本語ラップにまったく日本語ラップに詳しくない私よりも、ただ日本語ラップに詳しいだけの多くの人たちにこそ書いてほしい文章であった。なぜなら、この手の文章は一切考えることを必要としないものであるから。したがって、日本語ラップに詳しいだけの人には、この文章の補足や、誤りの訂正をお願いしたい。本来の書き手となるべきはあなたたちであったはずだから。また、この文章の読み手は本来存在してはならない。なぜなら、題にあるようにこの文章に書いてあることは「誰もが知っている事柄」を記しただけであるから、常に(ということはむろん、既に)、誰もが知っていなければならない事柄だからである。以上のような、多くの矛盾を抱えているにも関わらず、私は文章を書いた。また、常識的なことを記述するだけと言いながら時に非常に主観的な記述があると言う点もこの文章が抱える矛盾の一つである。しかし、それも必要であると判断し、採用した方法である。であるから「SEEDA論」ではないのだ、と繰り返し断っておく。また、この文章には本筋から脱線した余談が数多く含まれてもいる。それらも全ては日本語ラップの聞き手に共有されるべきことを、きわめて貧弱である私の知識を通じて少しでも記しておきたいと思ったからである。特にこの部分においてこそ、日本語ラップに詳しいだけの人たちの助力を仰ぎたい点である。だから「SEEDAを通して見る日本語ラップの歴史」ではないのだ、と繰り返し断っておく。この文章は二つのもので構成されている。情報の列挙と筆者のふとした想起や思い付きである。しかし、資料的な価値はなく、また面白みもない文章である。非常に不十分であり、中途半端であり、矛盾を多く抱えたものであるが、それでもこの文章は必要だと思った。

 

 

 

SEEDAの代表的なアルバムを紹介していきたいと思います。

『GREEN』 2005年

このアルバムはSEEDAがいかに当時異端であったかを思わせてくれます。聞いてみればわかるように、超高速フロウのバイリンガルラップを、多少の乱れやビートとのズレも構わずに叩き付けています。若き日のSEEDAがいかに、日本語ラップという枠を飛び出て、世界へということを夢見ていたかが感じられる作品です。特に注目されたのがフロウで、SEEDA日本語ラップのフロウを新たな次元に引き上げたのだと言えます。このアルバムの前作『ILLVIBES』でも、彼はこのアルバムと同じスタイルでラップをしています。また、彼は2003年、B-BOY PARKのMCバトルに出場しており、YOUTUBEでその様子を見ることができますが、その時点で、この『Green』のスタイルが出来ていたことが分かります。しかし、SEEDAの新しいラップは観客や審査員に十分に理解されていたのか、疑問が残ります。しかしまた同時に、理解されなかったであろう理由もまた理解できます。

早口ラップは、何もSEEDAの特権ではありません。2000年代の初頭から半ばの時期には多かったラップのスタイルです。DABO「レクサスグッチ」、LITTLE「MC~殺人マイクを持つ男~」などがありましたし、また当時のアンダーグラウンドの雄としてMSC(ILL BROS)「新宿アンダーグラウンド・エリア」、メジャーではSOUL'd OUTの「ウェカピポ」をはじめとするヒットがあり、2004年にはTOKONA-X「I'm in Charge」など、早口ラップは当時の流行の一つだったと言えます(あるいは、一般的にはラップとは早口なもの、と思われていたようでもあります)。早口にはいくつかの機能がありますが、その一つにスキルの誇示があるかと思われます。それは特殊技能であって、とても分かりやすく人を圧倒でき、であるがゆえに浅薄であるともいえるのですが、そのようなものでした。1997年に発売されたBY PHAR THE DOPESTKREVAとCUE ZEROのユニット)のシングル『切り札のカード』のB面「伝道師」(ヴァージョンは違いますがアルバム『BY PHAR THE DOPEST』の隠しトラックとしてアウトロにも収録されており、こちらの方がオリジナルよりもスピード感が感じられます)のKREVAの有名なヴァースも当時としては非常に先鋭的な早口フロウを取り入れており、超絶スキルの持ち手としてシーンを騒がせたようです(2011年「基準」の早口が有名ですが、そもそもKREVAはデビュー当時からこの手の早口で周りを黙らせる、ということをしてきたようです)。早口は計測可能であるがゆえに、どんなに耳が悪い人間でも、そのいかんともしがたい物量には、平服せざるをえない、そのようなものです。事実、EMINEMの「RAP GOD」はギネス記録に認定されました。

ちなみに、EMINEMはアメリカの白人ラッパーで、世界で最も有名なラッパーの一人です。元N.W.Aで、西海岸の大物であるDr.DREのフックアップを受け、過激なラップと、卓越したスキルで鮮烈にデビューしました。「MY NAME IS」「STAN feat. Dido」「LOSE YOURSELF」「 Love The Way You Lie feat. Rihanna」などは世界的にとても有名な曲です。

SEEDAはこのような早口ラップの流れに位置していた、と言うことが出来ると思います。もちろん、その圧倒的な速度の中に、独自の強弱、独自の響き、独自の発声などがあったことは言うまでもないことですが。おそらく、SEEDAは速さの中にエモさを取り入れることができた数少ないラッパーであった、ということが出来るのではないでしょうか。速さという量的なものの中に、質的なもの(声の独自の魅力的な響きで、SEEDAの声には主に苦しみの音色が感じられると思います)を取り入れるには、より一段上のスキルが必要であると思われます。ちなみに、高速ラップの系譜を受け継いでいるのはその超絶スキルをSEEDAからも絶賛されたJinmenusagiであろうと思われます。

また、この時期のSEEDAバイリンガルラップの系譜にも連なっています。バイリンガルラップの定義は非常に曖昧かと思われますが、例えばその代表者にSHING02がいますし(彼は英語のみの曲と日本語のみの曲、という風にスタイルを分けていますが)、また、現在飛ぶ鳥を落とす勢いのKID FRESINOもその一人だと言えます。SHING02はクラシック『緑黄色人種』、KID FRESINOはFla$h BackSのメンバーでグループでは『FL$8KS』、ソロでは『Horseman's Sckeme』、名古屋SLUM RCのメンバーC.O.S.Aとのユニットでの『Somewhere』などの作品があります。現在ではバイリンガルラップという括りはほぼ無意味なものとなっていますが、2000年代初頭から半ばのこの時期、バイリンガルラップは大きな問題の一つでありました。なぜなら、日本人が日本語でラップをすることに、いまだ大きなコンプレックス、引け目を抱えており、日本語ラップというジャンルのアイデンティティが確立していない時期であったからです。英語でラップをすると、「日本語」ラップのアイデンティティが失われるのではないか、という危惧があったのです。例えば、K DUB SHINEの「JAPANESE HIPHOPじゃねえのかよ」、「英語ばっか使う無国籍ラップ 日本語に心動くべきだ」(キングギドラ公開処刑」)というラインがバイリンガル批判の代表でしょう。そんな中、バイリンガルスタイルを選択したSEEDAの狙いは、おそらくのちの「日本語ラップぶっちゃけ興味もないわ」という一節に示されているように、日本を超えて世界へ、という大きな野望に裏付けられていたと思われます。実際にSEEDAは、世界で戦いたい、という望みを強く持っていることをインタビューでたびたび打ち明けていますし、英語のみで歌われた楽曲もあります。

また、この作品は高速フロウの系譜、バイリンガルラップの系譜に加え、ハスリングラップの系譜にも連なります。ハスリングラップとは、ハスラーのラップです。ハスラーとは、ここでは主にドラッグディーラ―のことを指します。アメリカでは、ハスラーを経験したラッパーは数多くいます。NASJAY-Zはその代表格でしょう。また、HIPHOPの思想に多大なる影響を与えたマルコムXハスラーとして成り上がった一人です。このように、ハスラーはアメリカのHIPHOPと切っても切り離せないものなのですが、日本でハスラーの経験があるラッパーが登場したということだけでも、大きな驚きでした。不良系のラップの親元と言ってよいZeebraは、チーマー、ヤンキーというきわめて純日本的な文化を刺激したとはいえ、ハスラーとそれらの層は似て非なるものです。不良が日本のガラパゴスな文化だとすれば、ハスラーHIPHOPそのものと密接な関係があります。ハスラーはただ不良よりも違法性が高く、本物の悪だから良いというのではもちろんありません。ハスラーであることが一つの特権性となるのには、いくつかの理由があるかと思われますが、ハスラーは貧困と成り上がりの物語を通じて、資本主義の核心に触れているということが挙げられると思われます。そこから、ハスリングラップに特有のリリックにおける特徴が浮かび上がってきます。その特徴を挙げておきたいと思います。彼らは麻薬、欲望、金、嘘といったものの近くにいることができる/いなければなりません。そして、それらは全てハスリングラップにおいて、非常によく似た運動を見せます。その運動は、いくつかのハスリングラップに特有の主題や構造を見れば証明されると思います。暴走と反転という二つの運動が最も大きなものではないでしょうか。金が暴走すること、人間関係が暴走すること、薬物中毒が暴走すること、などです。交換という手続きを踏み飛ばした収奪による一攫千金、コミュニケーションの破綻や不可能性に突き動かされた殺人、身体と精神の破綻としてのオーヴァードーズです。また、反転とは、買い手が売り手に、売人が中毒者に、仲間が敵に、といったもので、「明日は我が身」「勘繰り」といった言葉に集約されると思います。また、ハスリングラップの先駆として2002年THA BLUE HERB「路上」があり、そこでは「人違い」という言葉で「反転」と私が呼ぶものが表現されており、ハスラーの物語がフィクションとして神話的な暗示、因果を交えて語られています。この曲で歌われた、しがないハスラーの生活は、SEEDAの内省的なハスラーラップと評されるスタイルに直接の影響があるのかもしれません。また、妄走族「まむし―CHOICE THE GAME― feat. D.O」はドラッグディールの話ではありませんが、「路上」と似た面を持った曲であると言えます。ちなみに、ハスリングラップの担い手は他にMSC、D.Oなどがその筆頭に挙げられます。D.Oは「悪党の詩」「I'm Back」などの代表曲があります。

 以上のように『Green』は、高速フロウ、バイリンガルラップ、ハスリングラップという、それぞれ技術的、言語・文化的、経済・社会的な系譜のそれぞれ最先端に位置付けることができるでしょう。そのためきわめて重要な作品ではあります。しかし実はこのアルバムは、傑作であるということはできません。言ってしまえば、若く青臭い作品という印象を、後のアルバムと比較した場合、与えてしまうことは否めないのです。USのラップを多く聞いてきて、英語も自在に使え、ハスラーをやってきたという、ラッパーとしての準備は万全であった彼はしかし、それをいまだ上手く形に落とし込むことに成功しているとは言えないのです。高速フロウは、世界という大きな舞台を見据えて生き急ぐ彼の焦りと似ているように思えても来ます。むろん、全編通して聞くべきであり、聞かねばならない名盤の一つです。「Back In Da Days ft.ESSENCIAL」「LIFE feat. L-VOKAL」など多くの傑作があります。しかし、やはりこれは失敗作、素晴らしき失敗作であることには間違いなく、それを証拠立てているのが「Path feat. MANNY of SCARS&BES of SWANKY SWIPE」です。ここでもSEEDAは相変わらず、高速で、エモい(エモーショナルな。今はあまり使われませんが、よく使われた言葉です)、バイリンガル風のラップで、ハスラーの心情を繊細に描いています。しかし、何といっても客演で参加しているBESと比較してみるとSEEDAの現時点での敗北が明らかなのです。SEEDAのラップを聞く限りでは、この曲のビートの上でラップがきわめて駆け足で、焦りながらさまよっているという印象を受けます。言葉を多く詰め込むSEEDAのフロウは、確かにビートへの繊細な、微視的な耳を要するのかもしれませんが、ビートを捉える、ビートをラップで制御する、というようなことはいまだできていないのです。反対にBESはただの一言目で、SEEDAがつかみ損ねたこのビートを完全に我が物にしてしまっています。聞いてみてください。「結局 MONEY,PAIN切れないチェーン」とBESは歌い始めます。BESのフロウとしか言い表せないあのフロウで、余裕たっぷりに、第一行目で、ビートとラップが完璧な仕方で結びついています。さらに言えば「結局」の一語を聞いた時点で、BESのヴァースの成否は決定されたと言っても過言ではないと思います。その後、三度繰り返されるこのラインが、歌詞の中にある種々のイメージと密接に連鎖しながら、日本語ラップ史上最高に美しく、圧倒的なヴァースを歌い上げることについては、ここでは語り切れません。正直に言って、私はこの曲から、無残なまでにSEEDAが敗北している、という印象を受けました。この作品はSEEDAに、前作『ILLVIBES』から続く早口のスタイルが限界に来たことをSEEDAに教えたのではないでしょうか。この時のフロウは当時の日本語ラップにとって一つの衝撃であったろうこと、あるいは衝撃を与えられると信じた若きSEEDAの志は理解できます。しかし、それでは足りないのです。BESのあの見事な、完璧な、余裕たっぷりの、あの美しいヴァースを聞けばそれが分かるのではないでしょうか。しかし、とにかくこの作品はあまりに偉大な失敗作であるのです。そのことは次作が証明しています。

 BESのことも紹介しておきます。これから何度も名前が出てきます。SEEDAが所属するグループ、SCARSのメンバーで、またSWANKY SWIPEというグループも結成しています。日本でラップスキルのランキングを作るとしたら、おそらくSEEDAと一位の座を争うことになるのは、BESということになるかと思われます。彼は疑いもなく天才で、誰にもまねできない、どのようにして開発されたのかまったく分からない奇跡のフロウの持ち主で、並外れたリズム感を持っていて、リリックも非常に高度です。ここまで説明したなら、すでにお気づきのことと思いますが、SCARSには日本で最もラップの上手いラッパーが二人もいるのです。恐ろしいですね(もちろん、他のSCARSのメンバーもみな素晴らしいですが、ここでは紹介できません)。BESの代表的な作品はBES from SWANKY SWIPE『REBUILD』、SWANKY SWIPE『BUNKS MARMARED』で、この二枚のアルバムは大傑作なのですべて聞いていなければなりません。曲単位で言えば、「HOW HOW HIGH feat. メシアThe Fly」「The Process」「かんぐり大作戦」「JOINT feat. メシアThe Fly」「評決のとき」などは歴史に残る名曲で、有名な曲なので聞いていなければなりません。

 

SCARS 『THE ALBUM』 2006年

SCARSは、リーダーA-THUGを中心に、SEEDA、BES、STICKY、MANNY、林鷹(GANGSTA TAKA)、BAY4Kというラッパーたち、またビートメイカーにI-DeA、SACが所属するグループです。彼らは神奈川県川崎市を拠点とするハスリンググループを基にして結成されました。SCARSは日本語ラップにおける大所帯クルーの系譜に位置します。日本においてHIPHOPクルーという意味ではじめに位置するのは雷家族、その弟分とも言うべきNITRO MICROPHONE UNDERGROUND、さらに78年組を代表するものと言えば般若が所属していた妄走族、MC漢が率いるMSC、厳密にクルーとは言えませんがD.Oの練マザファッカー(ちなみにSCARSのBAY4Kはこちらに属していました)があります。また、SCARSと同世代で、SCARSとの盟友関係にあると言ってもよい、NORIKIYOが率いるSD JUNKSTAもあります。他にも田我流などのstillichimiya、OMSBなどのSIMI LABなどがおり、現在シーンを賑わしているBAD HOP、YENTOWN、KANDY TOWNなどにそれは引き継がれています。

 さて、このアルバムは日本語ラップの歴史上、最も優れた作品です。傑作中の傑作であり、絶対に聞くべきで、聞いていないことは許されない、と言いたいところですが、なんと、この大傑作が現在、廃盤状態なのです。むろん、iTUNESにも入っていません。中古で探すしかないようです。本当に日本語ラップ史上最高傑作だと言っても過言ではない、紛れもない超名盤なのですが、こんな作品が廃盤であるとは、日本語ラップにとって実に悲しむべきことなのです。いくつかの楽曲は幸いなことに今動画サイトに上がっているようなので、そちらを是非とも聞いておくべきです。

このアルバムは、日本語ラップシーンに、スキル、リリック、リアルなどの面で大きな衝撃を与えました。ハスラーの個人的な事柄を率直に、かつ独自の言語的センスで歌うことは、リアルと言うことを考えるうえで重要な革新でありました。おおざっぱにまとめますが、彼らの上の世代、さんピン世代のトポスが「現場」という言葉に代表されるとすれば、SCARSらにとって重要なトポスは「ストリート」である、と言えそうです。ストリートのリアルということでは、さんピン世代のZeebraは「俺は東京生まれ HIPHOP育ち 悪そうな奴は大体友達/悪そうな奴と大体同じ 裏の道歩き見てきたこの街」という有名なパンチラインを残しています。しかし「裏の道」を知っていることを歌いますが、その裏の道がどのようなものであるのか、それを歌ってはいません。リアルである、ということを歌えど、リアルを生きることはなかったと言えるのではないでしょうか(もちろんそれが悪いとは言いませんし、Zeebraがリアルでないとも言っていません)。ちなみに「リアル」についてSCARSのほかに重要なのはMC漢及びMSCでした。ベストセラーとなった漢の自伝『ヒップホップ・ドリーム』の中に書かれている、リアルを守るための有言実行ルールは大きな話題となりました。

ラップ自体について言えば、SEEDAは『Green』から各段の進歩を遂げています。これまでのファストフロウは、ともすれば単調なものであったと言えるかと思いますが、ここでは、ビートへの完璧なアプローチと、かつ多彩で独創的なフロウの数々が披露されています。SEEDAが真にSEEDAとなった、と言えるでしょう。

 また、言うまでもなくこのアルバムはSEEDAだけではなく、メンバー全員のラップが素晴らしく、スキルでぶっちぎるもの、リアルを描くもの、規格外のパンチラインを放つもの、狡猾な悪を演じるもの、苦しみを吐露するもの、仲間について歌うものなど多様であります。

 ちなみに、以下に張り付けた対談では、当時の日本語ラップにどれほどSCARSが衝撃を与えたのかが、リアルタイムでそれを体験した人物によって語られていて、とても勉強になると思います。

第17回 ─ シーンの風向きを変えたワルいやつら~SCARS『THE ALBUM』 - TOWER RECORDS ONLINE

 

『花と雨』 2006年

SEEDA出世作であり、誰もが認めるクラシックアルバムとして認知されています。日本語ラップヘッズは全員「花と雨」の歌詞を暗記しています。そして日本語ラップヘズならばライブでこの曲のイントロが流れた瞬間に突っ立ってはいられなくなります。まさに名曲中の名曲で、おそらく日本語ラップクラシック曲ベスト5を作ったとしたら、確実にランクインするだろうと思われます。「花と雨」について、私は『ユリイカ 特集*日本語ラップ』に寄稿した「ライマーズ・ディライト」という文章の中で書きましたのでここでは触れません。ただ、リリックの表面における言葉の運動が奇跡を起こした、ということだけを言っておきます。この曲で起きていることは奇跡だと私は思っています。この曲の最も有名なパンチラインは「長くつぼんだ彼岸花が咲き空が代わりに涙流した日 2002年9月3日俺にとってはまだ昨日のようだ」です。とても感動的かつリリカルで、日本語ラップ史上に残るとてもとても有名な歌詞です。

表題作以外にも聞いていなければならない曲がたくさんあります。「不定職者」、「Sai bai man feat. OKI」はともにSEEDAのライブでも定番の曲で、この曲も誰もが知っています。「不定職者」は、ハスラーの生き様をユーモラスに描いた傑作です。「不定職者」という言葉には、ハスラーを悪自慢としてではなく、自己相対化して見つめる、というSEEDAに特有のスタンスが現れています。「Sai bai man feat. OKI」は栽培の歌です。何を栽培するのかと言えば大麻の栽培で、ガーデニングの歌ではありません。ストリートで生きる彼だからこそ書けるリリックで、イリーガルな話題をユーモラスに、かつ細部に渡って描き切っています。「学がなきゃ無理さURBAN FARMER」と歌うように、「ホルモンバランス」を保ち、はさみで汚れた葉っぱを切り落とすといったことなどを歌っています。また、「おっと服に枝が付いてる」というラインは、後にまた登場するのですが、とても有名です。

また、一曲目に収録されている「ADRENALINE」も完璧な一曲で、「UNDERGROUND OVERGROUND誰もが ラッパーSEEDA否定した頃から/クローゼットブースの中から吐いた言霊 FUCK世の中BUT FUCK SEEDA」という歌いだしの鮮烈さにまず驚きます。前作の失敗を踏まえ、いまだ「世の中」への苛立ちを抱きながら、しかし、ビートへのアプローチとリリックの一語一語に磨きをかけたことなど、すべてをこの一節が物語っています。

続く二曲目の「TOKYO」では、ビートのすべての音を聞いているかのように、ビートとラップが完全な結合を見せながら、東京のストリートを描写しています。特に「BMの覆面近所を回るもママチャリのババア昼間すれ違う/無人交番ゲリラするライター 道路脇ただ置かれた花束」という一節は数ある日本語ラップのストリート描写の中でも屈指の出来だと思います。視点変換、運動と静止など語りの面で非常に高度な技術を用いつつ、ストリートの表と裏を描写しきっています。他には「目に映るもの全てを詩に落としたら誰もここじゃ生きれないだろ」「尊敬できるヤクザに会えばワルとカタギの違い分かるはずだ/尊敬できるラッパーに会えば自ずとHIPHOPが分かるはずさ」などのパンチラインはとても有名です。

ちなみに、描写ということはリアルと深い関係があります。そもそもラップで描写を行うことは非常に難しいであろうと思われますし、稀なことでもあります。描写を行う数少ないアーティストがSEEDAであると言えます。描写を行うアーティストにはTHA BLUE HERBもいますが、特にリリックの面でSEEDAに多大な影響を与えたと言えます。BOSSとSEEDAは描写と隠喩をリリックにおいて行う数少ないアーティストですが、思うに、描写と詩的な意味での隠喩(意味に還元されないイメージの閃き)はラップのリリックに希少なもので、ラップにおいてこの二つの間には大きな関係があるのではないでしょうか。隠喩の話は置いて、他に描写を行うアーティストには、MC漢がいると思われます。例えば、「クルーの麻暴が手にした道具は空のビール瓶 何にも知らずに笑顔でやってきたイラン人の額めがけてタイミングよく振る渾身のフルスイング」(「新宿アンダーグラウンド・エリア」)という有名なパンチラインがありますが、これもラップに数少ない描写で、生々しく過激な光景を描いています。他には般若「理由」の冒頭、「三日月が傾く 風が荒ぶる 電信柱の影だけ長く/破れた袋が地面を跨ぐ 寝れねえカラスが歌ってやがる」という一節は描写と押韻が組み合わされたきわめて完成度の高いラインです。最近の例で言えば、「今夜俺は歩いて帰れるだけの酒を飲み 潰れたFriendsを跨いで振り返る/片側だけライトが灯るクラブの明け方のノリを遠くから眺める」(C.O.S.A×KID FRESINO「LOVE」)という最近有名になった一節は上の例と多少異なりますが、語り手の身振りを交えながらある情景を描いているという点でこれらの系譜に位置付けることが出来ると思われます。そもそも、ラップという表現形式においてはほとんどの言葉は、散文で言う地の文とはなりがたいということにこの問題の根っこがあると思いますが、ここも研究を要するところでしょう。

また、他に聞いてほしいのは「ILL WHEELS feat. BES」です。二人が日本で最もラップの上手い人だということはすでに述べました。その二人がスキルを存分に見せつけながら、ワックMCへのディスを次々と放っていきます。「リリックの中二度生きるラッパー 言葉の壁は高いがフロウはその上を超すことは可能さ」というSEEDAパンチラインも有名です。BESの「千鳥足でも読めるフロウとライミング」、「ビーツとライムが水と油」という歌詞は、とても洒落たディスのセンスで素晴らしいですし、また、ビートとラップの乖離をディスするということから、反対にSEEDAやBESがいかにビートに対するアプローチの点にいかにこだわっているかが分かります。また、この曲の終盤に行われる二人の掛け合いは圧巻です。矢継ぎ早に、日本屈指の二人のラッパーがスイッチを繰り返しながら、一息に言葉を吐き出し、最後に彼ら二人こそが「真のフロウ巧者」なのだと言い切る瞬間には、なんともいえない快感が襲います。「どうのこうの言ったってしょうがない 結局ラップが上手すぎてしょうがない」。本当にしょうがないくらいにラップが上手すぎるのです。

ちなみに、ワックMCをディスする曲の系譜は膨大なものがあります。キングギドラ「大掃除」をはじめ、ほとんどのラッパーがといってよいほどこの手の曲を出しており、枚挙にいとまがありません。おそらく、シーンの中心に躍り出るために、ワックMCディス曲が要請されるのではないでしょうか。他人をディスすることと、自らの価値を主張することは表裏一体だからです。比較的最近の例を挙げておけばKOHH「FUCK SWAG」、「Life Style」のT-PABLOWのパンチライン「お前らのHIPHOPは習い事 HIPHOPってのは人生だから一緒にすんなよまがいもの」というものが代表的でしょうか。 

ここで、前作『Green』との決定的な違いを説明しておきましょう。よく言われるのは、前作は速すぎて上手く言葉が聞き取れず、『花と雨』は日本語がとてもよく聞こえる、というものです。しかし、速度はまったく表面的なものでしかないと思います。重要なのはラップの質自体の、劇的な向上だと思います。上でリンクを貼った、「 サ イ プ レ ス 上 野 の LEGEND オブ 日 本 語 ラップ 伝 説」の別の回、第19回NORIKIYO『EXIT』の回では次のようなやり取りがあります。

 

上野「で、トラックもらって、ラップ乗せてミックスして……みたいな流れで全部作っちゃってる人は多いじゃないですか。ラップとビートが水と油みたいに分離したままのアルバムなんてめちゃくちゃあると思うし。でもキー君はそうじゃない」

ブロンクス「そこがキー君とかSEEDA君の世代がエポックメイキングだった理由なんじゃないかと思うよ。これはSEEDA君が言ってたんだけど、まずトラックを聴いて、足りない音程をラップで埋めると」

上野「おお~……すげえなあ。昔だと、〈歌詞先〉とか普通にあったと思うんですよ。でも、いまはあらかじめ曲を聴いて〈これだったらこういう感じがハマるなあ〉って作っていく。そうしないと全部書き直しになっちゃいますからね。だから、いまもMIC大将とかが、俺とやる予定の曲を勝手に自分のなかでビートを決めて考えてるらしくて〈大丈夫なのか?〉って思うんですけど(笑)」

第19回 ─ 悪運の尽きたリリシストのスタート地点~NORIKIYO『EXIT』(2) - TOWER RECORDS ONLINE

 

 

素晴らしい証言を残してくれたものです。何と素敵な話なのでしょうか。トラックに「足りない音程をラップで埋める」。トラックがまず先にあり、ラップは後に来るのです。歌うことよりもまず聞くことが先にあるのです。本当に衝撃的ですし、美しい話です。実際にSEEDAのラップを聞いてみれば、この言葉が嘘ではないことが分かるはずです。『Green』において欠けていたのはこの点なのではないでしょうか。つまり、自らの言葉を物凄い速度で吐き出していくのではなく、まずはビートがはじめにあるのです。それは「心に書き留めたフリースタイル」(「MIC STORY」、後に紹介します)の絶対性を放棄し、ビートという他者に、世界に、自己を開くという行為だと言えるのではないでしょうか。そして、この試みが見事に成功したのが『花と雨』であると言えます。

 

『街風』 2007年

傑作『花と雨』に続くこの作品は、SEEDAのアルバム中最も売れた作品であったようです。SEEDAはレコーディングの制作方法に大きな不満を持っていたようで、このアルバムを気に入っていないと言ったりしていましたが、SEEDAが何と言おうと良いアルバムであることには違いありません。何といってもこのアルバムは客演陣が豪華です。アルバムとして見れば、前作に比べてまとまりを欠いていますが、曲単位では素晴らしいものがたくさん詰まっています。

THA BLUE HERBのILL-BOSTINO(Tha BOSS)を招いた「MIC STORY」は有名な曲です。ブルーハーブは、東京中心主義であった日本語ラップ界に、北海道から独力で立ち向かい、地方をレペゼンすることの大切さを教えてくれた素晴らしいアーティストです。THA BLUE HERBの『 STILLING, STILL, DREAMING』というファーストアルバムは、クラシックだと認められており、とても評価の高いアルバムです。歌詞の多くが抽象的ですが高度で、日本語ラップの歌詞のレベルを引き上げたと言えるのではないでしょうか。また、この作品によって、さんピンCAMP組のラッパーから次の世代、地方レペゼンを旨としていた「78年式」のラッパーたち、またとても豊かであった2000年代初頭のアンダーグラウンドシーンなど、新たな時代が切り開かれました。

 この「MIC STORY」という曲はマイク一本で生きていくラッパーの覚悟を、先輩と若手がそれぞれ歌う、という構造になっています。ストリートを突っ走って生きてきたSEEDAはこれまで、ハスラーの経験を歌ってきましたが、自分はこの後どうすればよいのかと、街の真ん中に立ち止まって悩んでしまいます。「街中がHUSTLIN' ALL DAY 気付けば一人待ちぼうけ」。金を稼がねばと焦り、早くラップスターになろうと野心を燃やすSEEDAに対して、ILL-BOSTINOは「上がりっぱなじゃ生きてはいけねえ」、「恐れを知らないあのどん底から俺は家康さながら生き残った」と、しぶとく生きることを教えます。そしてSEEDAは徐々に何かを悟りだします。「光を知らない石ころは光を知って己を知る」「足蹴にのけ者ヘイター全てはありがとうここまで来れたから」といった素晴らしいパンチラインを残しています。ちなみに、この曲でBOSSは「その仕事俺にくれ あれから何年」と歌っていますが、おそらくこれは自身の「ILL BEATNIK」という曲の一節を意識してもいるでしょう。1999年に発売されたアルバムで絶大な評価を得た彼らは、2000年、ヒップホップアーティストとしては珍しく、FUJI ROCK FESTIVALに出演します。そこでこの「ILL BEATNIK」のライブをしたのですが、このライブは伝説とされており、圧倒的なパフォーマンスで観客を完全にロックしています。この映像は現在も動画サイトで見れます。

また、客演陣の中で一際目を引くのはKREVAです。ストリートの不良でアングラな存在であったSEEDAと、すでに紅白歌合戦に出場し、オリコン一位を取っているメジャーなアーティストであるKREVAが共演したからです。その曲が「TECHNIC」です。この曲もとても有名で、傑作だと認知されています。KREVA製の素晴らしいビート上で、アンダー/オーバーの垣根を超え、二人の屈指のスキルを持つラッパーが格好いいラップをかましています。SEEDAは「正規で300 自主で5000って何」と、現状の音楽業界に対する不信を表明するパンチラインを残しており、インディペンデントに自らの音楽で金を稼ぐというライフスタイルを体現します(このアルバムはメジャーから出ているのですが)。この姿勢は日本語ラップに与えたSEEDAの大きな影響の一つではないでしょうか。ちなみに、日本語ラップバブルがはじけた後のこの時期、多くのラッパーがメジャーの幻想を捨てた時期だったのではないでしょうか。二枚のアルバムをポニーキャニオンから出した般若は後に「ポニキャに彩ちゃん 居ると思ったら居ねーよ あらま」(「履歴書」)と自虐的に歌っていますし、OZROSAURUSのMACCHOもポニーキャニオンでのアルバム制作時に歌詞の規制が厳しかったことに激しく怒り「言葉の羽もぐメジャーよりインディーズ」(「SANDER」)、「045styleからAREA AREA ROLLIN'じゃ小銭さ俺の手には/メジャーって何だかいけすかねーな それとも仲間が搾取?Blah」(「PROFLILE」)とディスをしていますし、「勘繰るぐれえならハマに帰ろう」(同前)とインディーズに移行しました。「TECHNIC」に話を戻しますが、何といってもKREVAのラップがキレキレで、珍しく本気のKREVAが見れる曲の一つです。二人はそれぞれの立場から「東京の流れ」を見つめ、その目まぐるしさよりも速くラップをし、「振り返らず」に「人生のTRACK」をラップで疾走します。また、補足しておけば、この曲のKREVAのヴァースは、OZROZAURUSのMACCHOから受けたディス(「DISRESPECT 4 U」)へのアンサーにもなっています。「ロナウジーニョばりノールック 音が口を塞いでまた静かに報復」という、KREVAらしい比喩のセンスと、いつものKREVAらしくない抽象的な表現が混じり合ったパンチラインはとても有名です。ちなみに、OZROZAURUSは横浜をレペゼンするグループで、ハマの大怪獣として君臨し、日本中に「045」ナンバーを知らしめました。名曲中の名曲「AREA AREA」をはじめ、「ROLLIN' 045」「Hey Girl feat. CORN HEAD」「My Dear Son」「Juice」「証拠」などの曲があります。

他にも四街道ネイチャーを招いた「ガリガリBOYS」、D.O客演の「NO PAIN, NO GAIN」、アメリカの有名ラッパーSMIF-N-WESSUNを招いた「LOVE&HATE」、仙人掌とストリート描写の妙を見せる「山手通り」、音楽のすばらしさを美しいトラックに乗せて歌った「MUSIC」、「不定職者」のリミックスである「また不定職者 feat. BES, 漢」など、傑作がたくさん収録されています。豪華な客演陣と、SEEDAの出会いによって楽しめる一枚であることには間違いがありません。

 

『HEAVEN』 2008年

『街風』の次に発表されたこのアルバムは、大傑作『花と雨』と同等、あるいはそれ以上との評価を得ているクラシックアルバムです。シーンへの衝撃、と言う点では『花と雨』に劣るかもしれませんが、完成度で見るならばこのアルバムは負けていません。ビートメイカーに、BACH LOGICとI-DeAという世界レベルの二人を招き、その素晴らしいビートの上で、進化したSEEDAのラップを聞かせてくれます。

「自由の詩 feat. A-THUG」は、これまでの自らの評価、張られたレッテルから逃れようとする意志に満ち溢れており、SCARSのリーダーA-THUGと完璧なコンビネーションを見せています。いつも通りのラップスキルを見せつけていますが、「目の前の俺をよく見てくれ天才などでも何でもねえ/BACH LOGIC I-D Green 花と雨 一言だけ詩(うた、引用者)は俺のままだぜ」と、ファンの望むSEEDA像に囚われないことを宣言しています。同時にストリートからの脱出も目指していて「借金足枷 can't get out ダチが皆ハスラーならcan't get out」と歌っています。また、A-THUGも良いヴァースを蹴っており、「冷めない内に飲んどけスープ 冷めない内にやっとけラップ」「万券貯めて千円使いな/九時から六時でも金を稼ぎな」といった(意味不明で?)強烈なパンチラインを残しています。この曲は「ILL WHEELS」同様、最後のヴァースでの二人の見事な掛け合いが見どころの一つで、SEEDAが最後に吐き捨てる「oh shit we get that 人に使われると反吐が出んだBlah!」というラインは最高に格好いいです。

このアルバム中、最も人を驚かせるのは「Homeboy Dopeboy」でしょう。ビートは非常にイレギュラーで、乗せるのが難しいはずなのですが、SEEDAはこのビートを完全に乗りこなし、鋭いラップとリリックを披露し、聞く人を戦慄させます。二分ほどの短い曲ですが、SEEDAお得意の早口に、聞きやすさが加わり、素晴らしい歌詞を歌っている素晴らしい一曲です。歌っている内容もきわめて高度で、麻薬、金、欲望といったものの危うさがその内容です。「やれば嫌いなやつはいない だって俺もお前も人間だろ」。ドラッグ、性、金といったテーマが複雑に絡み合いながら、鋭いラップが披露されています。その中でも面白いのは「電車は無理だよ鼻水でるもん 仕事中鼻血じゃただのエロ」というラインで、解説しておけば、鼻から吸入する薬物をやってしまうと、粘膜が傷つき、鼻水や鼻血が出やすくなりますが、それにはまってしまったため、電車など公共の場所に行くことができなくなり、仕事をしに職場に行くと鼻血が頻繁に出てしまい、周りの人からは「エロ」だとからかわれる、という情景が、抜群のタイミングで挿入されています。一行で、このような情景をありありと、かつユーモラスに描いてしまうあたり、SEEDAの言葉の使い方の上手さが分かりますね。

リリックのすばらしさといえば、「SON GOTTA SEE TOMORROW」です。第一ヴァースでは売人を今日でやめる男、第二ヴァースでは上京し、東京で苦しみながら生きる女性を、それぞれの人物に寄り添って語っています。特に視点移動、時制の感覚が天才的で、昨日と明日、前と後ろといったものを語りの形式において移動しながら語ったり、東京で闇に近づく若い女性の心情を「タトゥーより深く落ちた街の影」と比喩と描写によって表現する際の歌詞の構成などはまさにリリシストとしか言い表せません。ちなみに、この曲のMV(前まで動画サイトにアップされていましたが、現在削除されているようです)に、警察官役でNORIKIYOが出演しています。ちなみに、楽曲内の語り手と、歌い手であるラッパーがおそらく同一人物でなく、かつ複数人の語り手が登場するという形式を取る楽曲の系譜がいくつかあるのでそれを紹介しておきましょう。Zeebra「I’m Still NO.1」、RHYMESTER「グッド・オールド・デイズ」、般若「やっちゃった」「FLY」、田我流「ハッピーライフ f/ QN, OMSB, MARIA of SIMI LAB」などがあり、最近ではCREEPY NUTS「みんなちがって、みんないい」が話題となりました。

また以上に紹介した楽曲の他にも『HEAVEN』には、日常を生きる苦しさを細々と描いた末、空に向かって「くそったれ」と叫ぶ呼吸の妙を見せる「空」、別れた女性の面影を煙のはかなさと重ねた「Mary Mary」などがあり、全ての楽曲が傑作である、完璧な一枚です。

 

TERIYAKI BEEF

ここで一度アルバムから離れてみましょう。2009年、VERBAL、RYO-ZILMARI、WIZE、NIGOがメンバーであるTERIYAKI BOYZのアルバム『SERIOUS JAPANESE』収録の表題作が問題を引き起こしました。フックの「おっと服に猿が付いてる」という部分、「気にせずサクサク仕事こなすハスラー 気になってるくせにコソコソ言ってる奴ら/君らみたいなのをヘイターと呼びます」というVERBALのライン、そして声が小さくて何と言っているのか判別できないアウトロ部分が、その原因でありました。つまり、「おっと服に猿が付いてる」というのは、メンバーのNIGOのファッションブランド、「ア・バッシング・エイプ」のことを指していますが、このラインは明らかに、すでに紹介しました「Sai Bai Man」の「おっと服に枝が付いてる」という歌詞を意識しており、またVERBALの歌詞は、ハスリングラップの代表者であるSEEDAを想起させてもおかしくありません。それに加えて彼らが、アウトロで「コソコソ」と言っていることを加えると、SEEDA及びOKIがこの「SERIOUS JAPANESE」を、彼らへのディスであると受け取っても不思議ではないのでした。

 そこで二人はYOUTUBE上に「TERIYAKI BEEF」という楽曲を発表し、TERIYAKI BOYZをディスしました。とても面白く、痛烈な曲でディスソングの歴史に名を連ねる有名な曲です。ちなみにこの曲で、OKIが「聞けるのはONLY カニエヴァース」と歌っていますが、これはTERIYAKI BOYZの「I STILL LOVE H.E.R  feat. KANYE WEST」という曲を指しているだろうと思われます。カニエ・ウェストというのはアメリカの、世界的に有名なラッパーで、これまた世界で一番有名だと言えるラッパーのJay-Zの裏方をやっていた経験があり、また自らの作品もきわめて音楽的に優れたものです。つまり、OKIは、世界的なアーティストと共演して喜んでいるかもしれないが、誰と共演しようがお前らのラップはダメで、カニエしか聞くところがないのだ、とディスをしているわけです。また、SEEDAは「般若にディスられSEEDAディスっちゃう?自分の都合で相手をかえちゃう」とディスをしていますが、これは、般若というラッパーが、「エイプをレイプするSHOWCASE 俺HIPHOPだからそれ当然」(「理由」)、「NIGOの倉庫にみんなで行こう PHARELLがいたら殴っていよう」(TWIGY「BOMB ON HILLS」)などの歌詞で、NIGOをディスしていたことを意識した言葉です。般若は元「般若」というグループをフィメールラッパーのRUMI、DJ BAKUと組んでおり、後に三軒茶屋を拠点とした妄走族を結成したラッパーで、現在『フリースタイルダンジョン』のラスボスを務めています。代表曲には「やっちゃった」「最ッ低のMC」「サイン」「はいしんだ feat. SAMI-T」などがあります。

その後、VERBALは自身のラジオ番組でSEEDAと一対一の話し合いを開きましたが、ラップで会話したかったというSEEDAに対して、日本でビーフを行うことの是非を議題にしようとするVERBALの話し合いはすれ違うばかりで、フリースタイルセッションでも、はかばかしい返答をしないVERBALに対し、SEEDAは「残念だよ」と小さく呟いたのでした。

BLOG上でSEEDAはこの件の終息を告げました。ラジオでの対談を聞いた限りでは、一貫してフリースタイルで、ラップで、話をしようとするSEEDAの方が格好良かったという人が多かったはずで、SEEDAの萎えた姿はかわいそうでもありました。またこれもおそらく多くの人が同じ意見であると思いますが、この件では、楽曲としての「TERIYAKI BEEF」の完成度、動画の面白さ、またラジオでのフリースタイルの腕前、それらの元にあるラッパーとしての姿勢(言葉に責任を持つこと等)の点で、BEEFと呼ぶにはすれ違っていたかもしれませんが、とりあえずはSEEDA(とOKI)の勝利であると言ってよいと思われます。ちなみに、この後OKIは、自らが話し合いに呼ばれていないことを不服とし、「SHALL WE BEEF」という曲を発表しましたが、返答されませんでした。

この件で日本語ラップシーンは大きく盛り上がりました。そこで、日本での創刊号を発売しようとしていた『THE SOURCE MAGAZINE』が、SEEDAに照り焼きバーガーを食べている姿での表紙を依頼するも、SEEDAは権威ある憧れの雑誌の表紙でそのようなことをしたくない/出来ないと断ります。ちなみに『THE SOURCE』はアメリカの権威あるヒップホップ雑誌で、作品の評価に厳しいことで有名であり最高点「五本マイク」を取ることができた作品はわずかしかありません。ちなみに、この雑誌とラッパーのEMINEMは犬猿の仲でした。そのことを聞いたGUINESSはYOUTUBE上に「SEEDA is Fake」という楽曲を発表し、SEEDAへのディスを宣言します。GUINESSは、フリースタイルダンジョンでお馴染みの漢がリーダーを務める新宿のグループMSCの周辺におり(一時期は所属もしていたようである)、BESとも近しいラッパーです。彼のディスは、自ら引き起こしたビーフに端を発した依頼を断るとは「芋引き」であるというもので、責任を取らないのはフェイクだ、という主張でした。ディスの内容が説得的だとは言い難く、また、この動画の最後にショッピングモールで「五歳のSEEDA君」と受付に呼び出しをさせていることなど、格好いいか、HIPHOPであるか、という点で問題があったと言えます。SEEDAは、アンサーを発表し、GUINESSも返答、再びSEEDAがアンサーし、このビーフは決着しました。結果はと言えば、SEEDAの圧勝でした。二曲のアンサーソングは今もYOUTUBEで聞けるので、是非聞いてみるとよいと思います。圧倒的なラップスキルに加え、ディスのセンスが抜群で、どちらの曲もとても笑わせてくれます。

このTERIYAKI事件から見えてくるのは、SEEDAのラッパーとしての覚悟、アンサーの素早さとラッパーとして真摯な対応、暴力、権力に屈せずに音楽の力を信じることなどです。SEEDAは二つの一連のビーフで圧倒的な勝利をおさめて、評価を上げました。おそらく、日本語ラップのビーフ史上最も鮮やかな勝利だと言うことができるでしょう。つまり、SEEDAは楽曲制作だけでなく、BEEFでも最強なのでした。

 日本語ラップにおける有名なビーフを紹介しておきましょう。キングギドラK DUB SHINEと、BUDDHA BRANDDEV LARGEのビーフがあります。K DUBの「バトルは俺が完全に食った」(「来たぜ」)という歌詞にDEVが怒り、ディスを発表した、という経緯でした。ちなみに、K DUB SHINEの有名な曲は「ラストエンペラー」「渋谷のドン」「オレはオレ」「狂気の桜」「今なら」「ソンはしないから聞いときな」などがあります。また、DEV LARGEはソロでの作品は少ないですが、ソロの代表曲には「MUSIC」という曲があります。また、変名DJ BOBO JAMES名義でのコンピ『HARD TO THE CORE』には、入手困難であった幻の曲「暴言」(有名な「証言」に、MSC韻踏合組合のメンバーらが乗せた曲)が収録されており、DEV LARGEの偉大なる功績の一つです。キングギドラの有名な曲は「大掃除」「見まわそう」「未確認飛行物体」「公開処刑」「F.F.B」「平成維新」「UNSTOPPABLE」「アポカリプスナウ」があります。BUDDHA BRANDは「人間発電所」「Don't Test da Master」「天運我にあり(撃つ用意)」「FUNKY METHODIST」「ブッダの休日」「ILL伝承者」などの曲があり、キングギドラもこちらも、とてもとても有名です。

 他には漢とDABOのビーフがあります。リアルを信条としていた漢は、DABOがアルバムのジャケットで銃を持っていること、車の免許を持っていないのにMVで車の運転をしていることなどから、フェイクであるとディスをしました。それにDABOは応答し、数曲に渡って両者のビーフは続けられました。漢の盟友であり、またDABOともつながりのある般若の取り持ちによって仲は修復されたらしく、二人はタッグを組んでMCバトル(「AsONE -RAP TAG MATCH- 20151230」)に出場もしました。ちなみに、漢はMSC、DABOはNITRO MICROPHONE UNDERGROUNDの中心メンバーです。MSCは「音信不通」「宿ノ斜塔」「新宿 RUNNING DOGS」「六丁目団地」などの曲が有名で、ストリートのリアルにこだわったスタイルでシーンに衝撃を与えました。NMUは「NITRO MICROPHONE UNDERGROUND」「STRAIGHT FROM THE UNDERGROUND」「STILL SHININ'」などの曲が有名で、格好いいマイクリレースタイルでシーンを席巻しました。漢の有名な曲には、「何食わぬ顔してるならず者」「漢流の極論」「I'm a ¥ Plant」「光と影の街」「スキミング」などがあり、特にファーストアルバム『導』は、インディーズながら一万枚以上を売り上げたという伝説があります。DABOの有名な曲は「レクサスグッチ」「拍手喝采」「おはようジパング」「デッパツ進行」などがあり、フロウの上で日本語ラップに影響を与え、また独特な歌詞も評価を得ています。

他にもビーフはたくさんありますが、日本語ラップ三大ビーフは、この二つにTERIYAKI BEEFを加えたものではないでしょうか。最近では、2016年には、漢とKNZZのビーフが起き、殴り合いにまで至り、その光景がネットで共有され、大きな話題となりました。

 

SEEDA』 2009年

前作『HEAVEN』は、ストリートから、過去の自分からの脱出を試み、一種の集大成と言ってよい内容と、出来でした。続くこのアルバムでは、ラップスタイルにおいて大きな変化が見られます。それまでのSEEDAのラップの最大の特徴は、ビートが刻むリズムに対して完璧で「これしかない!」と、完全な必然性に導かれていると言いたくなるような、しかし同時に独創的でSEEDAにしか出来ないようなアプロ―チを見せることでした。また、彼のラップの魅力の一つに、言葉の発声、あるいは息継ぎの繊細さがあり、それらが強拍を打ち付けるタイミングの絶妙さと相まって、きびきびとした、緊密な、素晴らしいラップを作り上げてきました。しかし、今回の作品では、ジャストオンビートでしかラップをしないという方針を取ったと言います。その制約は、ラップの天才で変幻自在のリズムを作り出せる彼にとっては、ラップを簡単なものにしたようで、気楽さを感じさせます。しかし、そこで生まれたのは、これまでになかったような、柔らかなフロウで、余裕のあるタイム感に裏付けられたラップの乗り方でした。

 例えば、前作の延長にあるような見事な高速ラップを披露している「GET THE JOB DONE」に対し、例えば「FASHION」という曲でのフロウは、これまでのSEEDAになかったもので、かつてのような緊密なラップではないですが、とても気持ちの良いリズムを刻んでいます。

ちなみに、「GET THE JOB DONE」では、「fast flow 倍速」の掛け声を合図にラップの速度が急激に上がり、得意の高速フロウを披露していますが、この手の曲は他にもあります。緩急自在ラップの系譜と名付ければよいでしょうか。DABO「レクサスグッチ」、KREVA「中盤戦 feat. MUMMY-D」、OZROZAURUS「LOCK STAR」、NORIKIYO&OJIBAH「そりゃ無いよ feat. RUMI」のOJIBAH、また最近ではKID NATHAN「意識ハ冴エテ feat. Jinmenusagi」のジメサギ、般若「スゲートコ」などがあります。

 客演が豪華な一曲「GOD BLESS YOU KID」でも、SEEDAの新たなフロウが聞けますし、そこでは「SEEDA! 俺がFUTURE?オールドスクールなお前は見たことない俺」と歌っています。本当に新たな一面を見せつけてくれます。

 また、触れなければならない有名な楽曲が二つあります。一つ目は「DEAR JAPAN」です。これまで、自身の経験、心情などを歌ってきたSEEDAですが、この曲では、政治について歌っているのです。「俺はぶれない FUCK あっそう」(これは当時の麻生総理大臣についてのダブルミーニングですね)、またアメリカ初めての黒人の統領が誕生した時期でもあったので(知らない人がたくさんいそうなので一応言いますがHIPHOPはブラックミュージックです)、「不景気がなんだYES WE CANだ オバマと団結し向かう明日」と無邪気な言葉をこぼしてもいます。彼の政治への関わり方についてはいろいろと議論があるかもしれません。が、ここでは、ラップスタイルの変化とともに、リリックのテーマも変化し始めている、ということを指摘するにとどめておきます。ちなみにこの曲の「クラブのビーフはラップより喧嘩 ラジオのビーフはラップより大人」という歌詞はそれぞれ先に紹介したGUINESS、VERBALのことが意識されています。

もう一つの曲が、「HELL'S KITCHEN feat.サイプレス上野」です。この曲は、このアルバムの中で最も有名な曲ですし、SEEDAの代表曲の一つでもあります。これは社会や経済について歌った曲です。「いかれたオタクがMURDUR 田舎のギャル漁るプラダ TV付ければ捏造ばっか放送作家マスかくドラマ」という時事問題に触れる歌いだしから始まって、「ドラえもん もう見ない 飯島愛 見ることもない」といった固有名詞の多用など、当時の社会を映し出そうという意図があるかと思われます。これらが楽曲としての完成度を損なうように働いていることは間違いありませんが、一曲の意図を説明してしまうような最後の「これは時代を詰め込んだ BACK PACK RAP FRASH BACK RAP」という一節は、見事に歌われています。

このアルバムを発表後、SEEDAは裏方に回りたい、とラッパー引退を表明するのですが、半年ほどで復帰をしました。どのような心境であったのかは分かりませんが、このアルバムはSEEDAの新たな一歩であったということを考えれば、やはりまだまだラッパーとしてやり残したことがたくさんあったのです。

 

『BREATH』 2010年

前作『SEEDA』で、ラップスタイルにおいて大きな変化があったと言いました。この『BREATH』は、前部で19曲収録された大作で、前作でのアプローチをそのまま突き進め、かつトピックについてもそれぞれに深めたような一作で、後期(?)SEEDAの中でも高い完成度を誇る作品です。もちろん、大きなスタイルの変化から、賛否両論はあったようです。実を言えば、私もいまだに前期のラップの方が好きです。しかし、前作から続く彼の挑戦は、特に現在、再評価が行われるべきだとも思います。

この作品は海外のトラックメイカーの力を借り、世界最新の音楽を目指した作品です。ワールドワイドに動くSEEDAですが、ラップの内容も、グローバル化が進んでいた当時の社会を強く意識した曲が多く、トピックも多岐にわたり、前作から続く社会、政治、経済についての曲は前作に比べると構成などの点で進化、あるいは深化が見られます。少年時代を過ごしたロンドンでの思い出をつづる「FLAT LINE」、タクシーでの移動の速度感に乗せて「好きな日本を探す」一曲である「TAXI DRIVER」、多感な思春期を過ごした90年代を振り返る「BIX 90's」、資本主義の中での競争、国同士の戦争、環境汚染など世界中を支配する「弱肉強食」に対して愛と平和を対置した「ALIAN ME」などの曲があります。

特にラップが冴えている曲は、スムースなラップが心地よい「SET ME FREE」、「考えないフロウはアート 考えて書くリリックスはハート」というパンチラインが印象的な「THIS IS HOW WE DO IT」、既述のように、90年代を固有名詞を多用して振り返りながら「黄金年代」であったHIPHOPについてたどり着くまでの第三ヴァースがとても美しい「BIX 90'S」、これまではハスラーとして眺めていたSCARSの本拠地川崎を、工業都市として描いた「影絵(川崎~太田) feat. Bay4K」などがあります。ちなみに、川崎は現在とても注目を集めている場所です。磯部涼氏が『サイゾー』で連載中の「ルポ 川崎」がとても勉強になります。川崎について歌われた曲を挙げておきます。SCARS「MY BLOCK」、BAD HOP「CHAIN GANG」、KOWICHI「REP MY CITY」、MEWTANT HOMOSAPIENCE「KAWASAKI RELAX feat. YOSE」、PRIMAL「川崎 Back In The Day feat. bay4k」。

また、このアルバムで最も有名な曲は「WISDOM feat. ILL BOSTINO, EMI MARIA」でしょう。「MIC STORY」で共演した二人のラッパーに加えR&BシンガーのEMI MARIAを加えたこの曲は、オリコンにもチャートインしました。ちなみに、この曲でBOSSは「フレッシュさはメッシ スコセッシのような実績/併せ持つビンテージ MY KNOW THE LEDGE」と歌っていますが、これはアメリカのラッパーERIC.B&RAKIMの「JUICE(Konw the Ledge)」という曲を意識しているでしょう。ラキムは、HIPHOPの歌詞、フロウなどに多大なる影響を与え、HIPHOPの全盛期の一つ「ゴールデンエイジ」を代表するラッパーです。また、これも余談ですが、この「WISDOM」ののち、2012年にSEEDAとEMI MARIAは結婚することになります。

 

『23edge』 2012年

『BREATH』に続いて、メジャーレーベルであるEMIから出した『瞬間in the moment』発売後、わずか五か月ほどで発表されたのがこの作品。前作が多くの人に向けて開かれた、大まかにいえばメジャー向けの作品であったとすれば、今作は、そのような普遍性を保持しながら、よりラッパーSEEDAとしての側面が強い作品だと言えます。ハスラーとしてのきわめて個人的な感情、生活、光景などを歌ってきた前期、ストリートを抜け出し、社会や政治へと目を向けたあと、この作品でSEEDAは郊外での平凡な生活にたどり着いたのだと言うことができるかもしれません。ゲットマネーをこれまで歌ってきたSEEDAの、微妙だが重要な金銭感覚の変化が見られる曲として「小金持ち」、東京のリアルを描いた「TOKYO KIDS feat. BIG-T」、ここ数作で続いていた平和主義の標榜の系譜にあって「エジプトのピラミッド建てた頃から」など、そこに時間、歴史についての思考を付け加えて深みを出した名曲「LIVIN'」などが並んでいます。

 特に素晴らしいのはまず、一曲目の「BURBS」で、郊外の平凡な生活を滑らかなフロウで歌い上げるこの曲は、明確に「It ain't bout cash」「it ain't bout crazy」と、と歌われていますが、金や狂気(をもたらすものとしての麻薬や性)はかつてのSEEDAの中心的な主題でしたので、スタイルの変化がとてもよく表れた象徴的な一節だと思います。ハスラーの目まぐるしいスピードから一転、「ゆっくり時間が過ぎていく」様を、フロウで十分に表現しています。ここで明確になったのは〈ストリート〉から、彼が〈ロード〉を歌うようになったということでもあります。これまでも「山手通り feat.仙人掌」「道(23区) feat.MC漢」などの曲がありましたが、ここでの新境地は郊外に抜ける道路を、「追い越し車線」を使わずにゆっくりとドライブしてゆくような感覚だと言えばよいでしょうか。この「BURBS」では、国道「16号」「4号」「254号」線が出てきます。これは、東京の音楽、ということを模索したというSEEDAの試みの一つでしょう。

次に紹介したい曲は「PURPLE SKY」です。これは有名な曲です。「警察の親も息子も今日はsmoke together」「普段嫌いなあいつとも今日はsmoke together」と優しく歌います。「smoke」することで、かつては憎むべき敵であった警察とさえ、またアメリカの人々とさえ、煙を媒介にしてつながろうと呼びかける歌です。「みんなロボットに変わっても温かい心が俺には少しは必要/時計の針が壊れてくリズラ巻き戻そうとしても燃えてくいつも」という一節では、smokeするときの二つの動作、つまり巻くことと燃やすことが、時間を描く際にきわめて有効にはたらいており、リリシストぶりを発揮しています。ちなみに、このように葉っぱを吸うことについて歌う曲が日本語ラップにもたくさんあります。例を挙げるとすれば、YOU THE ROCK★「FUKUROU(YAKANHIKOU)」、BUDDHA BRANDブッダの休日」、妄走族大麻合掌」、MEGA-G feat. DOGMA「HIGH BRABD」、The タイマンチーズ「Ganja Ganja Ganja」などでしょうか。

そして、「How Far My Freind」です。ファンに向けてSEEDAが歌ってくれている曲です。「おしゃれしてくれた人も親の財布漁ってきたニート」でも、「必要とするなら」SEEDAはいつでも目の前に現れてくれると言います。そんな彼は「俺は一人じゃ意味ない」のであって、ファンのみんなが必要なのだと歌います。そんなやさしさに満ち溢れる一曲の中で最も美しいのは「天才勝てる時の努力家 ガキか大人の間小大人/山椒はぴりり辛いない愛想 正直と本音が幸せの才能」という一節です。繊細なリズム感と、後期(?)SEEDAに特有の滑らかな発音とフロウが一緒になっているのです。ちなみに、MVでは、待ち合わせに遅刻したSEEDAは、待ち合わせた人物にお詫びとして自販機で買った飲み物を渡して車に乗り込み、自分を「遅刻の王様」と言う映像がおさめられていますが、SEEDAの魅力的な人物像が見える映像です。みなさんもSEEDAのファンになって「ぷぷぷぷぷ」と笑いましょう。

 

さて、これまで主要なSEEDAのアルバムを挙げていきました。他には、激レアであるファーストアルバム『DETNATOR』(私も聞いたことがありません。再発を切に願うのみです)、『Green』と合わせて聞きたいセカンドアルバム『ILLVIBES』、また詳しくは触れていませんが、評価の低い『瞬間in the moment』があり、また、SCARS名義でのアルバムもあります。また、2016年、CPFで発売した会員400人限定の『8 SEEDS』もあります(私は会員になっていなかったので聞けていませんが)。そこで、上記のアルバム以外での、客演仕事などを中心に聞くべき曲をリストアップしていきます。

 

「FACT」 SEEDA BES 仙人掌 (『CONCRETE GREEN3』または『CONCRETE GREEN/WHITE CHRISTMAS』)

この曲は、日本語ラップの歴史に残る一曲です。BACH LOGICがトラックを担当していますが、彼の全仕事の中でも屈指の出来のこの曲に、SEEDA、BES、仙人掌の三人もまた彼らのキャリアの中でも最も素晴らしいラップを乗せており、日本語ラップ史上最も優れた曲の一つです。間違いなくこの曲は大傑作です。全ての言葉がパンチラインで、また、本当に独創的で、奇跡的なフロウのラップを聞かせてくれます。残念なことに、この曲が収録されているCDも廃盤で、まことに日本語ラップにとって大きな損失であると思います。大きな声では言えませんが、ネット上を探してみるとよいかと思います。 

ちなみに、仙人掌のことを知っているでしょうか?彼はMONJUというグループのラッパーです。MONJUは、仙人掌のほかに2016年、KOKの予選でのT-PABLOWとのバトルが話題となったISSUGI、またMr. PUGからなるグループです。クールなラップがとてもオシャレで格好いいグループで、昔から東京のアンダーグラウンドで活躍していました。また、2016年にはGRADIS NICE & ISSUGI『DAY and NITE』、仙人掌『VOICE』が発売され、比較的高い評価を得ているようです。ちなみに、彼らが所属するDOWN NORTH CAMPには他に、S.L.A.C.K、KID FRESINO、BUDAMUNKなどが所属しており、東京のアンダーグラウンドHIPHOPを支えてきました。またちなみに、仙人掌の「VOICE」という曲では、「売れたくなくても曲メイクしまくりな ペンが走らなきゃフリースタイルで突破」と歌われていますが、これは後で紹介するSCARS「COME BACK」のSEEDAの有名なパンチラインのサンプリングです。

I-DeA「Walk wit me feat. SEEDA」(『SELF EXPRESSION』)

SCARSでの活躍をはじめ、日本で最も優れたトラックメイカーの一人であるI-DeAのアルバムに収録されたこの曲は、とてもリリカルなラブソングです。第一ヴァースではほぼ全編英語でのラップを披露し、第二ヴァースでは日本語でラップをしています。何といっても流れるようなフロウと、感動的な歌詞が素晴らしく、聞いた人は、必ず涙を流すことでしょう。また、フックの三連符のリズムが非常に特徴的で美しいです。ちなみに、三連符は、トラップに多いスタイルですが(二拍三連符)、日本の(というよりもすでに世界の、と言えるかもしれませんが)トラップの代表者と言えばKOHHがいます。KOHHは、大傑作アルバム『DIRT』があり、曲単位では「FUCK SWAG」「貧乏なんて気にしない」「DIRT BOYS feat. Dutch Montana, Loota」「飛行機」などの代表作があります。

SWANKY SWIPE「PLAYER'S DRIVE feat. SEEDA & A-THUG」(『BUNKS MARMARED』)

SCARSのBESが所属するSWANKY SWIPEと、SCARSの二人のコラボレイト。格好いいビートの上でSEEDAがとにかくぶちかましています。「ダチのダチじゃ誰お前マジで知らねーどっか行け」「何が言いてえんだかさっぱり分からねーラッパーがいる」といった超パンチラインを残しています。

また、この時のBESは恐ろしいほどキレキレです。また、おそらくこの時期のBESのフロウに影響を受けているのが、クラシック「小名浜」で有名な鬼でしょう。BESとは違い韻が固いラッパーですが、フロウの面ではこの時のBESからの影響は確かにあるかと思います。鬼と彼の仲間、鬼一家の『赤落』というアルバムが有名です。BESは鬼の「ontime07」、「糸」などの曲に客演しています。特に「糸」は名曲で有名な曲です。

 L-VOKAL「What's UP feat. SEEDA, Bay4K, STICKY」(『摩天楼』)

SEEDAの盟友と言ってもよいL-VOKAL。とにかくこの難しいビートに完璧に乗せて、かつまだ見たことない動きを編み出してしまったL-VOKALとSEEDAのラップの上手さが圧巻です。「ハスラーならてめえの力で何か掴んでから名乗りな」!SEEDAのこの歌いだしだけでも、聞く価値が十分にあります。しかし、『CONCRETE GREEN』と同様、超レア盤かつ超名盤ミックスシリーズ『摩天楼』の特典音源のため、手に入れることがとても難しいのです。i-tunesにこの作品は入っているようですが、特典のこの曲はそこでは聞けないです。これも中古か動画サイトを探してみるしかないでしょう。L-VOKALはスムースなラップが特徴的なラッパーで、歌詞も非常にシニカルで面白いです。ファーストアルバム『Laughin'』で名をあげ、KREVAの全面プロデュース作品『別人Lボーカル』(このアルバム名はKREVAのファーストソロアルバム『新人KREVA』を意識しています)も話題となりました。 

NORIKIYO「REASON IS...... feat. SEEDA」(『OUTLET BLUES』)

 SCARSとSD JUNKSTAという日本最高のヒップホップグループのスター二人の共演した曲です。「日本語ラップぶっちゃけ興味もないわ」と本音を暴露しつつ、音楽と自由の問題について、独特の論理的な装いの歌詞の運びと、詩的な連想、隠喩などが奇妙な仕方で混じり合った素晴らしい歌詞で語っています。「馴れ合いが体制なら俺は犯罪」。

ちなみに、NORIKIYO、ひいてはSD JUNKSTAのことは知っていますでしょうか。NORIKIYOはSD JUNKSTAのリーダーで、素晴らしい歌詞と裏のリズムが独特で魅力的な、日本を代表するラッパーの一人です。彼は昔悪いことをしていて追われ、逃げるためにビルから飛び降りて足に不自由を持つようになった、という話はとてもとても有名なです。彼の代表作は新たなリリシズムでシーンに衝撃を与えた『EXIT』や、『OUTLET BLUES』、『メランコリック現代』などがあります。曲単位では、「DO MY THING」「2FACE feat.BES」「支払は満額で (feat. BRON-K & OJIBAH)」「秘密」などはとても有名なクラシックです。

また、相模原で結成されたSD JUNKSTAは、とても魅力的なHIPHOPクルーです。アルバム『GO ACROSS THA GAMI RIVER』『OVERDOSE NIPPON』はどちらもとても素晴らしいアルバムで有名です。仲のよさと楽しいノリが日本で最も良質のクルー感を醸しだす「レイノヤツ~SAG DOWN PARTY~」「飲む」はSDの魅力を伝えてくれると思いますし、「人間交差点~風の街~」は風の街で生きる彼らの想いを歌っており、とても有名で彼らの代表曲でしょう。

SCARS「COME BACK」(『NEXT EPISODE』)

ファーストアルバムで歴史に名を残すことを約束されたSCARSが戻ってきたことを高らかに告げる一曲で、SEEDAは先に述べたように「売れたくないなら無料でやりな ペンが走らなきゃカラオケ行きな/SCARSを歌いな 乗り移る川崎東京が」という有名なパンチラインを残しています。他のメンバーのヴァースも全て格好いいです。また、先に仙人掌がこのパンチラインを引用したことを紹介しましたが、他にBESの「YUME TO KANE feat. SEEDA」という曲でも、「ペンが走らなきゃ俺はただのクズ」と引用されています。

「ONE WAY LOVE feat. BRON-K」(同上)

SEEDASD JUNKSTAが誇るBRON-Kが共演した、リリカルなラブソングです。歌ものラップで、素晴らしい一曲です。「記憶の断片が 消えてくONE WAY LOVE」。

ちなみに、BRON-Kというラッパーもまたラップの天才です。おそらくSD JUNKSTAの中ではNORIKIYOに次いで人気のあるラッパーではないでしょうか『奇妙頂礼相模富士』は特に名盤で、特に「ROMANTIC CITY」「何ひとつ失わず」といった曲はとても有名な傑作なので聞いていなければなりません。また、客演仕事も多く、名フックをたくさん歌っています。

MICROPHONE PAGER「MP5000FT feat. ANARCHY, SEEDA」(『王道楽土』)

格好いいビートの上で、全員が格好いいラップをかましています。SEEDAの、「ノールックでブザービーター ONE TAKE BLAH ONE SHOT KILLAR」という部分はとにかく格好いいパンチラインです。

ちなみにMICROPHONE PAGERとは、〈KING OG DIGGIN'〉ことMUROと、天才TWIGYのユニットで、1995年の『DON'T TURN OFF YOUR LIGHT』というアルバムはクラシックで、多くのラッパーに影響を与えました。特に「病む街」という曲が有名です。

「GOOD BOY, BAD BOY feat. SEEDA, KREVA」(『くレーベルコンピ【其の五】その後は吾郎の五曲』)

SEEDAKREVAが共演した曲として「TECHNIC」をすでに紹介していますが、この曲もまた名曲だと言われています。「GOOD BOY」的なKREVAと「BAD BOY」的なSEEDAの二人の共演はやはり間違いがないのです。ちなみにKREVAというのは元はCUE ZEROというラッパーとBY PHER THE DOPESTというユニットを組んでおり、90年代からアングラな場所でラッパーとしてのキャリアを積んでいました。当時を知る人から聞く限りでは、凄いラッパーが現れたぞ、と評判であったともいいます。その後LITTLE、MCUとともにKICK THE CAN CREWを結成し、人気アーティストとなり、紅白歌合戦にも出場しています。有名な曲には「マルシェ」「イツナロウバ」「アンバランス」などがありますが、アルバムとしては『GOOD MUSIC』が評価の高い作品です。またソロでのKREVAも素晴らしい楽曲を多数残しており、「音色」「アグレッシ部」「イッサイガッサイ」「THE SHOW」「挑め」「基準」「OH YEAH」などが有名です。またアルバムとしては『心臓』が最も完成度が高いです。

またこの曲が収録されているアルバムの名前にある、熊井吾郎はKREVAのバックDJを務め、日本有数のMPCプレイヤーで、日本一に輝いたこともあります。MPCプレイヤーと言えば、ニューヨークの路上でのプレイをおさめた動画で有名になったSTUTSの、2016年発売のアルバム『Pushin'』は非常に好評を博しました。特に、PUNPEEとの「夜を使い果たして」は、2016年最高の曲に推す声が多く聞かれます。

SCARS「GUTS EATER feat.DEN G.P.S」(『THE EP』)

「時にはメンバーの半分が不在」の状態にまで追い詰められたSCARSですが、SEEDAを中心にSCARSを機動させて作ったEPです。SEEDAはこれまでになかったような発声とフロウを聞かせてくれ、やはり天才であると再確認させてくれます。不在のメンバーへの想いを歌っており、「BESフロウ飛ばす A-THUGのアティチュード いかれたバース小節にチャンス」という歌詞は仲間への愛を感じさせてくれ、とても胸が熱くなります。また、この曲のSEEDAは数多くの引用をしています。自分の曲や、SCARSのメンバーのパンチラインからの引用です。ここでそれを全て解説することは野暮ですのでしませんが、「MONEY, PAIN 切れないチェーン 二つの狭間不条理なゲーム」という一節は、すでに紹介したBESのパンチライン「結局MONEY, PAIN 切れないチェーン 煙の向こう終わらないゲーム」からの引用です。仲間への想いがとても感動的に歌われていて、かつとても格好いいです。ちなみにA-THUGのことをまだ紹介していませんでしたが、彼はSCARSのリーダーです。時に笑ってしまうような、めちゃくちゃな歌詞を歌っており、それがとても魅力であるとも言えます。また、トラップミュージックの隆盛以降、下手くそだとの声も多くあった彼のラップは最近以前よりも活力を増していると言えそうです。A-THUGは日本有数のパンチラインメイカーであり、最も有名な「Bloodsとつるみ Crackを作り Blockを仕切り Glockを握り」(「Pain time」「塀の中」)というものがあります。アメリカの恐ろしいギャングとつるみ、コカインを作り、街の一角を仕切るハスラーのリーダーであり、拳銃を握るのだという意味で、非常に恐ろしい、強烈なパンチラインです。2016年に発表されたDOGGIESの「DOGIES GANG」(KNZZ & A-THUG)の「雹と雪が降る 野菜を食べる」という歌詞も、とても危ない半端ではないパンチラインだと言えます。

また、A-THUGと同タイプのパンチラインメイカーには、T.O.P.がいます。特に「4 My Thugz」という曲は、すべての歌詞がパンチラインだと言え、あまりの規格外さに抱腹絶倒するしかない、といった曲です。「ギャングみたいに通りに溜まって ラスタみたくKushでキマって/ワックな奴めがけてRhyme飛ばす Bitchが口ずさむバースぶちかます」「仲間とつるんで 仲間と溜まって 仲間と吸って 仲間と歌って 仲間のために暴れJailに入る」「Chickを回してDickを突っ込む」などの歌詞があります。

MAJOR MUSIC「HOPE」

この曲は、3.11に際して、MEJOR MUSIC、SEEDAKREVAが中心となって動いたチャリティソングです。 KREVA後藤正文ASIAN KUNG-FU GENERATION)、Mummy-DRHYMESTER)、宇多丸RHYMESTER)、三浦大知SEEDA、EMI MARIA、KOJOE、lecca、TENZAN、MAJOR MUSIC(Bastiany&HirOshima)、Che'Nelle(US)、Karibel(US)が参加しています。日本と世界、ヒップホップと多ジャンル、東京と地方などが垣根を超えて力を合わせることの重要性を体現しているメンツではないでしょうか。

ちなみに、震災に際して多くのラッパーたちが声を上げました。GAGLE「うぶごえ」、楽団ひとり「NORTH EAST COMPLEX part 3.11」、S.L.A.C.K、TAMU、PUNPEE、仙人掌「But this is way」、般若「何も出来ねえけど」などの曲があります。

 

SEEDA Junkman kZm「BUSSIN」

ここ最近、シーンの中心に躍り出たYENTOWNの中心人物Junkmanと、kZm、そしてSEEDAが共演したこの一曲を聞いた人たちはとても驚きました。なぜなら、久しぶりにSEEDAがストリート感を取り戻し、キレキレのラップを披露しているからです。まず一言目でぶちのめされてしまいます。「I'm motherfuckin' SEEDA」ですし、続けて「排水溝のなーーか」です。本当に度肝を抜かされてしまいます。説明する必要があるでしょうか?フリースタイルダンジョンのライブでも「俺はストリートの代弁者」と、素晴らしいセリフを吐いてからこの曲を歌い始めましたよね。

また、Junkmanのヴァースも素晴らしいです。「いかれててもイケてりゃいいってこったな 嘘はめくられるストリートこっから」というのはパンチラインです。

YENTOWNは今とても人気が出はじめていて、危ないにおいを感じさせる、とても格好いいグループです。主要メンバーのMONY、PETZ、JNKMN(Junkman)で出したEP『上』『下』は最近のヒット作だと言えます。

 

他にSEEDAに関連して、聞いておくべきだと思われるアルバムをリストアップしておきます。

『SCARS PRESENTS: MIXED BY DJ TY-KOH』 CCG収録の曲などが収録されており、SCARS入門に手っ取り早いミックスCDと思われます。ミックスを手掛けたDJ TY-KOHは川崎出身で、SEEDAのライブのバックDJを何度も務めています。彼の主宰するFLY BOY RECORDも今活発に動いており、「バイトしない」は名曲だと言う人が少なからずいます。

SEEDA・OHLD・BRON-K『DESERT RIVER』

すでに紹介している二人に加え、素晴らしいプロデューサーであるOHLDが組んだのがこの「DESERT RIVER」プロジェクトです。非常に格好いい音に、二人のラッパーがラップを乗せています。このアルバムに収録されている以外にも、DESERT RIVERシリーズの曲はあります。また、SEEDAはこれと同時期にS.L.A.C.K、Zeebraとシングル『WHITE OUT』も発表しています。

SEEDA, DJ ISSO, DJ KENN『CONCRETE GREEN   THE CHICAGO ALLIANCE』

SEEDA、DJ ISSOに加え、アメリカ、シカゴのハードな環境で生き抜くDJ KENNを迎えた一枚。DJ KENNは、世界的ラップスターであるチーフ・キーフとも親交が深い人物です。サウスと川崎が手を組んだ一枚となりました。また、PUNPEE「憧れのCONCRETE GREEN」を聞くと、CCGがいかに日本語ラップ界で権威があり、大きな貢献をしてきたかが分かります。P様でさえ、ド緊張してしまうのがCCGなのです。ちなみに、PUNPEEは弟S.L.A.C.K、同級生GAPPAERとユニットPSGを結成し、アルバム『DAVID』で絶大な評価を得ました。パンピーどころでなく天才との評価は揺るぎないものの、ソロでの仕事のほとんどがプロデュース、ミックス、客演などでまとまった音源はいまだ発売されておらず、多くの人がソロアルバムを待ち望んでいます。

I-DEA『SELF EXPRESSION』 SCARSのトラックメイカーI-DeAのアルバム。SEEDAは二曲参加。また、SWANKY SWIPE「評決のとき」のオリジナル「ONE DAY」も収録。ちなみにI-DeAのレコーディングは非常にストイックで、「I-DeA塾」と呼ばれています。

STICKY『Where's My Money』 SCARSのSTICKYのソロ。SEEDAも一曲客演参加。

bay4k『I AM...』 SCARS、練マザファッカーのbay4kのソロ。SEEDAも一曲参加。ちなみにbay4kは、ダウンタウンが司会を務めていたかつての大人気バラエティ番組『リンカーン』の企画「ウルリン滞在記」に練マザファッカーのメンバーとして出演しました。リーダーD.Oの「いいぜメーン」が流行語となりましたが、二番手的な立ち位置のbay4kをはじめてとしてメンバーたちが口にする「ディスってんの?」も流行し、現在では一般的な言葉として定着しています。

 BES『UNTITLED』 捕まっていたBESだが、敏腕318の指揮の元、仲間たちが力を合わせて完成させたBESの最新アルバム。SEEDAは二曲参加。

SAC『FEEl OR BEEF』 SCARSのトラックメイカーSACのアルバム。SEEDAは二曲参加。SCARS、SDの面々の他に神戸薔薇尻、鬼なども参加しています。SCARS『THE ALBUM』の「In Dro」のリミックスも収録。

DJ MUNARI『THE ALBUM』 HIPHOPの本場ニューヨークに渡り「下剋上」を試みたDJ MUNARI(A-THUGによれば「無也 無から有を生むなり」!)だからこそ実現した名盤であり、SEEDAは二曲参加。アメリカ、ギャングスタラップの大御所KOOL G RAPと、日本の般若が夢の共演を果たした「DEAD OR ALIVE」も収録。

『BOOTSTREET PRESENTS : Rapsta On Bootstreet』 JASHWONとD.OのBOOT STREETが手を組んで作られたコンピ。SEEDAは一曲参加。BOOT STREETはかつて、渋谷に店を構えていたショップで、とても有名であった。多くのMVにも映っている。SEEDAの「SHIBUYA SHIBUYA feat. bay4k」のMVに映っているように、かつて渋谷のHIPHOPの象徴の一つでありました。

マイクアキラ『THEラップアイドル』 SEEDAは一曲客演参加。マイクアキラは四街道ネイチャーのメンバーで、本当にいかれています(もちろん褒め言葉です)。四街道ネイチャーは、伝説的な二つのイベント、さんピンCAMPと大LB祭りのどちらにも参加した唯一のアーティストです。アルバム『V.I.C. TOMORROW』があります。

Squash Squad『Objet』 SEEDAは数えきれないほどのアーティストをフックアップしてきましたが、その一組にSquash Squadがいます。独自の世界観を持っているアーティストです。SEEDAも一曲参加。ちなみにメンバーのVITO FACCASIOは2016年、フリーミックステープ『Rehabilitation』を発表しました。

VIKN『CAPITAL』 ストリートヒップホップの重要な担い手であるVIKNのアルバム。SEEDAも一曲参加。また、「STARTING 5 feat. BES, GUINESS, A-THUG & NIPPS」は多くのリミックスを生みヒットしました。

SMITH-CN『yumenokakera』 引退宣言後のSEEDAがA&Rを務めたSMITH-CNのファーストソロアルバム。SMIITH-CNはSNIPEとEESENCIALを結成していたラッパーで、後にR-RATEDに所属します。特典CD-Rとして限定配布された「2010 feat. SEEDA」は今となっては手に入れることが難しいですが名曲です。

OKI from GEEK『ABOUT』 「Sai Bai Man」やCCGへの参加、TERIYAKI BEEFなどで知られるOKIのファーストソロ。SEEDAは一曲参加。「四畳半劇場 feat. NORIKIYO」などの名曲も収録。

 

 

 

 

 

絶対的にHIPHOPであるために

 ここ最近、TWITTER上で限りなく暴言に近い批判を繰り返してきた。反省している。文字数の制限があり、伝えるべきことを十分に書くことができないと感じたので、ここに書く。

 

 11月16日放送の『フリースタイルダンジョン』、じょう VS T-PABLOW戦について、じょうがバトルに勝利したことに不満を漏らしているツイートをいくつか見た。しかし、個々人の好き嫌いは別として、勝敗についてプレイヤーには責任は一切ないことをまず押さえておかねばならない。言うまでもなく、ラッパーは何を言ってもよいし、どんなラップをしてもよい。客に媚びてもよいし、バトルはエンターテイメントだと割り切って嘘八百を並べたり、事実と異なるディスをしても、何をしてもよい。重要なのは、観客及び審査員の評価基準である。バトルにおいてプレイヤーは丸腰であり、その身とマイク一つしか持ち合わせないからだ。力を持っているのは観客(バトルの判定はそれぞれのバトルで異なるので、便宜上審査員も「観客」に含めることにする)である。

 MCバトルとは、裁判であり、政治である。純粋なエンターテイメントだとは言えない。バトルに勝つことはラッパーの権威=プロップスになるからだ。多数決の原理に基づいて、どちらに権威を与えるかを決める場である。バトルはバトルである、と楽天的なことは言えない。それは日本語ラップシーンの外にいる者の発言であり、もしそうであると認めるならば、誤解のないよう明確に宣言してもらいたい。シーンの法を無視しつつバトルで得たプロップスを利用し、その上でバトルはエンターテイメントであり権威やシーン内の政治とは無関係だと言う都合の良い二枚舌は許されない。このことを批判すべきであり、そうすることができる者は観客以外にはいない。バトルは価値観を戦わせるものであり、その優劣を決めるのは観客である。観客はそのことと無関係ではいられない。もちろん、その場にいなかった者が観客の決めた判定を覆そうとすることは許されない。しかし、観客に権限があるということは、観客の判断基準、趣味が変わるならばシーンにおいて力を持つラッパーを変えることができるということだ。観客はバトルを通して(バトルに限らないが)シーンを変えることができる。「全て支えてきたヘッズたち」!

 勝敗に文句をつけることは許されない。しかし、それを決めた観客の趣味を批判することは可能だ。バトルでは何を言ってもよいとするラッパーを選ぶこと、倫理的な制約を無視し悪口の限りを尽くしその場の面白さを優先するラッパーを選ぶことについては十分に批判されるべきである。バトルは新しい価値観を生む場である。即興であること、というのはこの新しさのことを指しており、例えば「ネタ」の是非などといった話とは一切関係がない。価値観とは、リアルの別称である。何を言っても許される場であるからこそ、リアルな言葉を求め続けるべきだ。またここで注意が必要だが、リアルとは現実に起きたことをラップすること、ステージの裏と表に関わらずラッパーが同じ振る舞い、言葉遣いをすることなどを指すのではない。リアルとは、言葉が権威を持つということだ。どのようにして、バトルで新しい価値観が作り出されるのか。いくつも方法はある。例えば、ビートにラップが上手く乗ったとき。言葉は、ビートと上手く絡み合うことで、無法の状態を抜け出し、リズムによって制約が与えられ、リアルになる。韻を踏むとき、踏まれる言葉と踏む言葉は相互に絡み合い、リアルになる。ラッパーのそれまでの経歴(インタビューでの発言、楽曲で歌ったこと、これまでの活動等)と今バトルで吐かれた言葉が結びつくとき、言葉はラッパーの経歴を準拠とし、リアルになる。アンサーを返すとき、相手の言葉が足場となり、言葉はリアルになる、等々。むろん、ただ上手くビートにアプローチすれば、韻を踏めば、アンサーを返せばよいというのではない。二つのもののがどのように関係しているのか、その関係の仕方に応じてリアルであるのかどうかを判断しなければならない。

 観客は投票権を持っている。彼は参加者であり、責任を持っている。だからこそ、観客が趣味を鍛えることが必要である。ラッパーの言葉がリアルになる瞬間を見逃してはならず、きちんと判断せねばならない。「本物偽物見極めるお前らの耳が見物」。観客は見られている。

 ここで一つ反論に答えておきたい。今の観客が、バトルで何を言ってもよいとするスタイルを「新しい」ものとして、それを選択したのだから、新たな価値観が生まれているのではないか、という意見に対してである。端的な間違いである。ここで言っている新しさとは、「古さ」に対して存在する相対的なものではない。絶対的な新しさであり、即興である。例えば、韻を踏むとき、客に媚びるように語尾を甲高く発音するラッパーがいるとする。彼は新しさを生まないという意味で絶対的に古いのだ。なぜなら彼は、客の足元を見て、それに合わせてラップをし、リアルを偽装し、客をだますことで勝ちを得ているのであり、客と演者の間で現状肯定のための密約が結ばれているに他ならないからだ。

 具体例を挙げて説明しよう。『フリースタイルダンジョン』におけるACE VS T-PABLOWは、とても分かりやすい。T-PABLOWは、ACEがラップスクールを開き、受講者から金を取っていることを「アコギだな」と批判する。観客に、自らの地元の川崎に来れば無料でラップができると呼びかける。客に媚びているだなどとバカげたことは言うまい。川崎で彼はそうしてラップを覚えたのであるし、ほとんどすべてのラッパーは金を払わずにラップを覚えたのである。「金かかんないでラジカセ一個囲んでラップ出来んのがHIPHOPじゃねえのかよ」というPABLOWに対して、後攻のACEは「魂そして声だけあれば成立するのがHIPHOPなんだよ」と返答する。ここで争われている価値観は、「HIPHOP」についてである。ラジカセさえ必要ないというACEは確かに本当のことを言っているだろう。ラジカセがなくてもラップは出来る。しかし、彼の言葉はリアルではない。彼がラップスクールで金を取っているのは事実であり、PABLOWの指摘を無視している。また、彼は即興で言葉を吐いてもいない。ACEがラジカセを不必要だというのは、単により少ない、より貧しい方が「HIPHOP」であり、「魂」という抽象的で何やら至極真っ当そうなものが「HIPHOP」である、と言いたいだけである。「HIPHOP」というものの価値観を新たにしようとはせず、抽象的な物語をそのまま肯定しているだけである。しかし、バトルでの言葉の一つ一つをあまり重く見すぎることは危険なことだ。第二試合では、T-PABLOWが「かっけえのが正義だろ 嘘じゃねえ前歯十本折られて学んだHIPHOPと礼儀作法」と言う。対してACEは「前歯十本折られた後に 心の牙をACEにポキっと折られて終わり」と返す。これはアンサーではない。物語という制度にまみれた言葉だ。累加という物語の欲望に従って、折るものをねつ造した言葉である。これらを見ればどちらの言葉がリアルになったのかが明瞭に分かるはずである。T-PABLOWは勝利した。

 言うまでもないが、価値観の創造という点で触れなければならないバトルはBBP2002の決勝、般若 VS KANであった。盟友が互いに相手を認めながら、バトルの外にあるより大きな敵と戦ったその伝説的な試合において、彼らは押韻主義を否定した。そしてこの新たな価値観はリアルになった。後にこの二人が発表した数々の作品の中で、実際に彼らは押韻というものを根底から変革した。これこそがMCバトルである。

 

 バトルは一つの審級である。技芸を競うだけではない。テクニックとスキルの違いを明らかにしておこう。テクニックとは、応用可能なものであり、リアルなものではない。スキルとは、即興のものであり、模倣不可能な固有のものであり、リアルなものだ。テクニックの中でしか生まれ得ないが、テクニックを無効にしてしまうようなものがスキルだ。「心に書き留めたフリースタイル 生かすも殺すもスキルが介す」。これは何もフリースタイルであるか、制作された楽曲であるかの違いとは無関係にそうなのだ。スキルが全てである、というのはスキルが媒介であり、スキルを見ることによってしかリアルであるのかどうかを判断することはできない。ここで言うスキルとは、小手先の韻やフロウといったものでも、生き様と無関係なものでもない。そんなに矮小ではない。押韻やサンプリングはほとんどの場合テクニックに過ぎない。むろん、そのような困難があるからこそ、多くの問題をはらんでいるのだが。声やフロウは、本来は模倣できないもので、そのラッパーに固有のものだ。しかし、これはなぜだろうか、優劣を判定するのが難しいもののようである。

 先日発売されたISSUGI&GRADIS NICEの「How Ya Living feat. BES」でISSUGIは「ラップの形だけパクられた」と歌っている。この摘発はありふれてはいる。しかし、ラップの模倣可能なものだけが「パクられ」て、リアルなもの(それはテクニックとスキルが衝突する瞬間だ)が失われてゆくとしたら、それは放ってはおけないものだ。例えば、短歌や俳句に「ラップの形だけ」を取り込むとしたら。

 『IN&ON』はそれを目指した雑誌であるらしい。誤解を避けねばならないが、「ラップの形だけ」を模倣することは責められるべきことではない。重要なのは、それが価値を生むのかどうか、である。実際、いくつかの俳句及び短歌は、それがいくらかではあれ、ラップと短歌を出会わせることの必然性を得てはいる。また、反対にラップを取り込むということだけに満足した程度の低いものもある。ここではそれについていちいち触れない。多少とも必然性があるならば褒められるだろうし、くだらないものならば批判されるだけだ。

 作り手の多くは、日本語ラップという文化がいかに濃密であるか、また作り手ら自身がその日本語ラップの文化にあまり詳しくはないことを認めている。それはよい。知識の多寡は一切問題ではない。しかし、最大の問題は、そのことを認めながらも、知識が足りないために批判されることを恐れ、それを姑息な手段で回避しようとする姿勢にある。ラッパーのゆうまの「ラッパーが短歌と俳句について語る――「ふつうの人」の視点から」という文章である。ゆうまが説くところはいたって平凡で、取るにたらないほど陳腐なものだ。いわく、俳句や短歌に関わる人たちは門外漢の筆者に俳句や短歌について語らせてくれた。この雑誌に関わっていない歌人の方も許してくれるだろう、悪いことをしているのではないのだから。翻ってみれば日本語ラップシーンの人間は、詳しくない人がラップのことを語ることを拒む。なぜそうするのだ、ラップのことを語ってもらえるのはありがたいことではないか。

 おおよそこのようなことを言っている。いちいち批判するのもバカげている。詳しくなければ語っていけないなどということはない。ただ、無知は間違った言辞を誘いやすく、間違ったものにはその都度批判を加えるだけだ。知識の多寡は問題ではない。しかし、より大きな問題は、ゆうまが一応はラップシーンの内部にいる人間だということだ。ラップに詳しくない人たち、すなわちここではラップについては別段詳しくもないが、ラップと定型詩についての雑誌を作った彼らは、ゆうまに当事者として、内部の人間として、語る許可を与えてもらっているのだ。

 なぜ、語る許可を得ようとしたのか。ここに問題のすり替えが潜んでいる。彼らは、彼らが犯すかもしれない間違いについての責任を放棄する。彼らは俳句や短歌について門外漢であるゆうまに語らせ、代わりに日本語ラップについて語る許可を得る。語ることの許可の問題は、書かれたもの自体への批判可能性の次元を隠蔽する。茶番である。

 当事者と門外漢という問題は日本語ラップについての言説に常について回る問題である。この対立は容易に和解せられるものではないし、またそうすることが正しいのかもわからない。であるというのに、賄賂を渡してこっそりと門を開けてもらうなどということは許されない。

 『サイゾー』2010年7月号にて行われた「日本語ラップという不良音楽 対談――磯部涼×佐々木中」で、佐々木は門外漢でもなければ内部の人間でもない「オン・ボーダー」であると自らを規定しながら、日本語ラップは独自の言語を持っているのだから、哲学や思想といった外部の言葉でそれを語るような「下品なこと」はしたくないと言っている。マイナーな者の声について他人が語るとき、そこには常に政治性が存在し、だからこそ語るに際しては慎重にならなければならない。当事者でない者ならばなおさらである。ゆうまの言う「ふつうの人」というのは、その政治性を回避したい者がねつ造した抽象的な虚構であるに過ぎない。反対に、磯部はインサイダーとしてどこまでも当事者に付き添うことで語る者なのだと言える。ここでは二種の立場が存在している。沈黙、絶句することと、接近の試みを続けることである。やってはならないことは、日本語ラップに今欠けてるもの、例えば商業的成功、高尚さといったものを与える代わりに、彼らから搾取をすることだ。

 ここで提出された問題は日本語ラップについて語る者に、当然私にも返ってくる。これまで私の書いた、そしてこれからも書くだろう文章は佐々木がいうところの「下品なこと」に当たっているのだ。それでよい。例えば、作者のことを一度括弧に入れて作品だけを語るのだから政治性とは無縁だ、などといった虚構をでっちあげる必要ない。そんな欺瞞をして何になるというのか。不誠実で、半端で、愚鈍でもあるのだから、私は間違いを犯しているのかもしれない。しかし、語る許可も、犯した間違いへの許しも必要ない。「発言権」は「俺から俺へ」与えるものだ。素晴らしい作品の素晴らしさを語る。批判されることを避けようとは思わないし、むしろ批判を必要としている。なぜ、当事者に許可をもらおうなどと考えるのか。「ラップの形だけパクられた」と批判されることをなぜ回避しようとするのか。もしかすると、形だけパクられることは、当人たちにしてみれば許せないことなのかもしれない。形式的なもの、サンプリングや押韻などといったものを七五調に重ね合わせる。そのことはよい。だが、形式的なものが思想や政治性と無関係であることにはならない(でなければ私は押韻について語らない)。

 先の磯部×佐々木対談においても、韻の歴史は長く人間の生理と深く結びついたものだと言われている。和歌でも韻が踏まれていること、日本における漢詩の受容などといったことが、HIPHOP用語を用いて説明されている。日本の韻の歴史と日本語ラップを結び付けて語ることが「言語ナショナリズム」に利用されることを両者は危惧し、その意図がないことを説明してはいる。ここで対談両氏と『IN&ON』の作り手は似通ってくるかに見える。押韻という形式的なものを取り出し、外側へ持ち運ぶという点で。むろん、両者とも日本語ラップが復活させた日本語での押韻について十分な敬意を払っているだろう。しかし、押韻をめぐる種々の立場は、いとうせいこうキングギドラ、78年式のラッパーたちと続く日本語ラップの歴史の中心にあったものだ。韻を踏むこと、あるいは踏まないことは一つのシーン内において政治的な立場の表明である。それは既述したKREVAスタイルと、それを打ち破った78年式の二人の立場の違いからも明らかである。対談において、「言語ナショナリズム」について警戒しているのは、韻が政治的であるということを自覚しているからであろう。その点、この同人誌の作り手たちは、日本語ラップに詳しくはない、MCバトルを見てはまっただけである、と言うことで、政治性を無視しているように思われる。形式だけを移植すれば、日本語ラップヘッズシーンの価値観とは関係がなくなり、批判の声を避けられるのだとでも言いたいのだろうか。

 サンプリングという技術も押韻と同様に政治的な技術である。当の『IN&ON』に収録されている矢野利裕「日本語ラップ情緒論」では、和歌を巡るいくつかの知見を利用し、日本語ラップの言葉の「協働性」について語っている。折口信夫の説く和歌の「斜聴作用」(今ある言葉に別の言葉が付いて回ること)は、例えばサンプリング、本歌取りの技術に顕著である。「彼ら(日本人ラッパー)のラップには、かつてブロンクス地区の一角でおこなわれたラップの記憶が、『情調』として抱えられているのだ」と論は締めくくられるが、これは形式には政治性が付いて回るという指摘に他ならない。和歌の中で日本語ラップの楽曲や、バトルでの発言を「サンプリング」するとき、彼らは彼らの立場を暴露している。いくら当事者を招き入れ、語る許可を得たとしても状況は何も変わらない。七五調には、例えばそれが歴史的にきわめて権力と近い場所にあったことや、日本固有の文学の伝統であるといった評価が付いて回り、日本語ラップにはこれまでの歴史が、さらには「ブロンクスの一角」の光景さえもが付いて回る。作り手にはその自覚があるのだろうか。

 ここで思い出されるのはマルコムXの分離主義である。彼は人種間の融合を拒否しようとした。後年、メッカ巡礼の体験を経て、融合が成功するならばそれは望ましいことだと認めたとしても。マルコムが摘発したのは、融合という名を掲げておいて、むしろ搾取の構造をより強化させる体制の欺瞞であった。であれば、新たな共同体を自らで作るべきだと主張した。名ばかりの融合など捨ててしまえ、と。これは日本語ラップブームの今、再考されなければならない問題である。なぜこれまで幾人ものラッパーたちがセルアウトをかたくなに拒んできたのか。自分たちの言葉が外部の人間に奪われること、これは搾取である。日本語ラップが閉鎖的である?そんなことを甘ったれた自分勝手な不平を垂れ流す権利が誰にあるというのか。一応繰り返すが、だからといってラップを外部の人間が利用することを禁止しろなどとは言っていない。そこには慎重になるべきだと言いたいだけだ。そこに知識の多寡は直接には関係ない。佐々木中は言っている。「これは『仁義』の問題なんですよね」。

  「この街では土地柄あって よそ者ハンデ 土足はなんねえ」。ハンデを背負うことを拒否してはならないし、ハンデなど存在しないし存在するならば一刻も早くそんなものを無くして平等に開かれた言説の場を作るべきだといった意見は概して欺瞞的である。「あげたくないけどやるよハンデ」。日本語ラップは多くの者にハンデを与え/奪われてきたのだ。そのことに無自覚でいることは許されない。日本語ラップが外界と触れるとき、多くは抑圧にあうか、搾取されるかであった。むろん、利用されることと引き換えに、利用し返すという方法もあるだろうし、それに成功した例もある(『リンカーン』に出演したD.Oはそれを上手くやってのけた。「分かってるぜその動きが作戦だってことくらいは」とは、D.O自身に向けられるべき言葉だ)。しかし、失敗する危険もある。

 今後シーンがどのような方向に向かうのかは分からないが、常に新たな価値観の闘争の場所であることを望む。

『空からの力』について 日本語ラップの起源

 

 『ユリイカ *日本語ラップ特集』に寄稿した文章の中で、押韻はラッパーたちにとって「過剰な欲望の対象となった」と書いた。この点についてより深く考えてみたい。そう思ったのは、7月29日におこなわれた「日本語ラップ批評ナイト」で「78年」生まれの代表としてTOKONA-Xについて話したとき、意図が上手く伝わらなかったからである(もちろん、話すのが下手くそであったからというのが第一の原因であることは自覚している)。歴史の中で日本語ラップの核心であり革新をおこなった「78年式」のラッパーたちを語るための前提をはっきりさせておかねばならない。ゆえに以下の文章は、その時話したことから大きく逸脱しているように見えるが、すべて「批評ナイト」のおかげで出来たものであるということを明言しておきたい。

 

 キングギドラの『空からの力』は日本語ラップの教科書とされている。このアルバムが記念碑的な作品であるのは、困難であった日本語による押韻が可能であると知らしめたことにあった。このことは十分に定説となっているとはいえ、例えば次のような記述を無批判に受け入れることはできない。

 

この押韻についても、1995年のキングギドラのアルバム『空からの力』の影響力は大きい。彼らは韻の方程式を輸入し、教科書化した。彼らは、それ以前まで多かった二音/文字踏み(ex. 嘘の勝ち負け/ただ虚しいだけ)に疑問を呈し、少なくとも三音/文字以上踏む(ex. 自由に飛ぼうと/もみ消す証拠)のが押韻への礼節であるとの態度を身を以て示したのだ。(吉田雅史『小説トリッパー』収録「漏出するリアル」)

 

 いくら日本語ラップの歴史を素描するための流れに書かれているとはいえ、ギドラの押韻が画期的であった理由を音数の問題に変換するのは浅薄だと言わざるをえない。例えば、吉田が同論文の中で引用しているいとうせいこうの「世紀末だった」「欲しがった」という韻は三音であるが、これをどのように説明するのか。ギドラ以前と以後の押韻には質的な差異が存在しているのであり、それは音数という量的な問題に移し替えることはできない。ギドラの押韻の新しさは、九鬼周造の言うような意味での偶然性の高い押韻をおこなったことにある。助詞や助動詞といった種類の少ない品詞での押韻は偶然性に欠けてしまう。

 ギドラは自身で証言している通り、渡米中に現地で日本語でラップすることを目指しはじめたが、では彼らは何を「輸入」してきたのだろうか。押韻を輸入してきたのだとは言えないはずである。それでは彼らに独自なものを見落としてしまうからである。そうかといって、彼らにとってのアメリカが大きなものだったことは間違いない。吉田は「方程式」と言うが、これは何を示しているのだろうか。「韻の方程式を輸入した」という記述が正しいのは、彼らの輸入したものが抽象的で形式的なものだという点においてであるが、しかしそれは「方程式」というよりも法と言った方がよい。ギドラが画期的であったのは押韻を制度化したことであり、音数の問題が出てくるのはこの法が発効されてからの話である。より多くの音数で韻を踏もうという試みは法から派生したものである。ギドラ以後においてのみ、法の空間内においてのみ、押韻の音数は増加しうるのだし、逆にいえばいとうせいこうから押韻主義などは生まれることはない。『ユリイカ』でいとうにインタビューした磯部涼は現在の日本語ラップシーンの中心にいるようなラッパーたちが「日本語によるライミングに関しても、せいこうさんが批判的にアプローチしてきたのに対して、ある種、愚直に突き詰めたからこそブレイクスルーしたようなところがある」と言っている。この「ブレイクスルー」、「まずはエントランスゲートが吹っ飛」(Zeebra「Mr.DYNAMITE」)んだ瞬間が『空から』なのだ。重要なのは「愚直に」、「捨て身で突っ込む」ことだ。いとうは愚直になることが出来なかった。押韻及びラップの言葉に対して、いとうとギドラの立場は正反対なものとなっている。いとうは同インタビューで「AABBCCDD」といった形態の押韻を古臭いものだとしているが、『空から』二十周年を記念し再発された際に行われたインタビューで当時を振り返ったKダブシャインはいとうとは対照的に次のように述べている。「ラップの基本だと思うんだけど、上の句下の句みたいな感じで、ある程度二小節で完結するようなのがいっぱい並んでるじゃない」。Kダブ及びキングギドラはいとうが否定的であった「AABBCCDD」の形を肯定する。いとうは「『韻なんて関係ない』と言って、掟から解放されて自由になっていた現代詩の人たち」に同調しているが、ヒップホップの「掟」である「AABBCCDD」、この二進的で単純な構成を受け入れることは古典的なものにとらわれるということなのだろうか。そうではないだろう。「騙されたと思って韻踏め」とKダブはUZI「韻」の中で歌っているが、なぜ押韻に対して盲目的でありえたからこそ、日本語ラップというものが今存在しているのである。ベイトソンが言うように、二つのものの間の差異(例えば両目の視差)が、論理階梯の層(奥行)を作り出して行くのであり、日本語ラップシーンのはじめの差異がこの二進的な押韻によるリリックの構成であり、日本語ラップの歴史は、「点と点」→「線と線」→「面と面」(NITRO MICROPHONE UNDERGROUND「STILL SHININ'」)、つまり語と語、歌詞と歌詞、ラッパーとラッパーというような過程をたどったのである。いとうからは押韻主義的な思考が生まれえないわけは、押韻する語に比較されるべき意味が欠けており、そこに差異が生じないからであり、押韻が何かを生み出すこと、押韻が欲望となることはありえないのである。

 彼らは法としての押韻のみを「輸入」した。そしてこれが、思想としてのヒップホップの中の「要素のひとつだったラップという言語表現が、いつの頃からか独自の歴史を歩んでいる」(磯部)というときの、歴史の第一歩なのである。磯部が的確に言わんとしているのは、「職業的隠語」(バフチン)としての「ラップの言葉」の独自性であり、語るべきなのは上述のようなヒップホップから切り離された言語表現が反対に思想を作り出していくという転倒した日本語ラップに独自の歴史である。

 アメリカからギドラが押韻という法=「掟」を輸入したということは、アメリカの模倣を達成したということではない。ラカンにならって言うならば、模倣の欲望は充足されることがない。法の実践のために不可欠であった日本語の語順の転倒という操作が示しているのは、模倣の充足のための技術的達成などではなく、模倣の不可能性の痕跡なのであり、日本語ラップ想像界から象徴界へと移すための、シーンを成立させるための、ファルスの去勢なのである。父=アメリカへの同一化の果てしない欲望としての「ラップの言葉」が日本語ラップの独自性なのである。その意味で押韻は欲望となるのである。したがって、ラップの押韻の形態が古典的であるといった批判も、それがアメリカの模倣の達成だと見ることも、日本語ラップの独自性を見落とすという点で同様に胡乱である。

 しかし、法としての押韻とはどのようなものであろうか。それは母音の共通と押韻を隔てるものだと言える。母音が共通しているからと言って(日本語ラップにおける文脈で、ということだが)押韻しているとは言えない。ギドラはそれまでのラップで行われていた押韻を、押韻ではないと厳密に区別した。上述の通りその質的差異は偶然性にあるのだが、ギドラが彼ら自身の韻、例えば「大怪獣」と「再開中」という母音の共通する二語の関係を押韻だと言うことが出来るのは、彼らが親しんだアメリカのラップにおける法を、日本語の押韻を権威付けるものとして参照するからである。母音が共通していることを、押韻という関係として言い表せるのは法の場としての象徴界においてであるが、この変化は贈与と交換の違いと似ており、ビート上にギドラは市場のような区間を形成したのである。言い換えればこのような空間においてのみ語同士が比較され、並置され、関係を測定されるということである。九鬼の言うような押韻の詩的効果は、語の意味やイメージなどの類似と音の差異の度合い、語同士の距離を測ることで算出される。つまり、語同士が比較可能になったということである。ここではベルクソンドゥルーズ的な意味での強度的差異が語から排除されていなければならない。押韻が可能となる空間においては、同一性に保障された差異のみが問題となるのである。そうでなければ押韻の詩的効果の産出過程、まず第一に音の類似によって語が引き合わされ、次にそれぞれの意味やイメージが比較されるという過程は成り立たないからだ。押韻が類似音の反復であるというのは端的に間違いである。なぜなら押韻とは語同士の関係のことだからだ。その意味でギドラの韻を「方程式」だと言うのは妥当性がある。ギドラ的な押韻において、語はただ代入されるものとしてしか存在しえなくなるからだ。そこでは、すべての語は変数Xとして表象されうる。音数の問題はこれ以後に起きることである。韻の方程式はいつも九鬼周造の言うような押韻の快感、偶然性と必然性が接触する快感を弾き出すが、より多くの音数で押韻を踏んだとしても、この方程式の決まりきった解を変更することはないのだ(例外。たとえば十数文字で踏んだ場合、事情は変わってくる。そこに押韻の妙味は生じない。方程式があくまで比喩であるということを示している。)。

 語が代入可能となることは、語が等質的であり、選択可能になり、パラディグムの列を作り出すことであるが、このような布置の形成は技術、テクノロジーの問題である。技術がこれらを可能としたのであり、輸入されたヒップホップのテクノロジーの応用がおこなわれたのである。ヒップホップはポストモダン的であると言われるが、サンプリングという方法を考えてみよう。音楽作品の中から、任意のフレーズや音などを抜き取り、切り合わせる。自らもビートメイカーである吉田雅史は『ユリイカ』に寄稿した「ホモ・ルーデンスのビートメイキング」の中で、ビートメイカーの性分として次のような「日常」を語っている。「彼らは、日常生活で音楽に触れるあらゆる場面で、それらを単なるBGMとしてではなく、サンプルソースとして聴いてしまう」。「サンプルソース」を見つけ出すことが「日常」となっているビートメイカーたちにとって、彼らのアンテナが反応する「対象となるのは、ありとあらゆる楽曲」なのであるが、ここで問わねばならないのは、そのような耳がどのように作られたのかということである。より本質的なビートメイカーの耳の性質は、すべての楽曲、音の同一性を解体しているということである。音はひとつの作品の一部としての同一性を剥奪され(全体に対する部分というのは九鬼の定義した三つの偶然性の一つである)、すべてが物質的な「サンプリングソース」として受け取られる。この点、ビートメイカーたちは間テクスト空間にいるのであり、音楽を引用の織物とする。このようなヒップホップの技術を、キングギドラも同様に用いている。ここで言う技術とは応用可能なテクノロジーの云いであるが、ギドラはこれを言葉に応用するのである。実際、吉田が書いたビートメイカーの日常とライマーのそれは同じようなものなのだ。押韻主義的なバトルMCであったチプルソはインタビューにおいて、ビートメイカーが「あらゆる楽曲をサンプルソース」として聞くのと似て、あらゆる語をライムソースとしてとらえている。「あと僕はもう酒でベロベロとかになったら、全部が韻に見えるんですよ。だから今でも、“喫煙禁止”…とか、“から揚げ”…とか、踏みたくなるんですよ。しかも今言った“踏みたくなる”でももう頭の中で踏んでるんですよ(笑)」(「Freestyle MC Battle.com」より)。ビートメイカーとライマーは同一の技術を持っているのであり、それはすべてのものを商品として自らの内に飲み込んでしまうような資本主義的な平坦さである。

 押韻の法を実践の場に移すことに困難が伴ったことはよく知られている。その最大のものは日英の文法、語順の相違であった。そこでKダブシャインは倒置法や体言止めによる「ラップの言葉」を開発した。この語順の転倒という技術的な操作がなぜ可能になったのかということがここでの問題となる。これはビートメイカーたちの仕儀と地続きのものであることは確かである。彼らは良いソースを見つけると「頭の中でループさせたり、チョップして順番を入れ替えたり、どの部分がヌケるのか、ピッチを下げたらどうか、などと妄想を繰り広げる」のだが、これと同様にギドラは言語というソースを様々に改変しようと試みたのである。この試行錯誤を可能にしたのは、「ありとあらゆる楽曲」から権威をはぎとり、同一平面上に置いたヒップホップの技術であり、ギドラはその技術を言語(ラング)に応用したのだ。しかし、これをポストモダンな方法だと言うことはできない。瀬尾育生は、『戦後詩論』において、モダニズム詩人の技術の両義性について書いている。大衆化、都市化の時代を生きたモダニスト詩人たちは近代国家というものから自在な存在であり、彼らは(ビートメイカーたちと似て)言語の編集的な能力において詩作した。これはナショナリズム批判として機能していたのだが、国家というものに思い入れを持つでも、強く反抗するでもなかった彼らはそのために戦時下において戦争賛美へと傾き、ナショナリズム的なイデオロギーを賛美する詩作品を作った。さらに驚くべきなのは、戦後、彼らが持っていた言語の編集的な技術を用いて、戦時下の自らの作品の一部を改変、消去することによって、作品から政治性やイデオロギーを隠蔽したということである。このように技術は両義的なのであるが、ギドラにおいてもこれは妥当する。彼らは文法や語順といったものを自在に改変することが出来たが、これを文法や語順といった制度からの逃走であると言うことはできないのである。なぜなら、この語順の操作に前提されているのは、意味や内容といったものの定立だからである。ギドラのラップは、ただ記号が浮遊しているだけのポストモダンな空間などではなく、むしろそのことが意味や内容の同一性をより強固にするためにはたらくのである。意味が固定的であるために、形式的なものはいくら操作しても構わないという姿勢がギドラの技術には潜んでいるわけだ。「偶像崇拝性概念」「人間ミートローフ」といった『空から』に顕著な、言語の強引な結合の仕方を、例えばマニエリスムと呼んでみてもよいが、それは命名の問題に過ぎず、重要なのは上記のような布置においてそれが可能になるということである。

 この技術的な両義性はむろん押韻においても問題となる。ヒップホップ的テクノロジーの観点から言えば、ビートメイカーがすべての音を同一平面上に置き、「サンプルソース」だとしたことと同様に、ラッパーはすべての言葉を押韻の材料にしてしまう。押韻とは偶然的に言葉と言葉が出会う場所であり、材料の組み合わせ方が押韻の質を左右する(「とくに重要なのは組み合わせ あるに決まってる踏み合わせ」)。この技術は、意味性への依存をより進行させるのである。ギドラが語順を操作したのはそもそも、偶然性の高い押韻にとって不必要な助詞や助動詞の排除という目的のためであった。それらが不必要であるのは、九鬼周造の言うように「種類の少ない品詞」だからというのもあるが、同時にそれらの語には押韻において比較されうるに十分な意味というものが含まれていないことも理由として挙げられる。そして、ギドラの押韻においては、押韻する二語の意味の差異の距離が測定されることが絶対条件であった。ここではすでに形式か、内容かという問いは無効となるのだし、意味を通しながら韻を踏むことを「不可能を可能にした」のだと言うこともできない。むしろ、押韻は意味性に対する信頼から可能となったのであり、両者は共犯関係にあるのだ。

 また、さきに、ドゥルーズ『差異と反復』における同一性に担保された差異ということについて触れ、押韻という空間に引き出される語からは強度的な差異が排除されていると書いたが、これについてはすでに明らかだろう。「ありとあらゆる」言葉にアンテナを張り、材料とするような浮遊する記号をさまようラッパーたちの方法が、意味性への盲信と結びついているために、同一性から逃れることができないのである。

 押韻と意味について、ギドラ自身はどのように考えていたのだろうか。『空から』では、次のように歌われる。「シークレット・コード まるで暗号の様に/乱雑に羅列される物語/韻先行で繋ってく物語/その中に隠れた意味染み込みます」(「空からの力(Part 2)」)、「深い意味知り韻に感動/秘密の暗号技術を完成」(「行方不明」)。このように、押韻が使われたラップの言葉は暗号のようなものとして考えられていた。暗号とは言うまでもなく重大な意味を隠し持った記号の羅列である。「乱雑に羅列」された記号の群れは確かにシニフィアンの戯れによって偶然的に紡がれてゆく「物語」のように見えるが、そのこと事態が隠された意味を神秘化している。暗号的な押韻の言葉を聞くわれわれは、まず「深い意味知り韻に感動」することになるが、実際は意味をより深いものにするために歌詞を暗号化するのであり、押韻が用いられるのだ。したがって「内容の無いようなライムは却下」(「大掃除」)という法には転倒が潜んでいるのであり、実際「ライム」がなければ「内容」は陳腐なものであることが露呈されてしまうのであり、内容こそが押韻を必要としているのだ(押韻という制度と誰より上手く戯れるラッパーのふぁんくはこの法を再び転倒させ、「ライムの無いような内容は却下」と軽やかに歌う)。このような転倒は、アメリカから輸入されたヒップホップ的なテクノロジーが作り出したものである。なぜなら、言葉をすべて押韻の材料=ソースであるとする認識によって見せかけの形式主義が作り出され、不自然な(一見規則に反した)言葉の連なりを可能にしているものの、全ての言葉がコンテクストから切り離されるような布置を可能にしているのは意味性、内容の同一性だからである。

 では、以上のように注意深く保護される主題は『空から』においてどのようなものなのか。ギドラはアメリカから輸入された法に従って、社会の不正や悪事を摘発するラップを歌う。Public EnemyKRS-ONERAKIMなどに代表されるようなラッパーたちの影響であろうが、ともかく「本質見抜く頭脳活用」(「見まわそう」)し、社会の隠れた悪事を発見することがヒップホップ的な法の重大な事項であるという姿勢をギドラは持っていた。このとき、ギドラは啓蒙的になることを要請されてしまう。法を輸入することとそれを発効させることは別の問題だからである。実際、『空から』20周年のインタビューでDJオアシスは次のように証言している。「日本でヒップホップやるならば、やっぱり何かしらそういうコミュニティとかそういうものまで構築していかないと、ちょっとした流行りみたいなものとかになるのは絶対嫌だったし」。日本語での押韻という法の輸入とは別に、ヒップホップという法が実際に効力を持つような「コミュニティ」を作ることまでギドラには課せられたということである。そこでギドラは法とその実行という二つの要請の間で分裂状態に引き裂かれてしまう。なぜなら、法は社会や権力を批判することを説くが、しかしギドラはコミュニティ=シーンの中では権力を必要とするからである。そのため、ギドラは体制/反体制の中間に立ち揺れ動くことになる。「もし俺が総理大臣だったら教育大事にしたかった」(「コードナンバー0117」)というように、反体制の立場は容易に権力の側へと傾きかける。しかし、もっとも注目すべきなのは権力や法と押韻が結びついていることである。

 

社会の残忍行為に堪忍袋の緒が切れたラップ界の番人

行くぞ 行くぞ 言葉のジグソーパズルの為だったら辞書だって引くぞ

フリースタイル信じてたら韻辞典は禁じ手(「見まわそう」)

 

 ここで「ラップ界の番人」という言葉は二重化している。彼は「ラップ界」を代表して社会に怒りの声を上げるが、その次の瞬間には「ラップ界」を見回し、「韻辞典」を禁止する。押韻にまつわる禁止事項からさらには押韻が絶対的な義務であることも語られる。「何人のラッパーがちゃんと韻踏んでるのか数えてみよう」(「大掃除」)。「番人」は押韻について語るのであり、ギドラは押韻について語ることでシーン内における権力を作り上げようとした。このようにして社会と日本語ラップシーンの対立を実現しようとしたのだ。しかし、すでに述べたようにこの対立は不完全なままである。対立というよりもむしろ、両者は密通しているのである。暗号化された歌詞には、意味の神秘化のほかに啓蒙的な意図が込められている。『空から』において、社会の不正を見抜くことと、暗号に込められた意味を読み解くことは酷似しているし、どちらの場合にも同じ「本質見抜く頭脳」が必要となる。ギドラの歌詞を読み解くことは、社会の不正に騙されないための練習ドリルのようなものとなるのである。しかし、その啓蒙的な意図はギドラ自らが批判の対象であるはずの社会に近づくということにほかならない。「意味あるサブリミナル効果」は社会の不正を指しているが、これは暗号的な押韻についても言えることである。そして、このような「サブリミナル効果」を発見し批判するがしかし、彼はすぐさま犯人を逮捕した警察のような口振りで「今何時?現在時刻」と確保の瞬間を記録しようとするのである。

 押韻が法やイデオロギー、権力といったものと結託するということは、法とその実践の断絶を飛び越えようとすることであり、そのためギドラは不安定な立場に置かれていた。つまり日米、体制/反体制といったものの真ん中に立っているのである。そしてこの根源には押韻の問題がある。日本語ラップの誕生の契機となったのは、KダブシャインがRHYMEーRAPという換喩表現が日常的にアメリカで用いられていたのを知った瞬間である。彼は換喩表現をイコールでつないでしまったのである。換喩関係を等号でつなぐこと、論理階梯を混同し、断絶を無理やり結合すること、模倣を徹底すること。この押韻を巡る試み、欲望が日本語ラップの起源である。そして、換喩を等号とひそかに入れ替えるという試みは、『空から』において押韻主義を生み出す事にも加担するのである。収録曲「フリースタイル・ダンジョン」では、ラッパーたちが闘争し、競争するような「迷宮」が描かれるが、「ラッパー宣言すりゃお前もすぐ住人」と歌われるようにラッパーならば誰もがそこの住人にされてしまう。シーンとは実際このようなものであり、Zeebraの「シーンにコミット」発言は二十年近く前に発表されたこの曲ですでに言われていることである。「逃げてるだけじゃ出られない迷宮」のようなシーンは弁証法的な息苦しさが支配している。このようなシーンが押韻と結びつくときに押韻主義は生まれる。そこには無理のある結合があり、「ラッパー宣言」したとたんに、「シーンにコミット」することを強制され、さらに「何人のラッパーがちゃんと韻踏んでるのか数え」る「番人」の監視下に置かれるのである。このような法の暴力が可能となるのも、押韻という技術のおかげである。なぜなら、言葉をすべてソース=材料として認識し同一性に担保された差異を生産するような技術が、ここではさらに拡大しているからだ。同一性を平等に、差異を個性と言い換えるような拡大である。押韻主義はラッパーの価値を韻の質と等号で結びつけるものだが、ここではすべてのラッパーは同一平面上に置かれる。語同士の比較を可能なものとし、語の意味の距離を測定するような押韻空間は、ラッパー同士の比較が可能なシーンという空間に拡大されるのである。これが押韻主義の起源である。例えばKREVAスタイルという押韻主義の空間がBBPのMCバトルを支配していたとき、ラッパーたちはフローや身体性やバイブスなどという価値基準をほぼ知らなかったと言ってよい(唯一それを知っていたのはKREVAだけであろう)。余談となってしまうが、この空間に亀裂を入れたのが2002年の決勝を戦った漢と般若だったのであり、そのために彼らは押韻を激しく否定した。実際、日本語ラップという「言語表現」の「独自な歴史」の第二の転換点は彼ら「78年」生まれのラッパーたちの登場にある。彼らが批判するのは、日本語ラップの空間であり、時間であり、自己であり、リアルであり、そして何より押韻である。

 

 「日本語ラップ批評ナイト」で、客席からなぜ押韻という技術を特権的に語るのか、という質問があった。その場で十分に返答できなかったので、ここでその質問に答えるならば、以上のように押韻と言う技術が日本語ラップの誕生には不可欠だったからである。押韻以外のものを切り捨て、ラップをテクストと置き換えているという批判もあった。しかし、日本語ラップの起源に押韻がある限り、それを避けることはできないはずである。日本語ラップにおける押韻の深刻さを理解しないならば日本語ラップの「核心」など掴めない。

「ソレならイイ」について 不実な愚行と押韻の「限界」

 「GOLDEN MIC(REMIX)」から一年も経たない2004年2月に発表された般若のソロデビューアルバム『おはよう日本』のジャケットを見ると、真っ黒な背景に一人の男が立っています。男の右にはアルバムタイトルが赤く縁取られた白の文字で筆書されていて、日の丸を転倒したいという青臭く壮大な野望が反映されているのかもしれません。左下には、真っ赤な文字で「般若」とあります。これが血の赤が連想させるのは、男が日本刀を振りかざすように持っているからでしょう。しかしよく見ると刀身が般若の首裏に向けて反り返っていることが分かります。自刃への覚悟です。左右に大書された文字の荒々しさとは裏腹にこの男の顔は影がちに映されていて何か静謐ささえも感じてしまいますが、それはおそらく死をも恐れぬ覚悟がそうさせるのでしょう。これらが示すのは秘められた覚悟が表出するときにも、アイロニカルな過激さをまとわずにはいられないという男の性質です。アルバムを聞いてみてもその印象はますます強まるばかりで、過激なラップの言葉の内容を辿ることは困難で、ある種の支離滅裂が支配していますし、主張やメッセージがないのかと言えばそれはラップの熱量を聞くに至ってはありそうもない話です。あまりに熱心な空転、というような印象さえ抱いてしまいそうになるほどです。では、その反対は?「ソレならイイ」という一曲はアルバムの中では過激さの小休止だとでも言いたげに、例外的に静かで切ないラブソングであるような風体をしています。ですが、振りかざした刀が自分に向いている倒錯した男において小休止はその実、急進=求心であるのかもしれません。

 

 ところで、芸術家とは聡明な者なのでしょうか、愚か者なのでしょうか。あるいは、技術とは理性的なものなのでしょうか。愚かさとより優れた技術への志向は、ART(芸術/技術)においては矛盾なく共存するし、技術とは本来改変と同時にそれまで自明だと思われていた遠近法を根底から揺るがす可能性があるクリティカルな一面を持つのだという渡部直己谷崎潤一郎 擬態の誘惑』の序章におけるすがすがしい啖呵を唐突に思い出したのは他でもありません、今まさに私たちがそのような愚行としてのART、あるいはARTとしての愚行に参加するよう、「誘惑」されているからです。

 

なー馬鹿になろうぜ

 

 この誘いを聞いて、狂乱、馬鹿騒ぎといったものを思い浮かべたなら肩透かしを食らってしまいます。例えばZeebraのファーストソロアルバム『The Rhyme Animal』に収録された「Parteechecka」に描かれたパーティーのような。確かに、そこでは「一晩中 HIPHOP BEATS」が鳴り響いていて、「人ゴミ」が揺れ踊り、中には「デルモ級」の美女もいたりして、みなが酒をあおったり、「赤い目」で「ブリブリ」だったり、集団的な愚行という言葉が似合いそうではあります。しかしこの曲自体、前に見た「真っ昼間」が「ハメ外す夜の部はこれからだ」と閉じられたのを受けた続編として歌われており、愚行、狂乱というにはあまりに構成意識といったものに捕らわれていますし、事実曲の中でも「金払ってんならば払っただけ 遊んでかなきゃお前の負け」と吝嗇な懐具合の勘案が見え隠れしていたり、「仕込み十分のDJブース」に構える腕利きのDJの「奴らがいれば安心」だとまで言います。経済的にも、それに見合うサービスの質の面でも、「安心」して遊べるという姿勢に明らかなように、Zeebraが描くのは日常/狂乱という二元論的な愚行であって、それはおそらく真に愚行であるとは言えないでしょう。おそらく今ここで始められる愚行とは、日常に支えられた非日常という形ではなく、秩序そのものを欠いた錯乱として行われるでしょう。

 

別に酔っちゃねー 

安全装置ってなモンは取ったぜ 裸の・・・ 今は何も要らねーよ

 

 その愚行は、素面のままで行われるべきものだと言います。あるいは、判別しかねますが、酒場で酒乱からよく聞かれる酔ってはいないという無意味な虚言であるようにも聞こえます。それはともかく、来るべき愚行への準備として彼はすでに「安全装置」を取り外しています。私たちもその姿を息を呑んで見つめます。これから何が始まるのでしょうか。しかし、予定された愚行をいざ始めようとしたこの瞬間に語り手は何故でしょうか、言い淀んでしまいます。すでに私たちは一つのことに勘付きはじめています。「馬鹿になろーぜ」と気前良く誘惑したこの男が始めようとしている愚行とは、おそらく狂乱、酩酊、忘我の体験といった内実を備えたものではないのではないかということに。あえてその愚行の内実を探るとすれば、それはおそらく語り手の語り自体、つまり今ここで歌われている言葉自体のことを指すのではないでしょうか。なぜなら、「酔っちゃねー」という真偽の不確かな発話、不意の言い淀みといった語りの錯乱をしか私たちが見て取ることはできないからです。この男の言葉の語っている内容は不確かで、その内実を推測しようにも両義的であったり、判別不能で、つまりこの男は「信頼できない話者(Unreliable Narrator)」であるようなのです。男の言葉は不実であり、この語り自体が愚行であるというのが正しければつまり、今ここに演じられているのは不実な愚行としての言葉の運動であるということです。続く「何も要らねーよ」という言葉は、単にアルコールや「安全装置」が必要ないということを示しているのでしょうか。それはおそらく違います。やはり、これは全面的に言葉の問題なのです。

 

 分かってるから喋らねー

 

 不要なのは、他でもない言葉だと言っているのです。「裸の・・・」と語りが不意に空転し、次に沈黙を宣言するこの男の語りこそがやはり錯乱しています。彼はすでに口を自ら塞いでしまいました。そのような場所からこの曲は始まっているということです。例えば試みに、「真っ昼間」のB-BOYが「ボブの歌かなんか口ずさみ」「何してんだとか言って」「昨日の夜知り合った娘と喋る」と言う風に饒舌であったことと比較してみてもよいかもしれません。しかし、ともかく今はこの男の動静を見守りたいと思います。

 

 何故だか外は雨だぜ

 背中だけ見えるソファー 「こっちへ来いよ」目でかけるオファー

 

 口を閉ざした男は、他ならぬ「目」を動かすことになります。窓の外を見つめ、ソファー越しの「背中」に視線を移し、「目」で再び誘いをかけています。「目は口ほどに物を言う」という言葉がありますが、その原義とはまた別の意味でこの沈黙した男の目は饒舌です。「外」を見つめることで初めてこの男が〈中〉にいることを知らされるということが第一に挙げられますし、「背中」が見えるということは見られている人が〈あっち〉を向いているという事実を物語ってもいます。常に「目」に映るものは、その反対、逆方向をもこの場に映し出すのです。そのような「目」の饒舌さをとりあえず説話の省略的な産出機能と名づけておきましょう(それとは別に「目」が「オファー」の言葉を実際に語っているという点も付記しておきます)。この産出機能が重要なのは、他ならない二項対立を利用した表現であるからです。語られた言葉と、私たちが行間から読み取る内容の間を、二項対立が媒介しているからです。そのことへの意識は、語りの形態として、引用部の二行目がまさに対句的な表現として二項対立の形を反映していることからも伺えます。対句表現は言うまでもなく、今まで私たちが見てきた、脚韻や二項対立といった1・1の形を取るものの一つに数えられます。

 もちろん、「省略的な産出機能」と大袈裟に言っているがそんなものは多少でも詩や小説を読めばどこにでもありふれたものじゃないか、という反論が聞こえてきそうです。確かに目新しい技法ではないことは明らかです。しかし、このテクストでの語りが示す内容は一貫して不確かで、その連関においてこのような技術が用いられているのだという点が見逃せないのです。

 なるほど、切断的な語りと、押韻や対句的な表現は、二項対立を間において連動しているのか、と大きく頷いてしまいそうになりますが、やはりこの語り手の男は錯乱していて、一筋縄ではいきません。よく考えてみると、「背中」がこちらを向いているのに、それに向かって「目」で出したオファーを相手はどのようにして受け取ったというのでしょうか。首を百八十度回転させていたのでしょうか?それともテレパシーでも送った?それは私たちにはわかりません。ともかく、この「オファー」の送受は無事完了します。しかし「分かってるから喋らねー」と男は言っていましたが、本当にこの男女は全てを理解しあっているのでしょうか。言葉もアイコンタクトも、必要ないほど分かち合い、二人でありながら一人であるような深い関係にあるのでしょうか。

 

 別にいいよゆっくりで 長めの沈黙 ぐっすり寝る?

 どのくらい互い感じるか 一つになりてえ後半日は

 

 やはり、物語は切断的に語られます。知らぬ間に「オファー」を受けた女は、「ゆっくり」と男の傍らに身を寄せますし、「沈黙」が続き、眠る素振りを見せていたかと思えば、すでに行為に及んでいます。「背中」に向けられた無言の「オファー」が受け取られるという事態からも分かるように、この場は現実的な遠近法と微妙に齟齬をきたし始めています。この引用部の「ゆっくり」「長め」「ぐっすり」「後半日は」といった語彙は、静的なイメージを文章に付与し、ラップ自体も静かに歌われるのですが、その裏では、物語は異常な加速度を示しています。語る内容と形式の間に大きな断絶が生まれているのです。

 これはフランスの文芸批評家リカルドゥーがヌーヴォーロマンへの同時代的な共感とともに著した『言葉と小説』において明快に図示した、テクストの「叙述」=形式と「虚構」=内容の間の時間の相関関係によって、読まれるテクストの時間が決まるという考えを参照しています。例えば、「百年経った」という文章では、語りの短さと語られる内容の長さ(百年)の間に齟齬が生まれて極端な加速を示しますが、「私は森を見ていた。風が木々を揺らし、夕日が・・・」と描写をするときには、語りの長さに比して語られる時間は停滞しますので、テクストは一種の放心状態にさらされます。この引用部における語りにおいては、形式の次元では静的な語彙が頻出し、時間経過も緩やかに見えますが、実際の虚構内に流れる時間はそれに比して切断的=タイムワープ的にきわめて早く進んでいます。やはり非現実的な磁場がここに捻出されているということです。「信頼できない話者」(両義的)→説話の省略的な産出(二項対立)という段階を経て、ここでは虚構と語りが激しい摩擦を引き起こしているのです。語り手は言葉Aが意味aと直接つながることを避け続けているように思えます。つまり言葉への記号論的な不審。言葉を扱う者として真っ当な姿勢を有しているとも見えますが、そんなことは言っていられません。単に男の意識は渾然とし始め、眩暈状態が徐々に悪化しています。

 しかしその前にもう一つ、ここに重要な主題を認めることが出来ます。合一と離反という二極に向かって、男の意識と身体が分裂している、ということです。そもそも互いのことを「分かってるから」と断言し沈黙を選択したこの男の言うとおり、男女が合一されているのだとすれば、行為の最中に「一つになりてえ後半日は」と、願うことが許されるはずがありません(サルトルの「自由」=「不安」がこのような意識の非定立性に規定されていることを考えれば、この部分は「意識」=「目」の「自由」さゆえの「不安」=錯乱であると要約することもできます)。合一を願っているということは、離反していることにほかなりません。この合一と離反という主題は、言うまでもなく、前回明らかとなった押韻における類似と差異という中核的な問題から導き出されています。このように考えると、押韻する二語とはあるいは男女のようなものなのではないかと考えずにいられません。他者であるが故に愛し接近しますが、もしも完全な合一を遂げるや愛そのものは消滅しますし、類似によって引き合わされた二つの言葉が、差異を持たないとしたら押韻は成立しないからです。類似と差異、合一と離反の間で引き裂かれたこの男が女を前に、何か楽天的な、例えば少しこちらが恥ずかしくなるようなラブソングで「好きな飯だって同じイタリアン チーズ好きとかマジぴったりじゃん」と歌われたような、類似していることそれ自体へのきわめて楽天的な幸福を味わうなどとは考えられません。

 

 いくつかのコップに写真立て 所詮はそうだが他人じゃねえ

 追いし追われのBACK IN THE DAY  今は噛むんじゃねえ

 

 身体的な合一の持続を願うこの男を、女から引き離すのはまたしても「目」です。見ること以外の何事かを付随させずにはいられないこの男の「目」はここで、意識をテーブルに置かれた雑貨に向けさせます。「写真立て」に映る過去の二人の姿はさらに、二人の合一と離反の狭間で揺れる関係を、絶妙の逆接で繋ぎ止めながら述懐させるに至ります。と思えば、意識は二人の過去へと遡行を始め、「追いし追われ」という注目すべき表現とともに内省のうちに沈潜していきます。ここで一度私たちはある響きに耳を奪われます。男の容態の異変を案じずにはいられなくなります。ここで今踏まれようとしている韻が、これまでの対句的表現とともになされていたような1・1格律の安定したものから踏み外されるようにして、三度、四度と繰り返され始めているからです。意識が内省へと加速度的に下降してゆくのと共鳴するかのように類似音がより多く反復されるからです。しかし、やはり今目の前で語られる言葉たちは愚行として演じられているわけで、そのような意識の直線的な流れは寸断されます。それも外部から。不意に男の身体を「噛む」女。男の追想はここで途絶し、意識は〈いま・ここ〉へと引き戻されます。この「今は噛むんじゃねえ」という怒声が、省略的に女をテクスト上に再産出し、同時に男の内と外を両射します。あまりに見事な言葉の呼吸にはっとさせられてしまいます。しかし、おそらくそんなことよりも、この男にとってより重大な事実は、「分かってるから喋らねー」と自ら宣言した沈黙を、ここで思わず破ってしまったことです。この時はじめて男自身の手によって取り外されていた「安全装置」は再起不能に陥り、男は錯乱の様相をより強めていきます。

 

押しては引き返す波 最初と今の違いは何

突き放してくれ思い切り ソレならイイ

 

 男の脳裏に映し出されるのは、波が打ち寄せる浜辺です。言うまでもなく、「押しては引き返す」反復運動が、1・1の形象としてここに現れています。 その1・1の運動を見つめて、男が問うのは女との関係における「最初と今」の差異です。おそらく、男が今聞いている波の音は、反復される類似音としての押韻と共鳴した響きです。あるいは、品のない深読みであると笑ってもらってもいいのですが、今しがた彼が行った性交のときの反復運動とも無関係でないかもしれません。

 反復を前にして、「最初と今」の差異を問うこの男は、『差異と反復』を書いたドゥルーズめいても見えてきます。しかし、重要なのは「突き放してくれ」という小さな叫びの方です。なぜなら、ここでは反復運動(押韻あるいは男女の恋愛関係)に辟易してしまったのか、その終わりを示す形象として直線的な運動をこそ希求しているからです。男は、つまり反復の向こう側へと行きたがっているのです。しかし、そんなことが可能でしょうか。おそらくその願いは叶わず、規則的な反復運動は失調し不規則性を示し始めますし、それだからと言ってテクストに直線を引こうにもその始点がどこであるべきかを見定めることさえ困難なほど、男の錯乱は一層悪化してしまいます。

 

俺たち会ったのはいつだっけ? 別にンなこたあ覚えちゃねえ

暑い日も寒い日も 苦じゃねーなとか思えたぜ

 

 男は、ベッド上で内省に沈潜していくも、女の一噛みで一挙に現実へと引き戻されましたが、その折に、沈黙を破ってしまいました。ここで示されている男の徴候的な仕草は、言うまでもなく先ほどまでと対照的な、饒舌な自問自答や感慨の独語です。女に向かって出会いの瞬間について尋ねているのかと思えば、先回りして自らその答えは不明だと言いますが、重要なのは、この物語の始原がすでに失われてしまったということです。再び、あの移り気でありながらも規則的であったB-BOYのことを想起してみると、彼の行動の半分が、「前日」に規定されていたことが示唆的です。物語=因果律は直線的ですが、今この物語は始点が曖昧なものとなり、両端が徐々に空白と溶けていくような線分として宙吊りにされてしまっているのです。

 

ほどけたね 変な縛り 言いたかねえけどあそこにゃもういない

笑えるぜ歩いてっから たまにゃ夜空眺める 馬鹿だから

 

 「変な縛り」から解放されたということ。彼を今まで拘束していたのは、1・1の形象や、物語、因果律といったものでした。今歌われる言葉は、それらからの逸脱を多いに物語っています。押韻は、1・1という形をとどめることができすに崩壊し始め、「返り韻」、AA音の連続する押韻といった形式的な症候が一層顕著なものになっていいますし、「歩いてっから」「馬鹿だから」に見られる因果律の破綻もやはり男の錯乱状態を示しています。その中でもっとも注目すべきは「あそこにゃもういない」という呟きです。女の不在を惜しむのに、なぜ〈ここ〉ではなく「あそこ」にいないことが問題となるのでしょうか。それはまず第一に男が今深い内省世界に没入しているため、ベッドで隣にいるはずの女の存在を完全に忘れ去っているのだということがあるでしょう。だからこの男はどこか一点に留まっているわけではないのです。意識を追想に任せて流動しながら、〈ここ〉でない「あそこ」というきわめて不確かな一点を探りつつ、不在を問うているのです。この時間論的な錯乱は、追想の果てに始原を見失うという物語機能の失調とも密接で、つまり何重にも不確かな磁場をこの男は生きています。

 

タガが外れた時が裸? お前とアイツで笑った「ハハハ」

流れ流れ今が大事 場所はないけど今帰り

押しては引き返す波 全部変わったかよ 知らぬ間に

 

 「タガが外れた」という一語が示すように、すでにこの男は、1・1律格の押韻から逸脱しながら、正気からもどんどん離れて行きます。それはもう自明なことで、むしろ見ていくべきは、どのような狂気の只中にあるのか、ということです。あの冒頭での語りの失調が「裸の・・・」という形で示されたことと呼応して、ここでは因果律の破綻した語りの中に「裸」の一語が共有されているということ。「アソコにゃもういない」という不在の感触が、この文章では「アイツ」の存在と、空虚な指示代名詞を両端に置いて対角線を結ぶこと。「アソコ」という不安定な空間への感覚、物語の線性への不信を前提にして、「場所はないけど今帰り」にあるという、つまりは目的のない帰途という錯乱した主題を呼び込むこと。やはりここに繰り広げられている光景は全ての「タガが外れた」、異様な(非)時空間であるようです。

 しかし、押韻との関係において見れば、あの「真っ昼間」の規則的な1・1との血みどろの戦いが展開されています。「押しては引き返す波 全部変わったかよ 知らぬ間に」というラインは、フック部分の反復、変奏としてあります。「波」が1・1という反復運動の形象であるのはすでに述べた通りですが、その反復自体がラインごと反復されているというのは何を示しているのでしょうか。「全部変わったかよ 知らぬ間に」という懐疑は、他でもなく、始原と〈今〉の間(フックにおけるこの文章と、今歌われる文章の間)での差異を問うという、やはりドゥルーズじみた問題提起なのです(同一性への懐疑)。しかし、そのことに深く立ち入るよりも、続く「流れ流れ今が大事」という声に耳を傾けたいと思います。なぜなら、「突き放してくれ」と歌われることで引かれたあの直線が、「流れ」という曲線に変化しており、さらに「流れ流れ」とその形式においては、1・1の形象を体現しているからです。どうしようもなく錯乱している、と言う他ありません。それでは、このような徹底した幻惑の中で男が行き着く果てはどのようなものなのか。

 

期待はしてないけれどなんとか いつものことだけれどもなんのさ

 

 おそらく、この言葉を聞いた人は、「できればせずに済ませたいのですが(I prefer not to)」というあの書記バートルビーメルヴィル『書記バートルビー』)の決まり文句を思い浮かべてしまうはずです。語りながらにして語ることを拒否する、この言葉の不思議な魅力に多くの偉大な思想家が夢中になったことは周知の通りですが、例えばすでに名前が挙がっているドゥルーズは、この決まり文句を「非文法的な表現」の一つに数え、「一種の限界作用」を見て取ります。(『批評と臨床』「バートルビー または決まり文句」)

 男の韻を踏んだこの言葉もそうした「非文法的な表現」であり、その文から派生する複数の可能性を一文のうちに含んでいます。「期待はしてない」ならば失望できようはずもありませんが、それでも「なんとか」ならなかったのか、「なんとか」出来ないものか、「なんとか」したいものだといった表現の「限界」を示しており、また「いつものこと」だからといって慣れていて平気であるわけではなく、だからといって怒りが沸いてくるわけでも、悲しみに打ちひしがれているわけでもありません。この種の語りは、このテクストにおいては結部での一度きりしか見つけることができません。「裸の・・・」と口を閉ざすことと、内容が何であれ語ってはいるこの表現はやはり異質ですし、「タガが外れた時が裸」という支離滅裂なナンセンスな語りとも異なります。この文の意味内容は曖昧なものであるにせよ空虚だとは言えないからです。その意味内容が「〈言語に絶するもの〉または〈不意に襲ってくるもの〉」といった限りなく空虚に近いものであるにせよ、空虚とは明らかに異質です。つまり「虚無の意思」ではなく「意思の虚無」であり、「存在として在り、それ以上のものは何もない」というわけです。忘れてはならないのは、バートルビーはこの手の言葉を決まり文句としてはじめから持っていたのに対して、この男は沈黙宣言、それの破棄、因果律の破綻した語りという語りの転身を繰り返した最後にこのような表現にたどり着いたということです。なので私たちは「非文法的な表現」の言語における意義について考えるのでなく、この男にとって、あるいは般若にとってこの引用部の言葉がどういった意義を持つのかという点を明らかにしなければなりません。

 語りの形態とともに、押韻についてもこれまで観察してきました。1・1律格→その増殖→連続的で散在する押韻。ここでは「なんとか」「なんのさ」という言葉で韻が踏まれています。一見、1・1というはじめの形に戻ったかのように見えますが、そこまで単純な話ではありません。なぜなら、「なんとか」「なんのさ」という言葉の意味内容はほぼ空虚であって、ここで思い出されるのが、九鬼周造押韻と「偶然性」の話で、そこで下策だとされていた意味内容の空虚な言葉同士での押韻が、ここでなされているからです。では、九鬼の言うようにこれは「押韻の妙味」のない質の劣った押韻であるのでしょうか。二項対立と押韻についてもすでに私たちは多少知見を持っています。押韻と二項対立が同時に行われると、類似と差異が反発しあう詩的効果が生まれるというものです。そしてそのときには「偶然性」と「必然性」がより激しく衝突するということも分かっています。しかし前回の記事では、対立は意味論的な対立でした。だから、今見ている意味の希薄な言葉同士での押韻にはそのような詩的効果が表れないと考えてもおかしくありません。「なんとか」と「なんのさ」は、きわめて音の上で類似しており、どちらも類似と差異を見分けられるほど意味論的に独立しているわけでもありませんが、確かに異なる言葉です。その相違点は、形式的なものです。「なんとか」は、バートルビーの"not to"同様、その後に言葉を接続することが可能ですが、「なんのさ」という耳慣れない言葉が持っているのは絶唱の響きのみで、別の言葉を接続することは不可能です。つまり、形式面においては押韻と緩やかな対立が共存しているのです。

 ドゥルーズは「限界作用」が「破壊的」であると言いますが、それはバートルビーが言語における関係性の「二重の体系」を崩壊させるからです。「二重の体系」とは、「一つの単語は、それと置き換えられたり、それを補ったり、その代わりに選ばれたりする語をつねに想起させる」ことと、その置き換えの可能を支える、言語を構成する諸相、つまりは「言語行為」のそれぞれの位相(コンテクスト、テクスト、文法など)のことです。これはおそらく前回私たちも参照したヤコブソンの「選択」と「結合」の理論を下敷きにしていますが、コードの内部(「選択」の体系)においても、またコード自体(「結合」の体系)も同時に擾乱することは、完全な、言語の「蕩尽」です。つまり、あらゆる可能性を食い尽くしてしまうということ。

 あらゆる押韻の可能性の「蕩尽」こそがこの場で行われています。九鬼の言う「偶然性」の高い言葉同士での押韻も、二項対立と押韻も、「なんとか」「なんのさ」という押韻の「限界」のうちにあり、押韻という概念、あるいはこういって差し支えなければイデオロギーを崩壊させうる「破壊的」な表現であるのです。「偶然性」を支えていた意味論的な距離の測定は失調し、それでもなお形式的な対立は残っていますが、押韻におけるシニフィアンシニフィエの結合部は脱臼させられています。

 

 最後に疑問が残ります。般若が遠くドゥルーズと並走していたということは、彼がスキゾ・キッズであるということを示しているのでしょうか。つまり、あらゆる権威や制度から逃走する者であるのか。それはありえないと断言できます。バートルビーの「決まり文句は行く先々を荒らし、蹂躙し、通ったあとには草木一本残らない」のですが、確かに般若も今そのような荒地に立っていることは間違いのないことです。しかし、バートルビーのテクストを読み「最初に気がつくのは、その伝染性の性格」であるのに対し、幸であるのか不幸であるのかは分かりませんが、匿名の男の呟きが他の誰にも、般若自身にも決して「伝染」しなかったことが大きな問題であるように思われます。つまり、錯乱の中で押韻の「限界」を見たとき、その錯乱のままに生き続けることは許されなかったということです。

したがって、般若が次に直面する問題は、錯乱からの回復の過程として立ち現れてきます。全ての可能性=ルートを見てしまったとき、それでも再び走り始めなければならないとき、「GOサイン」が出たとしても、スタートラインを見つけることから始めなければなりません。つまりは、逃走をやめて闘争するために、始まりを始めること。「ソレならイイ」という否定であるのか肯定であるのか判然としない言葉を乗り越えたあと、何か示唆的にすら思える「イイ」の一語を共有しながら般若は高らかに宣言します。

 

生まれ変わるぜ 真新しい羽でも生えてれば尚更イイ  「サイン」

「GOLDEN MIC(REMIX)」について あるいは押韻と二元論

 Zeebraと般若の二人の関係は奇妙です。あるいは、奇妙なのは般若だけかもしれませんが。Zeebraは、出会ったときから現在に至るまで、彼のことを尊敬し、愛し続けています。最近では、「般若がバトルしたんだぞ」と、テレビ画面の中でその場にいる誰より早く感涙を流したほどです。それに比べて、般若はZeebraに対して愛憎入り混じる感情を抱いていました。

 二人の出会いを仲介したのは一つの伝説的なデモテープです。RUMIという少女の手からZeebraの手に渡ったそのテープは、彼がYOU THE ROCK☆と共にパーソナリティを務めるラジオ「HIPHOP NIGHT FLIGHT」のデモテープ紹介のコーナーで流れることとなります。「とりあえず聞いてくれ」と高揚した声で紹介されたこのテープに吹き込まれたラップの内容がなんと、このパーソナリティ二人を含む当時の数少ない日本のラッパーたちに宛てられた過激な批判であったことはよく知られている通りです。「真の末期症状はここ東京 ってそれしか言えねーてめーらほっとこー」「大して偉くも凄くも上手くもねーのに『ああじゃなきゃダメ』『こうじゃなきゃダメ』ってああ?テメーがラップ作ったんか」といった幼さと稚拙さを留めたラップでのディスを受けて二人のラッパーは意外にも、この「挑戦状スタイル」を評価し、「こういう、すげえ、アティチュードが必要だと思う」と絶賛しています。後に般若と名乗ることになる青年YOSHIが、簡単な自己紹介やフリースタイルを済ませた後に両者の間で電話越しに交わされた「気合入れとけ」の一語は、後に般若の「神輿」の冒頭で再び聞かれることとなります。その後、般若は三軒茶屋を拠点に妄走族を結成し、アングラな活気に満ちたラップでシーンに再び衝撃を与えます。

 さて、般若がソロデビューを翌年に控えた2003年、あのラジオの放送から7年後、般若とZEEBRAは曲の中で再会します。Zeebraの『TOKYO'S FINEST』に収録された「GOLDEN MIC(REMIX)」です。この曲は、ZeebraKASHI DA HANDSOME、AI、童子ーT、般若の「ヤバメ5MCs」によるマイクリレー曲で、それぞれが握る「ゴールデンマイク」に懸ける想いが歌われます。KASHIならば若き日のラップに打ち込む姿を、AIならば時代の閉塞と個人の自発的な行動による打破の呼びかけを、童子ーTならば日本でヒップホップシーンを作り上げた男の一人としての覚悟を歌います。Zeebraは何を歌うのでしょうか。「オーバーグラウンドじゃ唯一のリアルSHIT BAD BOYたちの願望満たすDREAM」というラインに集約されるように、シーンを統率するリーダー的な姿勢を打ち出します。ここでのZeebraがオーバーグラウンド/アンダーグラウンドの対立を念頭に置いていることは明らかです。成功の、ヒップホップ的な証として、「車」「LADIES」「ペントハウス」といったものを列挙しながら、「だが未だ渋谷の街をクルーズアラウンド」「未だ夜のクラブでおふざけ 若手と朝までトップ・オブ・ザ・ヘッド」といった「ストリート」や「現場」という日本語ラップ的なアングラの符牒を付け足すことも忘れていないからです。オーバー/アンダーという二分法を超越し、統括する存在として彼の「ゴールデンマイク」は輝くのだということでしょうか。

 このような四人の先行するラッパーたちに向けて、般若は第一声、このように叫びます。「ガタガタ抜かすな 道空けろ雑魚」。荒々しいエネルギーが炸裂した素晴らしいバースです。この曲には実は後日談があり、有名なディス曲であるDABO「おそうしき」の般若のバースで「俺をハメたつもりかおっさん 丸々全曲含めごっそーさん イー年こいて先輩面 TV画面じゃ小さ過ぎてでかいっすわ」と歌われます。般若のここでの意図は、彼を客演に呼んだのは若手のフックアップのためではなく、Zeebra自らのアングラな側面を強調しようとするためだと看破しているという脅迫と、その企みも空しく失敗に終わり、般若は自らの実力で他の四人のラッパーたちを飲み込んだのだという嘲笑です。しかし、やはりこのような反抗はどうにもZeebraからの影響の大きさの裏返しではないかと思ってしまいます。実際の、「全曲丸々」般若が食ったというバースでもZeebraへの過剰な意識が顕わになっています。

 「例えばカチコミ 例えばフリースタイル 例えばディスるな はあ?そりゃ無理っすわ」のラインがZeebraの同曲内の「例えばLADIES 例えば車 例えばクラブでの大盤振る舞い」への過敏で過剰な反応であることは言うまでもありません。しかし、さらに注目すべきなのは「例えば核心突くぜZeebra」という一節です。Zeebraという固有名が出てきたことが重要なのではありません。「例えば核心突くぜ」という一文が、無残なまでに支離滅裂だということが問題なのです。Zeebraの「例えば」という接頭辞による列挙法への執着が、文法破綻を引き起こしているのです。般若のことを内容主義のラッパーであると思っている人が多いようなのですが、それは端的な間違いであることをここに断言しておきたいと思います。ここでも見られるようにむしろ般若は形式主義者なのです。そのことについてはまた詳しく語る機会があろうかと思います。それは置いて、今般若によって突かれる「核心」とはどういったものでしょうか。

 「アンダーグラウンドが一番タフ」だと言います。もちろんこれはZeebraの「オーバーグラウンドじゃ唯一のリアルSHIT」に対する反発として歌われていますが、実はこの命題は問題の多いものです。なぜなら、多くのラッパーやヘッズたちがこれを振り回すことで自らの不遇から目をそらし、精神的な慰めに悪用されることとなったからです。これは言うまでもなく二元論的な思考法です。般若のこのバースにおいて、それは徹底されています。「ディスるな はあ?そりゃ無理っすわ」「芸能界知らねーな え?兄弟 引かねーわ」「渋谷の街を生き抜く奴 おー?取ってみこのマイクカス瞬殺」といったラインはそれぞれアングラ的なものの優位を執拗なまでに、過激さとともに説いています。その執拗さは、アングラ的なものを顕揚する際に全て対話という形式を取るという点にも及んでいます。つまり、疑問形と応答に、二項対立のそれぞれの項が割り振られ、疑問に否定で答えることでもう片方の優位がより強調されるということです。「芸能界」はオーバー的なものとしてテクスト内に呼び込まれますが、それを否定することでアングラ的なものがより強固なものになるという、つまりオーバーなものはここで「否定的媒介」として機能しているということです。

 言うまでもなく、このような般若のやり口は偏狭な二元論的思考法であるとして批判にさらされてもおかしくありません。しかし、重要なのは、純正の「アンダーグラウンド」としての立場を保持しようとするときの並外れた強度と過剰さです。対話形式を用いてわざわざアンダー/オーバーの衝突の場面を何度も描くという怨念の深さです。般若は、何を意図しているのでしょうか。一言で言えば、Zeebraを徹底的に批判しようとしています。そもそも、Zeebraはシーンの頭領として、アンダー/オーバーに関わりなく全てを統括したのだと説きます。その態度を、すでに見たように般若は「おそうしき」において皮肉交じりにディスしています。では、Zeebraの何が問題なのか。Zeebraのこの二元論を前にしたときの思考法は、弁証法的であると言えます。「オーバーグラウンド」にいながら、ストリートに足を着け、「リアルシット」を歌うことが出来る存在であるのです。この弁証法的な思考法の浮薄さを般若は暴き出します。なぜなら、弁証法的にアウフヘーベンされたラップに、真の批評性など宿るはずもないからです。二元論の最大の問題点は何でしょうか。例えば、男/女の対立に関する言説は、残念ながら現在でも見かけることがあります。男がこのような点で優れている、いや女は云々といったものです。この議論の最大の問題は、単に解決が不可能だということではありません。議論がされればされるほど、男/女という二分法を支える隠れた第三項を保存、強化してしまうのが問題なのです。つまり、男女の対立についての言説が生まれるたびに、人間は男と女のどちらかであるという第三項は批評から逃れ、性的マイノリティの抑圧に手を貸すことになるのです。

 Zeebraは、アンダー/オーバーという二元論弁証法によって乗り越えました。しかし、それでは隠れた第三項である「日本語ラップ」自体は、批評を退けたままに安穏としたままです。若き般若が覚えた強い苛立ちの内実はおそらくこのようなものであるはずです。しかし、これは事態の半面をしか捉えていません。

 

 より重大なことは、押韻二元論の深い関係です。おそらく、Zeebraと般若が私たちの知るよりも密接で複雑な感情を互いに抱いているのも、二人だけがこの問題についての自覚があったからです。日本語ラップの「核心」もここにあるに違いありません。

 「まあせいぜいスキル磨きなめいめい 覚悟決めるのはお前だKJ」「俺がNO.1 HIPHOP DREAM 不可能を可能にした日本人」「そんなみみっちい人生生きてえか ダイナミックにビッグに死にてえか」。どれもあえて曲名を言う必要のないZEEBRAの代表曲に見られるこれらの歌詞が、二項対立と押韻への自覚が歌い手にはっきりとあったことを証拠だてています。しかし、なぜZeebraにこれが可能であったのでしょうか。それは彼が「真っ昼間」という技術論的な記念碑となる作品を作り上げたからです。すでに前回みたように、この曲の最大の形式的な特徴は、1・1という整備された脚韻です。この1・1が、二項対立ときわめて近くにあるものだということは自明であるかと思われます。ところで、二項対立を押韻する二語として並置する、というこの技法は多くの場合パンチラインとして強い印象を与えます。「俺も明日するぜジャイアントキリング そのため地元でサイファーの日々」というMCニガリが即興で吐き出した奇跡的な一文や、「ディスされた分内面を見つめ ディスり合った分マイメンを見つける」という晋平太の最近の曲でも、押韻する二語がそれぞれ対照的であるとき、なぜ私たちはひどく感動を覚えてしまうのでしょうか。

 二項対立と押韻。実はこの問題意識は、時代を明治まで遡って、誰もが教科書やらでよく知っている夏目漱石のあの近代への苦悩と繋げることが可能です。蓮實重彦の『反=日本語論』に収録された「倫敦塔訪問」という有名な小文があります。「二個のものがsame spaceヲoccupyスル訳には行かぬ。甲が乙を追い払うか、乙が甲をはき除けるか二法あるのみじゃ」という『我輩は猫である』に見える一文から、漱石が直面した西洋、近代といったものの真実を暴いていきます。この猫の呟きは、まず第一に政治における選挙による民主主義の「代表」という概念の本質だと言います。つまり、国会議員は選挙で選ばれたのだから公平で、民主的な手続きを担保として政治を執り行っていると思われていますが、「代表」とは都合のいい言い換えで、実際は「勝てば官軍」という前近代的で野蛮なものと同じではないか、ということです。負けた側を排除したことを隠すために「代表」という制度があるのだ、と。民主主義を「排除と選別の体系」であると言われるとぞっとしつつもその繊細で鋭い批評眼に思わず唸ってしまいます。しかしさらに重要なのはこの続きです。「政治と言語という現象が親しく通底しあっているという事態を直視すべきだということである。言うまでもなく、言語的思考にあっては、代表の概念は表象のそれにとってかわられる」。つまり、筆者がソシュールを参照しながら説くところによれば、センテンスの任意の位置に、例えば「我輩は・・・である」の空白に「猫」の一語が場所を持つということは、その「猫」という選別された一語の裏に「犬」や「ライオン」や「夏目漱石」といった排除された言葉たちが存在するのだということです。

 さて、蓮實はソシュールを引きましたが、ここではそれ以後の重要な言語学者であるヤコブソンの理論を参照してみたいと思います。「言語の二つの面と失語症の二つのタイプ」という論文があります。ソシュールが「統合」と「配列」、あるいは「連辞」と「連合」と呼んだ二つの言語の軸を、ヤコブソンはそれぞれ「結合」と「選択」と言い換えます。例えば、前者においては「こ」「ん」「に」「ち」「は」というバラバラの音の記号が「結合」されて挨拶を意味する記号として働くということですし、「こんにちわ。」「調子はどうですか。」という二つの文章が「結合」されて、相手の体調や気分を気遣う発話として機能するということです。後者の「選択」は、上で述べたような、「排除と選別の体系」における表象作用のことを指します。ヤコブソンの面白いところは、この二つの言語の様式が失語症患者の二つのタイプの元になっているとし、ある患者は言葉の「近接」への感覚が欠落しており、もう一方のタイプの患者では「類似」の感覚がないといいます。そこからさらに、「結合」→「近接」→「換喩」、「選択」→「類似」→「隠喩」と論を進めることとなりますが、言語学の勉強はこのくらいにしておきましょう。私たちが注目したいのは言うまでもなく、後者についてです。

 ヤコブソンは言語における「選択」の様式が成立するのは、「ある点では等価であり他の点では異なる別の交代要素」の間であると言っています。それはつまり、ある言語の大まかなカテゴリーにおいては「類似」しているが、その範囲を狭めたところでは異なる記号であると言い換えられます。もちろん、これは今言語の意味的な側面の話をしていますが、音の次元においてそれは押韻の規定としても読むことができます。つまり押韻とは、(おもに)母音においては「等価」であるが子音においては異なる記号同士の関係であるからです。「GOLDEN MIC」「当然ハイ」「この世界」「頂点ライム」といった記号群は、順不同でどの組み合わせでも代置=選択可能だということです。

 しかし、押韻は言葉のシニフィエと切り離して考えることができないというのは、九鬼周造がすでに指摘しています。「偶然性」という言葉でそれを何とか定義しようとしましたが、「偶然性」とはつまり、「犬」や「夏目漱石」という記号ではなく「猫」が選別されたことに必然性がない、ということですし、「GOLDEN MIC」と韻を踏むのが「当然ハイ」であっても「この世界」であってもよいということです。偶然性が高ければ高いほどより「押韻の妙味」は発揮されると、説いています。その偶然性は、押韻する二語の音の類似の度合いと意味の差異の度合いによって規定されます。しかし、これが書かれたのは百年近く昔のことです。日本語で押韻を行うことが珍しく、困難であったときのものだということです。九鬼が意図したのは、日本語の文法上押韻が困難だという押韻否定派への反論でした。いまや誰でも簡単に日本語で韻を踏める時代にあっては、助詞助動詞で踏むよりも名詞や動詞で踏むほうがより良いと言われても、あまり役には立たないでしょう。では、十分に偶然性を備えた押韻の中で、それよりも数段「押韻の妙味」が発揮されるのはどのような場合なのか、と現代の私たちは問わねばならないでしょう。

 その答えが二項対立と押韻です。ヤコブソンの言う言語の「選択」の理論を次はこのように言い換えたいと思います。「選択」が可能な記号群は、ある次元においては類似を押し出し、別の次元においては差異の方が前景化される、と。つまり、「犬」「猫」「ライオン」といった記号は、大きな視野のもとに眺めれば動物であるという点で類似していますが、もう少し微視的に見ると、「猫」と「ライオン」は同じネコ科であるから「犬」という記号は類似よりも差異として見られる、という風なことです。では、二項対立とはどのようなものでしょうか。黒/白という対立は可能で、なぜ黒/光では不可能なのでしょうか。言うまでもなく、黒白二つの記号は「色」という「ある点では等価」な記号であるにもかかわらず、「色」の記号群の中では対照的な二つであるから対立可能なわけです。二項対立に潜む第三項とは、巨視的に見たときの「等価性」「類似性」に他なりません。

 整理してみましょう。普通、言語の「選択」はある点で共通部分を持つ記号同士の間で行われます。押韻とは、音の次元における「選択」可能な記号群から任意に選ばれた言葉同士です。二項対立とは、「選択」可能な記号群において、対照性を持つゆえに特権的な二つの記号です。対照的な二つの記号がなぜ特権的なのかと言えば、二つの記号が関係を結ぶからです。その関係は類似と差異の互換関係です。「大きく見れば類似しているのに、小さく見れば差異が最大なもの」こそが二項対立です。つまり、類似による引力と、対照的であるがゆえの反発力がせめぎあうのであり、磁石の同じ極を近づけると反発するというような場面を思い浮かべてみてもよいかもしれません。

 二項対立を押韻によって並置するときの、詩的効果の理論的な根拠はこのようなものとなるでしょう。二項対立における記号の等価性に加えて、母音の一致という音の等価性が重ねられ、それが押韻によって並置=接近させられるや、カテゴリー内における最大の差異が強烈な反発力とともに噴出するということです。もちろんこれを九鬼周造流に、次のように言い換えることも可能です。押韻と二項対立が共存するとき、音の類似と、記号のある次元における等価性により邂逅=並置された言葉は、邂逅の瞬間において二項対立という必然性=意味論的な関係に解体され、絶大な「妙味」を発揮するのだ、と。

 般若がZeebraから受けた拭い去ることの出来ない影響は、この二項対立と押韻という技術論的なものです。このことにかけては他を圧倒するほどラッパーとしての嗅覚が鋭かったのがZeebraです。K DUB SHINEが政治的な問題に関心を向ける間に、RHYMESTER押韻と論理性の段階で足踏みを続けている間に、誰よりも早く押韻の本質を先取りしていたのです。般若がZeebraをリスペクトするのは、彼のラップの最大の動力となっているこの問題の先駆者であるからにほかなりません。般若のラップにおける二項対立と押韻については、後に語ることになりますが、現段階では「こびり付くひでえ事 でもなぜか残らねえ綺麗事」「ブタの安心 狼の不安 面倒くせえまとめてクラッシュ」「母ちゃんはすげえ綺麗 父ちゃんはブレーキねえ」「三年前の今日は分かんねえ 三年後の自分は変わんねえ」といった歌詞の引用をするに留めておきます。

 

 いまだ私たちは、般若と言う存在の周囲を旋回するだけで「核心」へと接近するには及んでいません。般若は「履歴書」という曲でも、「GOLDEN MIC(REMIX)」について歌っています。「そうだあん時ZeebraのLIVE いつかの渋谷でGOLDEN MIC 本刀背負って横付けバイク プンプン臭うぜアウェイなバイブ 知り合い?一人もいねえよ絶対 何故だか客席から出る設定 女子便前にて本刀片手 『怪しい者ではないです おれは』」。自嘲的に語られるかつての般若自身ですが、このライブで彼は発売間近のソロデビューアルバム『おはよう日本』についてこう語りました。「この曲より百万倍、かっけえからよ」。そのアルバムには、やはり支離滅裂でゲリラ的に暴発しては煌めく言葉たちが蠢くこととなります。そして、これまでに提起されているいくつかの問題、つまりはZeebraという存在を乗り越えて、前人未踏の場所(韻)へと足を進め然るべき始まりを始めるために、徐々に前進しています。その歩みの進行に従って私たちも般若へと接近していくことになるでしょう。般若からの誘いの声はすでに聞こえてきています。

 

なー馬鹿になろうぜ 「ソレならイイ」

 

 

 

付記

この押韻二元論にまつわる二人のラッパーの対立は、さらに大きな問題へと繋がっていることは明らかです。押韻が、言語のシニフィアンの面における「選択」の過程を経ているならば、蓮實が指摘した言語と近代政治システムが通底するという事態から示唆されるように、押韻はきわめて近代的な言葉の技術であるとも言えます。そのような観点に立ってみれば、先日、佐々木敦東浩紀が主催する批評再生塾の最終課題として提出された吉田雅史「漏出するリアル ~KOHHのオントロジー~」に描かれたKOHHと志人と、これから私たちが見ていこうとする押韻についての最大の思想家である般若は共闘関係にあると言えます。なぜなら「漏出するリアル」は、「『昭和90年代』をテーマ」にすることを課題として書かれたからです。KOHHは、「韻を『省みない』」ラッパーで、そのリリックのセンテンスはぶつ切りにされていて「林立」していると言います。それに対して志人のラップの特徴は「途切れることのない流れ/フロウを重んじつつも、小刻みに、そして執拗なまでに韻を踏みながら、言葉を千切っては投げ、千切っては投げる、流れと切断のハイブリッド」だとされます。反復する小節と軌を一にした脚韻、あるいは小節を偶数的に捉えるという態度、つまりはZeebraの「真っ昼間」的なものが、おそらく「昭和」的な仮想敵とされ、そこから逃走した二人のラッパーであると言う風に描かれています。ならば、「昭和の残党」を自称する般若はどのような立ち位置にあるのでしょうか。般若において、逃走と闘争をイコールでつなげることはありえません。「昭和の残党」として、昭和的なもの、つまりここでのZeebraから逃走することはなく、徹底的に闘争することでしょう。

般若論に向けて ZEEBRA「真っ昼間」について

 この記事はZEEBRAの「真っ昼間」というクラシック曲についてのものになるのですが、その目的は端的に言って般若を語るため、というものです。般若についていつか、誰かがしっかりと語らなければなりません。般若がもっとも日本語ラップ的なラッパーだからです。日本語ラップ的といってもよく分かりませんが、押韻が中枢にある音楽のことだと言っていいでしょう。ZEEBRAと般若には明らかな影響関係を認めることができますが、それと同時にその間には修復不可能な断絶があるようにも思われます。しかし、その般若のあとに誰が続いているのかと問われると答えに困ってしまいます。誰も般若という現象について考えていないのです。そのような意味で般若について今一度語ることが不可欠であるはずです。そして何より、私は誰よりも般若に魅了されているのです。

 そのためにはまずZEEBRAについて、ここでは「真っ昼間」という曲を聞かなければなりません。その理由は、この曲及びZEEBRAのソロデビューアルバム『THE RHYME ANIMAL』が日本語ラップの「教科書」「お手本」になることを目的として作られたという作者自身からの証言通り、きわめて形式的に整理されたものであるからです。そしてある一貫した物語を語りながら押韻をするという日本語ラップの基準となる形を作ったのです。

 確かに、この曲以前にキングギドラの(というよりはK DUB SHINEの、ですが)「スタア誕生」は一人の少女の一生ライミングとともに語るというものでしたが、押韻の形式を見ると「真っ昼間」ほど整ってはいません。「真っ昼間」の最大の特徴は、二小節毎に一度の押韻を行うという形式です。つまりこれは脚韻の最小単位であるということで、安定しています。では物語内容はどうでしょうか。こちらは説明不要な気もしますが、B-BOYの平凡な一日を描いています。つまり、押韻も、物語もとても退屈で禁欲的な作品であるということです。内容も形式も、思いっきりシンプルなものになっている、という風に見えます。しかし、内容と形式を極小にまでそぎ落とすことで反対に押韻とラップというものの限界を暴いているということが明らかになっていくようなのです。

 

 ということでこの曲をじっくり見て行きたいと思います。

 「午前十時部屋の中はすでにサウナ この暑さじゃ目が覚めちまうな 冷房ならあるが喉に悪いし 朝起きたとき気分だりいし」という歌い始めですが、一日の初めから丁寧に語りだしています。そして暑さに疲れたこの男が「復活のシャワー」を「ボブの歌かなんか」を口ずさみながら浴びるという場面はよく知られていると思います。さぞ気持ちのよかったことと思いますが、残念ながらそのリラックスタイムは「うなる電話」によって中断させられてしまいます。彼は「ハードワーク」を予感して電話に「焦って出て」みるのですが、なんのことはない、「ただのイタ電」でした。夏のよく晴れた日につまらないイタズラをするなんてと「呆れ」ながら、再び洗面所に戻って「歯磨」きを済ませ、「街に出る支度」をします。「Tシャツに短パン」を身にまとい、「葉巻と冷えたシャンパン」を持っていきます。

 これが第一バースの物語内容です。いくら物語が単調な一日であるからといって、この男の言動に何の意味もないと決め付けるのはリスナーの怠慢です。私はこの男の行動から何かを探り当てたいのです。そのときにヒントになるのが一度ずつの押韻という厳しい形式です。当たり前の話ですが、一度の押韻で並べられる言葉は二つです。あるいは、一つの母音のセットが二度繰り返されるとも言えます。つまり、この曲のリズムは1・1という律格に支配されているのです。その二つで一つという押韻の形は、この第一バースの細部とどうやら深い関係があるようです。実際この歌に出てくる男は朝シャンをして「ゴシッゴシッ」と頭を洗いますが、この擬音が押韻の1・1の形と同じであることは言うに及ばないでしょう。また、シャンプーを終えて電話に出てわざわざ再び洗面所に戻るという反復運動もきちんと歌に描かれているのですし、「開くタンス」から出すのは「Tシャツに短パン」の二つ、さらに数ある持ち物の中からとくに描かれるのも「葉巻と冷えたシャンパン」という二つの物なのです。やはり二つで一つという形式がこの第一バースの物語内容を支配しているのかもしれません。

 しかし、この1・1の押韻には別の側面があります。それはきわめて禁欲的であるという点です。押韻は類似音の反復です。反復が一度で終わるべきだなんて誰が決めたのでしょう。同じ音で何度も押韻してもいいじゃないか、というささやきにこの歌は耳を貸そうともせず、ひたすら一度の押韻にこだわり続けます。おそらく、それは物語をきちんと語るために最低限の押韻で済ませているのだ、という反論が聞こえてきそうです。本当にそうでしょうか。この歌に出てくる男の一日はなんとも退屈すぎると思いませんか。押韻を控えめにしているのだからもっと壮大な物語を歌ってもいいのに。せっかく何か波乱万丈な事件が起こりそうになったのに、わざわざそれを流産させているのではないかという疑いを持ってしまうというのは歪んだ見方でしょうか。思い出してみてください。せっかく「うなる電話に予感されるハードワーク」と男は少し高揚気味に言っていたのに「ただのイタ電」だったではありませんか。物語が起伏を持ったより面白いものになりそうだったのに何でもなかった。それはこう見ることも出来るはずです。わざわざ物語の予感を作品に取り込みながら、物語が消滅するところを故意に描いたのだ、と。これについては後でまた話すことになるでしょう。

 第二バースに移りましょう。すでに「街に出る支度」は完了していますから男は「車に乗りキーを」挿入し、「同時に窓開けて疾走」します。行き先は「いつもと同じ ヘッズ共」が「たむろする街」です。「ミックステープ」を鳴らし「クソ渋いベース」に「チル」しながら運転します。上を見上げると「セスナ」が飛んでいて、そこから「常夏の島」を夢想していると、再び携帯電話が鳴ります。今度の相手は「昨日の夜知り合った娘」で、次に会う約束を取り付けますが、道行く「他の娘に目が」移ってしまいます。

 さて、第一バースでこの男が見せた運動の形は1・1という押韻の形と奇妙に一致していました。二つセットの洋服と嗜好品、シャンプーの音、そして洗面所への二度の往復。これらは、一つの音につき一度の押韻という形式的な特徴が物語世界へと反映したものであるかように思われてなりません。では、この第二バースはどうでしょうか。1・1という対立の形象など消え去ってしまっているではないか、と言う批判を少しこらえてください。確かに、第一バースで何度も見られたような押韻の形と歌詞の細部の照応は見つけることができません。しかし、この1・1という形、あるいは押韻という技術そのものについてもう少し深く考えて見ましょう。読者を馬鹿にしているのか、と怒られそうですが、二つのものが1・1の形に並置されるということは元は1であったところにもう一つ似た物がくっつけられた、ということです。それなら、こう言い換えることは出来ないでしょうか。任意の1がひとたび出てくると、もう一つの1が必ずついて回るのだ、と。押韻を例に取ればよりそのことが明瞭です。常にラッパーは何かある母音の並びに対して、子音の異なる別の単語をくっつけたがっているではありませんか。押韻とは言葉に対して常に、何か別の似ている言葉を探すという行為です。しかし、一つの疑問が沸いて来ます。押韻において、踏まれる言葉A(例えば「イグニッション」という言葉)と踏む言葉B(「疾走」という言葉)の二つの言葉はどちらが優先されているのか、というものです。説明しましょう。押韻と一口に言うとき、それはAB二つで一セットの言葉の関係を言います、当たり前ですね。しかし、はじめに出てきたAはその後にBが続かなければAであることはできません。「イグニッション」のあとに続くのが「疾走」という言葉ではなくて、ほぼ同じ意味の「快速で運転」という言葉が続いたのでは押韻=AーBという関係は成立しませんので「イグニッション」はAという特権的な単語ではなくなります。つまり、Aはその後に続くBを予感し、Bが後に続くのだという確信の元にAであるというわけです。しかし、反対の立場から見てみるとどうなるでしょうか。BはAの後に付いてきたのではなく、Bが現れたことによって任意の言葉がAとなるのだ、と言う見方も出来るはずです。ややこしい話になりました。俗に言う「鶏が先か卵が先か」問題ですね。この問いの答えは出すことは不可能でしょうし、別にそれが分かったからといって何の得もありません。この問題が示しているのは、押韻する二語ABは、共通する母音を媒介にほぼ同時的に繋がると言うことです。ほぼ同時というのは、Aの時点でBは予感されており、しかしBがまだ現れていないときにはAのAとしての資格を完全には持っていないということで、先ほど確認した通りです。Aは半分BでありBは半分Aだとも言えます。

 少し長くて複雑な話になりましたが、押韻する二つの言葉はこのような関係を結びます。では、「真っ昼間」に出てくるこの一人の男の言動をもう一度観察して見ましょう。「車に乗り込んでキーをイグニッション 挿すと同時窓開けて疾走」という第二バースの冒頭に、他ならない「同時」という言葉が使われていることに注意してください。しかも、この「同時」という言葉は「イグニッション」「疾走」という押韻する二語ABの間に置かれています。それが何だ、という人もいるでしょう。確かにこれでは押韻という形式と、物語内容の連関について証拠が不十分であるかもしれません。なのでここは一度慎重に、男は鍵を挿すのとアクセルを踏むという二つの動作を「同時」に行ったというにとどめておきます。街で車を走らせるこの男は「カーステ」で「ミックステープ」を鳴らしていますが、「首でリズム」を取りながら「ハンドル」を「切る」のです。ここでも二つの動作が同時になされています。でもこのくらいならまだ可愛いほうです。空を見上げると「セスナ」が飛んでいます。運転中に上空を見るなんて危なっかしいと心配したくなりますが、セスナに「夢」を「あお」られて、「常夏の島」のことを空想し始めるのです。「思い浮かべながら」という言葉が示しているように、ここでもやはり二つの動作が同時に、というわけです。押韻する言葉同士の時間的な関係性と、男の身体はどうにも似すぎていると思います。こんなにいろんなことを同時に行うのは不可思議です。

 このように、男の身体は二重に運動を重ねられているのですが、これだけにとどまりはしません。車内に置いている「ココナツ」の香りの芳香剤と、どこかへ旅人を乗せている「セスナ」の二つの物が、男の脳内で「常夏の島」の空想へと向かわせているのですが、幾分か移り気すぎはしないでしょうか。続く歌詞はこうです。「鳴り出した携帯電話に出る」。現在法律上禁止されていることから明らかですが、運転中の通話は集中力を分散させるため危険ですね。別に安全運転を心がけなさいと言うつもりではなく、意識の分散について強調したいのです。ここでも「ながら運転」なのです。しかも、電話の相手は「昨日の夜知り合った娘」ですが、電話を切ったとたんに「そこの道歩く他の娘に目が」行ってしまうという「移り気」加減なのです。移り気に次ぐ移り気。これはやはり押韻の形態と結びつけずにはいられません。なぜなら、すでに言った通り、この曲は禁欲的なまでに一音につき一度の押韻にとどめられているのですが、それは一度押韻すればその母音の並びにはもう興味をなくして、別の音で押韻をしたいという移り気なものだとも言えるからです。この曲の二小節に一度の脚韻という最も安定し、整理された形式は二つの特性を持っているということです。まず一つは、押韻について移り気であると言う点、そしてもう一つはきわめて規則的であるという点です。さらにもう一つが仮に「移り気」と呼べる分散性です。後者についてはすでに指摘しましたが、前者についてはどうでしょうか。この男は本当に規則的であるのでしょうか。確かに第一バースに顕著な1・1の形象化の数々はそのことを示しているかもしれません。しかしそれだけの話ではありません。思い出してみてください。この男が上空を見上げたり、空想したり、電話したり、脇見をしている間にも、車は常に動いていてエンジン音が鳴っていたでしょうし、その響きと呼応するかのように「クソ渋いベース」の重低音が、規則的な間隔で打たれていたではありませんか。しかも、男が向かう先は「いつもと同じ」場所なのです。

 夏の「昼下がり」の街には「カラフルな人だかり」が出来ていましたが、その中に「仲間」を「発見」し、「何してんだとか言って蹴り一発」をくらわせ合って連れ立ちます。しかし、次の予定があり「昼間から公園でバーベキュー」をはじめます。「ノリノリのパーティチューン」を流して、「モエ」なんかを飲んでいると、いつの間にか夕方になり、「夜の部はこれからだ」と盛り上がってこの曲は終わります。

 この男が見せる注目すべき行動は、「仲間」と街で会ったときに、「まじで偶然 いわゆる腐れ縁」と驚いている点でしょう。彼はそもそも「ヘッズ共多くたむろする街」に向かって車を走らせていたのに、何を驚くことがあるのでしょうか。とはいっても、その「仲間」が久々に会った友人だったのかもしれないので、その点はとりあえず置いておくことにしましょう。しかし、やはりここで象徴的なのは「蹴り一発 軽く入れ合って」という友情の確認作業です。蹴りを入れるというのがB-BOY流儀の挨拶であるかどうかは関係のない話です。重要なのは、ここでも律儀に「一発」ずつ互いに蹴りを入れ合う二人のB-BOYの戯れがどうしても1・1律格の押韻と似て見えることで、しかもこの邂逅の瞬間に漏れる感想が「マジで偶然」というものであり、その偶然性も、二人が「腐れ縁」だからという必然性に回収される一連の流れです。すでに私が九鬼周造を参照してブログに書いたことがありますが、押韻によって並べられる二つの言葉ABの間には偶然の類似関係しかありませんが、それが必然性に解体されたとき、「押韻の妙味」は発揮されるのです。なのでこの、男と友人の再会はまさに押韻の自己言及的な形象化だと見ることができます。

 この二人の次の行動は、すでに観察して得られた移り気な性格によって規定されているようです。蹴りを入れあったあと、「すぐに出発」してしまうのですから。さらに、出発したかと思えば「徐々に」時間を気にし始め(おそらく何度も腕時計に目をやったのでしょう)、「一時過ぎ」であることをみとめると「次の予定」に向けて移動し始めます。移り気でありながら、予定には敏感であるこの男はやはり同時に規則性を大事にしているようです。思い返して見れば、朝起きてシャワーを浴びているときも、「なんて余裕かましてる間もなく」と時間に追い立てられていましたし、今彼がいる町も「いつもと同じ」場所です。また、「次の予定」である「バーベキュー」のメンバーも「気の知れた奴ら」だけですし、そのときの印象もなんら目新しいことはなく「やっぱ最高」と夏にバーベキューをするときの楽しみを再確認するにとどまるのです。

 さて、夏の一日を過ごすB-BOYの行動を観察してみましたが、押韻との深い関係があるように思われます。しかし、ここでもう一つ、先に示唆しておいた押韻と物語についての問題がまだ残っています。きわめて印象的な「焦って出てみればただのイタ電 呆れるぜこんな空の下で」というラインが、単に夏の一日の平凡さを描くための消極的な媒介としての役割ではなく、物語の破綻の瞬間を積極的に作品内に取り込むという意図的なものなのではないか、というものです。すでに抽出しておいた情報を参照することにしましょう。押韻の本質的な特性と連関して、男は規則的でありながらまた同時に移り気だということが分かっています。物語との関係において、規則的であるという性格は、朝目覚めて夕方に至り「夜の部はこれからだ」と最後に言うまで、時間軸に沿ったきわめて律儀な語りと深い関係があるように見えます。そもそも、この曲の物語内容である男の一日は、表面上描かれていない「前日」によってすでに規定されていたのです。朝、「部屋の中はすでにサウナ」かと思われるほどの暑さに目覚めるのですが、「冷房ならあるが喉に悪いし」と、意図的にクーラーの電源を落としているのです。まさにその前日の夜の行動によってこの物語の始まりである目覚めの瞬間が導かれていると言うことです。また、運転中に電話を掛けてくるのは「昨日の夜知り合った娘」でしたし、車内のBGMは「ゲットしたばっかのミックステープ」です。「バーベキュー」もすでに決まっていた「予定」として登場します。また、朝家を出るときに持った「冷えたシャンパン」もおおよそ5,6時間の経過をきちんと反映して「ぬるくなったモエ」と言い換えられます。このように、因果律、規則性が物語の動力となっているのです。律儀で禁欲的な物語であると言う事ができるかもしれません。

 しかし、同時に移り気な男=押韻の性格も、物語を動かす片輪を担ってもいます。「セスナ」によって空想を始めること、「そこの道歩く他の娘に目が」移ること、たまたま友人と再会を果たすことなどが物語のもう一方の側面である規則性に対して綾を付けることとなります。しかし、これらは分散的で、持続性がなく、新たな物語を孕んではすぐにそれを捨て去るという絶え間ない運動、という色合いの方が強いようです。「ボブの歌」をうたってリラックスしていたのを遮断したのは「うなる電話」でしたし、「常夏の島」の空想も「鳴り出した携帯電話」によって中断せざるをえません。しかも、電話相手の女の子に「今度会おうと約束」したはいいのですが(「約束」という単語も見落としてはなりませんが)、別の娘に目移りしてしまうのです。「セスナ」「電話」、道行く女の子といったものは男にとっては偶然に出会うものです。そのことによって物語はさまざまな方向に触手を伸ばすことになります。しかし、まさにそのことによって物語は停滞、規則性の様態をあらわにしているのです。なぜなら、多くのものに偶然出会いながらも、その出会いの多さによって一つ一つの物語の萌芽は摘み取られてしまうからです。

 これらはやはり、二小節毎に一度の押韻という日本語ラップ初期の一つの技術的、形式的な達成と軌を一にしているようです。というより、その形式的な完成によって押韻というものの本質を、暴き出したのだと言ってよいかもしれません。この曲によって押韻は一つの臨界点を示しているようです。ラップは反復する小節との関係性においてその場所を持ちます。反復に対して、言葉の反復である押韻が使われます。それを極限まで推し進めたのがこの曲です。そのような記念碑的作品の中に見える物語と細部が、押韻という形式の限界や展望を映し出しているとは言えないでしょうか。

 この「真っ昼間」が一つの到達点であるとしたら、ここから次の段階へ行くのはどのような場合でしょうか。つまり、押韻の形式的な規則性の縛り、1・1のリズムや論理性の破壊、移り気が逆説的にもたらす停滞と、物語の規則性、論理性の退屈さといったものから抜け出すことがどのようにして可能になるのでしょうか。

 

 押韻と物語というものについて、一つ付記しておきたいことがあります。それは「偶然性」についてです。押韻と「偶然性」について考えたのは九鬼周造でしたが、物語と偶然について考えた人もいます。新感覚派の小説家横光利一です(ちなみに二人とも1930年代くらいに活躍した同時代人です)。『純粋小説論』という論考は、「第四人称」という問題の多い概念を提出したことで有名ですが、同時に物語と偶然性について指摘しています。「純粋小説」とは、純文学と大衆文学をミックスしたもので、それこそが文学の未来に必要だと説きながら、大衆文学が物語に偶然性を積極的に導入することを見習うべきだと言います。例えば、テレビドラマなんかで朝遅刻しそうになり、トーストを加えて走っていたら曲がり角で素敵な異性とぶつかり、恋に発展するなんていうベタな場面がありますが、もしこれに感動するとしたら、それは「偶然性」によるものです。偶然とは必然の否定ですから、異性同士が街角でたまたま衝突することに、何の理由もありません。つまり、偶然とは不可知なものなのです。不可知なものに魅力を感じるのは人間の性でしょう。偶然=不可知=感傷というわけで、テレビドラマの甘ったるいラブストーリーが感動を引き起こすわけです。もちろん、テレビドラマ程度の偶然なら、すぐに作り手の意図という必然性が垣間見えて興醒めすることがほとんどですが。

 このように考えると、押韻をしながら物語を語るというこの「真っ昼間」という曲は、「偶然性」に支配されているように思われますが、すでに見てきたように規則性=必然性も共存しています。物語と押韻という問題はこのようにいくつかまだ語りきれない問題点を持っているようです。ここでは問題提起だけにとどめておきます。

 

 さて、はじめに書いたとおりこのZEEBRA「真っ昼間」の読解は、般若を語るためのものです。この「日本語ラップの教科書」とされている曲が示した形式的な安定と、物語内容の揺れが、その後どのように乗り越えられたのでしょうか。その答えは般若という一人のラッパーに託されています。まさにラディカルでクリティカルな存在として、このような限界を打ち破ったのは彼以外に見つけることはできません。それについては、次の記事に書くつもりです。よってこの文章は般若論への序説として読まれたいと思います。そして、最後にZEEBRAと般若の間で交わされた印象的な言葉を引いて終わりたいと思います。

 

 ガタガタ抜かすな 道空けろ雑魚   「GOLDEN MIC REMIX」

 

「スキル」について ラップを聞くということ

 いつもブログを書く時はいつでも、一応しかるべき理由があって書いているつもりだ。それはまったく個人的なことかもしれないが、ライムタイプ研究への批判の記事をはじめ、反抗しなければならない言説や風潮といったものをひっくり返したいと常に思っている。しかし、九鬼周造の詩に関する著書を哲学的な思想から洗いなおしたり、比喩と押韻の構造の類似を指摘したり、MCバトルの形式的な特徴を考察するといったことは実はあまり好きではなく、実際のラップから離れることは本意ではない。ラップを聴くことが好きなのだ。ブログなのでたまには愚痴を言ってもいいだろう。別に誰に頼まれて書いているわけではないのだ。だから今回は、好きな曲について書いて見ようと思う。もちろんこれまでこのブログで取り上げた曲はすべて傑作であると信じているから取り上げたのだが、今回はもっとラップの魅力を伝えるということを第一に考えて書こうとした。やはり、ラップの言葉自体を離れたところにラップの魅力はない。作者の想いにも、経歴にもなければ、聞き手の個人的な趣味にも、心情にもない。ラップを聴くという体験。それ以外にはないのだ。

  なので今回の記事では、ラッパーたちの「スキル」に注目してみたい。五つの楽曲を取り上げることにした。

 

 KEN THE 390 「二階建ての家を買おう」

 日本語ラップが生まれた当時からシーンを支配しているのはメインストリームとアンダーグラウンドの対立で、「マス対コア」を想起するまでもない。しかし、カウンターカルチャーとしての側面が色濃い日本語ラップが、日本の音楽業界への有効な逆襲とはなりえず、シーンが閉鎖し自家中毒的な症候が見え隠れするとき、「二階建ての家を買おう」と歌うことはある程度のインパクトを持ちえた。

 KENの論点をさらってみると、つまり「例えばLADIES 例えば車 例えばクラブでの大盤振る舞い」といったセルフボーストの虚勢とは裏腹に、日本語ラップの現状は、中流家庭クラスの「二階建て」すらも買えないといったありさまではないか、というものがまず一つである。しかし、KENが抜きん出てクレバーなのは、「二階建て」の家で営まれる平和で幸福な日常というメインストリームカルチャー(ポップソングでもテレビドラマでもよい)が作り出した神話に対しても批評的である点である。つまり、何気ない日常がありがたいという言説に対して「狙うぜダントツ」「ガンガン行く」「勝つべくして勝つ」といった言葉を歌詞に差し込むことで、「幸福」はもはや自明のものではなく勝ち取らなければならないのだという日本の経済的現状を暴くことになる。日本語ラップシーン(アングラ)に対してはメインストリームを、メインストリームに対してはアングラなスタンスを取るという複雑な戦略が仕掛けられている。さらに例えば、「真っ白いスニーカー 熟練のスキル だけじゃ飽き足らず男も磨く 決して譲れないぜこの美学 いつか庭一面敷き詰める芝生」という歌詞。「毎日磨くスニーカーとスキル」と言ったTWIGYにおいて、「スニーカー」はヒップホップという文化の象徴であったのに対して、ここでは綺麗に磨かれたスニーカーは二階建ての家の玄関に並んでいて清潔なイメージへと転用されている。「譲れない美学」も引用元ではヒップホップのことを指していたが、ここでは「芝生」を丁寧に「敷き詰め」たり刈りそろえたりするときの「美学」へと変換される。内容においては日常を重視しているが、言葉の連関はサンプリング、押韻といったきわめてヒップホップ的な手法を押し出す。この二重構造が示しているのはKENの卓越した批評性である。もちろん、「マス対コア」の両方を批判するKEN自身の立場がどこかに見つけられたのかというのは疑問として残っている。「カス代表」と二項対立を踏み潰した般若にはまだ及んでいないか?

 

 D.O「悪党の詩」

 日本語の韻にはターミノロジーが必要 - 踏む.韻 fumu.in

 唐突だが、この記事。韻に「ターミノロジー」があったらあったで困りはしないが別に何の得もない、ということは前にライムタイプ研究の批判の記事で書いたことだが、「レディオ」「えるよ」「てれお」といった言葉が「韻かって言われると、もうわかん」なくて、「たとえば、『広義の韻』が母音1文字だけあってれば」よく、「『狭義の韻』なら3文字以上」ということにし、さらに「一般的に『韻』と言えば通常は狭義の韻を指すってことにしたい」と勝手に定義されてしまえば、D.Oは韻を踏んでいないことになってしまう。

 D.Oの曲のほとんどは「広義の韻」しかなされていない。末尾の一音節分だけが統一されているだけである。「悪党の詩」もその例に漏れない。ライミングという観点から見れば単調なものに見えるのだ。さらに、ストリートのリアルを歌うので、歌い手自身のインタビューでの言葉を借りれば「ドキュメンタリー」でも「映画」(D.Oは自身の企画で映画を取ってもいる)でもいいが、目新しさのない語り口なのだ。「悪党が奏でるこの歌が全土にばらまかれる頃には 山積みのままのプロブレムは少しでも片付いているだろうか」という歌いだしの回想形式など、百年単位の昔からあるような形式である。つまり、ここでも素材論的な過激さは置いておいて、単調さばかりが目に付くといった有様なのだ。

 しかし、D.Oの曲は間違いなく単調さとは程遠い。もし、単調であるという人がいるならば、ライムタイプ研究や、上記引用のブログ筆者のように、テクストの豊潤さではなくライムが好きな人で、概念にとらわれている人だと言える。

 この曲が「全土にばら撒かれる」現在時から、「転がったチャンスの隣には落とし穴が掘ってあるもんさ 危ないことが怖いなら鍵をかけて部屋にいりゃいいだけだ」という警句風の文言、「また誰かがきっとこう言うさ あいつは昔からいかれてた ぶっ殺されたか 飛んだんだ」という他者の証言を経由して徐々に核心となる「リアル」な出来事へ接近しながら、不意にその道程を切断して「ライブハウスはすでに囲まれてた」と過去形で語るときの迫力。この、語りにおける古典的だが効果的な手法を、一音節分の押韻の単調さが引き立てていることも重要な技術論的な仕掛けである。この曲では、A音の押韻であるが、「は」「が」「た」「か」など助詞、助動詞がその大半を占めており、つまり自然な日本語の文法を改正する必要がない。このことは押韻を単調なものにするとともに、一見小学生の作文風の素朴な文章を作っている。しかし、実際には単調さが反対に作品の主題である出来事を刺激的なものに映しているのだ。だから例外的に倒置法が使われている箇所で歌われるのはまさに歌詞の中心点なのだ。「今夜どっちを握るかマイクORガン」。このような仕掛けはラップ自体においても施されている。聞いてみれば分かるが、ビートの小節に綺麗に歌詞を収めたり、あえてラップを小節からはみださせたりすることで単調さを間一髪で逃れている。

 あえて注文するなら、この曲を聴くだけでは「事件」が何であるのかが理解できず、「リアル」が天皇制的に神秘化されることへの配慮が欠けているかもしれない。もちろん、コンプライアンスの問題で、そのことを赤裸々に歌えばCDを発売することはできないであろうが。しかし、D.Oが「リアル」をラップに落とし込む際に、技術的な工夫を忘れていないことが重要で、素材が何であれスキルのないラップなど聞くに堪えないのだということを教えてくれる作品である。

 

 SKY-HI「トリックスター

 すでに彼をアイドルだからという理由でディスる人はいないだろう。例えば「TYRANT ISLAND」のファストラップ、ビートアプローチ、ハードライムなどは大半のラッパーのスキルを大きく上回っていると言える。しかし、リリックの練度において、「トリックスター」は出色である。

 見ていた夢の「イイとこではっと」目覚めたときから、外では雨が降っていて憂鬱になるが、それも仕方がなく、何かをやりたいと思うが「努力」の「やり方」までは教科書に載っておらず、「誰かのくれたヒントですら」信じられる保障もないという徹底した虚構の蔓延が語り手の身の回りの現状だからである。二日目の朝も同様に快活さとは無縁で「嫌な夢」から目覚めたはいいが「現実もまあ変わり」はなく、彼は「コメンテーター」「総理」「ヒーロー」にうんざりしながらも「愚痴る暇も」なく「出勤時刻」を迎えてしまう。このような内容だが、どこにでもありそうな不満を吐露しただけに見える。しかしやはり重要なのは形式との関係である。

 まず、夢から目覚めるところから歌い始められること。夢と現実の境界が壊される瞬間から歌詞が始められるが、だからといって夢を肯定も否定もせず、反対に現実を肯定も否定もしない。夢も現実も似たようなものだと言い切る点がまず他と大きく異なる。「まあ現実も変わりねえか」。それは単に現実が悪夢のような様相を見せていると言う凡庸な比喩ではない。「データからデータ」と歌われるように、ポストモダン的な現代社会(「記号の浮遊」)のことを指しているのだ。その証拠にこの語り手の気分が鬱屈としている原因は、すべて彼の生身には一切触れない他人の言葉の浮薄さや、テレビやネットを通して見る社会なのであるから。つまり、ポストモダンな社会に信じるべき「大きな物語」が失われているのだとしたら、それはまず夢と類似するというのが一点、ということだ。そのような中では、社会に対する不満をぶつけるだけでは効果は望めそうもない。「コメンテーター」や「誰かのくれたヒント」に誰より辟易しているのは語り手自身だからだ。内実のない記号だけが流れる現実に対して、どうするか。その答えが比喩的なシニフィアンの横滑りである。キングギドラ「大掃除」や、般若「内部告発」などの用法に顕著なこの技術の要点は、単語の持つイメージを織り込むことができると言う点で、そのときに厳密に規定された意味から用法をずらすことが必須である。「内部告発」は、本来企業や団体に所属している者がその非を告発するということを意味するが、この歌では自己の内面をさらけ出すという意味に変換されている。「トリックスター」においては、例えば、「ホンネとタテマエは別コーデ」という歌詞において、批判の対象となっている現代社会の症候としての「ヒント」の信じられなさであるが、同時にその「ホンネとタテマエ」を比喩する「別コーデ」という言葉自体がきわめて現代的であるということ。続く「既読してスルーされるS.O.S」に関しても同様で、助けを求めても無視されるという救いなさを語る時に使われる「既読」「スルー」という現代的な語彙。まとめるなら、現代的な語彙を使って現代的な症候を批判するという戦略が使われていることになる。

 「トリックスター」にならなければいけないのは、現代がきわめて「トリック」的であるからで、だからこの歌詞も「トリック」に溢れている。SKY-HIの聡明さ、批評性に驚くきわめてクレバーな一曲。

 

 DOGMA「杉並区」

 9SARIグループの中でもとりわけ異彩を放つDOGMAの魅力は、過激で黒くて妖しい主題にのみ限定されるものではない。彼がボスと慕うMC漢のクラシック「漢流の極論」的な、「ストリートのリアル」の描写と言葉遊びのユーモアの間に差し挟まれる魅力的な体言止めが、2005年の新宿から2015年の杉並区へと受け継がれるとき、どのような類似、あるいは差異を見せるのだろうか。

 例えば漢の「極論」において頻出するのは、「根も葉もない」「棚から牡丹餅」「三度の飯より」「持ちつ持たれつ」といった慣用句、常套句の意図的な使用だが、「杉並区」の歌いだし「蛇の道は蛇じゃあヘビー」との技術的な呼応関係を認めることはできるだろう。また、「取り乱してすみません すでに取り返しつきません」という漢のパンチラインと、「首に紐引っ掛けちまう死ねば他人」というDOGMAのこの歌詞におけるシリアスな内容から少し距離をとってユーモラスに語る姿勢の類似。など、言うまでもなく二人の間に影響関係を見つけることは容易なのだが、重要なのはむしろ相違点の方である。

 一聴明らかなのは、ラップ自体である。DOGMAの最大の魅力は、ビートに対して大胆で絶妙な抑揚を付けながら、言葉の独特な使用法を体言止めの迫力と共にラップする点である。そのとき、押韻という技術とどのように絡んでくるかが一つの見所で、例えば次のくだり。「麻取 急接近マニュアル通り こっちもマジだ 準備いいか? いくぜマイノリティ」。ビートに対してまさに破綻寸前の語調でラップしながら、麻薬捜査官の接近への対処を逡巡しながら「マイノリティ」への呼びかけを不意に叫ぶというこの歌詞の切断的な色合いが、「麻取」「マニュアル通り」「マイノリティ」というこれまた破綻寸前の押韻の大胆さに裏付けられているという点。つまり、ビートアプローチが文法破綻とともにそのアウトローな生活スタイルの描写に呼応しながら、幻覚症状のような大胆な語のイメージの飛躍を押韻という技術を媒介として行われているわけだ。「ターボライターガス切れるまでパーティナイトじきに光るパトランプ」といった歌詞も同様で、重要なのは意味内容の一貫性ではなく、単語同士のイメージの飛躍の仕方である。言うまでもないが、一応「ターボライター」と「パトランプ」の視覚的類似と、麻薬摂取の違法性と警察の対立、「パーティナイト」「パトランプ」の押韻関係=音の類似、部屋の中での喧騒と町に響くサイレンという類似と、意味における違法性と警察の対立がこめられている。

 前にMC漢について記事を書いたとき、彼のラップは主題においても形式においても規範の外にあると言ったが、それを引き継いでいるのがDOGMAであると思う。言葉への鋭敏な感覚を重視する「新宿スタイル」の継承者としてDOGMAは見逃せない。

 

 ANARCHY「FATE

 ANARCHYについて回る符牒といえば、「暴走族」「団地」「下流」といったもので、経済的苦悩を描いた点においてシーンにとって新鮮であり、そのように受け入れられたような印象がある。出世作といってよい「FATE」もまさに「団地」をヒップホップ的なトポスとして発見したことが評価され、例えばKREVAの「江戸川ロックオン」も団地を描いた日本語ラップ作品として先駆的であるが、そこで描かれている場所はノスタルジックな色合いを帯びていて、「以下省略で現在になる」という一句がその過去性、現在との切断を証明している。反対にANARCHYは団地の惨状を現在形として歌うことが大きな相違として現れている。

 しかし、ラップはルポタージュではない。そこにSEEDAの卓言通り、ラッパーとリスナーの間を「スキルが介す」ことが重要なのだ。そこを見つめてみるとむしろルポ、ドキュメンタリーというよりも小説的な構造があらわになることに驚きを隠せない。

 「下駄箱に置き去りのハイヒール 写真の中笑顔ではいチーズ」の冒頭。「置き去りのハイヒール」が何か不吉さを暗示しながら、続く「笑顔」さえ不吉な表情に見えてくるのは、「置き去り」「写真」の二語が過去性を表現しているからである。しかし、それよりもさらに重要なのは、この曲の言葉の大部分を覆っている体言止めが「写真」のように描写の対象を静止した時間の中に置き、象徴化するからであり、その点やはりルポ的な特徴を保持しているかに見える。例えば「置き去りのハイヒール」が、父子家庭であった作者の経歴を示しているのだと言う意見もあるだろう。今の引用部の「写真」もかつて母親と一緒に撮ったものだと見ることもできよう。しかしそれなら、「耳塞ぎたくなるようなニュース 例の現場並んだままのシューズ」と、ここでも放置された靴が歌詞の中で反復され、フックにおいて「夜中の公園に裸足で」と歌われる連関についてどう説明すればよいのだろうか。あるいは、第一バースで「隣の女の子泣き声響く 上じゃ酒飲みの怒鳴り声」と団地の上の部屋からの音に苛まれたあと、「屋上からジャンプ」と団地の建物の最上階からの落下を歌詞に差し挟む上下運動。さらに、この団地の喧騒が第二バースで増大しながら「泣き止まない子供 野良猫にサイレン」と変奏されること、第一バースで「上じゃ酒飲みの怒鳴り声 白い悪魔博打が手招きパンク」という一連の描写の対象であったギャンブラーの「酒飲み」と同一人物であるかは分からないが、第二バースで「給料日に博打もうNO MONEY 聞き飽きたセリフもう飲まねえ」と博打と酒が反復されること。テマティックな連鎖が支配しているといえるが、それだけでなく、論理的な堂々巡りが金にまつわって展開されもする。「みんな釣られる 積まれたMANEY」という金の恐ろしさと「この町を抜け出す方法金」という金の手段としてのポジティブな側面。つまり、歌詞の形態として言葉同士が密接に連環しながら、直線的な物語を寸断し続けるのだ。「クモの巣」「チェーン」といった単語は、テクストの形態を自己言及的に示しているのであり、そのような救いなさは「向こうが出すまでは手出すなよ って教えられたけど正解はどう」という答えへの不審を歌い手がつぶやく動作にも端的に現れている。これら言葉の形態としての結びつきが、体言止めの連続による「写真化」の生動と相まって団地からの脱出の困難を生々しく描き出すのである。

 団地からヒップホップで成功する、という物語をANARCHYが体現していることは確かにそうであるかもしれない。しかし、この曲においてANARCHYが描くのは線的な物語が機能しない惨状なのだ。軽々しく「ヒップホップドリーム」などと言わないように。